犬も歩けば棒に当たるというけれど、世界中をあちこち旅していると、世界を股にかけたsmall worldの出来事を体験することがある。僕は5回ほどそれを体験したが今覚えているのはそのうちの3回だけだ。これも老化と一緒にやがて忘れてしまうかもしれないから書き留めておこう。
***
まだバックパッカー生活初心の頃の話だ。僕はタイのカオサンロードの古い木造のゲストハウスに泊まった。70バーツでドミトリーだ。安さだけに惹かれて宿泊を決めたのだけど、壁を見ると、「いくら安くたって南京虫に噛まれて治療代を払ったら割に合わねえや」という日本語の落書きがあって驚いた。しかし僕はまだ初心者で南京虫の被害にも会ったこともなかったので、気にもとめなかった。ところがその夜きっちりと南京虫の集団攻撃に遭遇した。様子がおかしいので夜半に目覚めてみると僕のベッドのシーツの上には百匹ほどの血をすって真っ赤に膨れ上がったダニがぞろぞろと行進を続けているのだった。その様子を僕は同室の若い男性のポケットライトで確認した時には、本当に信じられないものを見る思いでいっぱいだった。
夜中に騒ぎ立ても出来ないから僕は静かにベッドを離れ着替えをし、背中などにまだダニがくっついていないかその若者に確認してもらい、これで無事だということが分かると、ベランダに出てそこにあった別の空のベッドに潜り込んだ。翌朝目覚めると全身に噛まれた跡が見つかり、それが次第にかゆみを増してきた。それでもうこのゲストハウスにはいられないと思って別の今度はインド人経営と思われるゲストハウスに宿替えをした。
その日の夕暮れ時、ベランダでポストカードにペンを走らせていた美しい日本人女性に話しかけた。すると彼女は一瞬戸惑うような表情を見せたので、僕はとっさに、あ、これは日本人じゃなかったな、と悟ってすぐに英語に切り替えた。日本人だと思って気軽に話しかけたところ相手が日本人じゃなくて驚いたという経験は、夏目漱石がロンドン留学にいく船舶の上で経験していて、その折のことを文章にして残しているが、日本人が海外へ一人旅に出ればだれしもそのような体験をする可能性が大いにあるというものだ。
というのも日本人は外国のことはテレビのバラエティー番組で見るくらいで実体験は無きに等しいのが実情で、ましてや外国人との個人的な接触は超貧困なのだから、外国で自分と同じ顔つきをした人間を見ればすぐに同類だと早や合点して日本語で話しかけるものなのだ。文部省推薦の英語学者漱石先生だって同じ過ちを犯すのだから、これは島国日本の大きな特徴だといっていいだろう。この僕だってバックパッカー初心の頃はその間違いを犯したのだから。続く。