摸写 the begger study after Merle Hugues (1823 - 1881) France
oil 54x38cm 2014
僕は自分の所有物を自慢したがる人間を最も醜悪だと見ている。「この時計何ぼすると思う。ええ、なんぼと値を付ける。あほか、そんなんで手に入るとおもとるのか」こんなセリフを吐く人間には絶対に近づきたくないと思っている。人間は立って半畳寝て一畳それ以上は余計な生き物だとおもっている。どうしてこんな貧乏趣味になったのかといえばそれはやはり特異な幼少体験に負うところが多いように思われる。
僕の生家の近くには川崎重工という軍事関連施設があったから、太平洋戦争末期には徹底的に焼夷弾でやられたに違いない。その跡地に安物の節目だらけの薄い板で建てられたバラックのような7軒続きで二棟が向き合った長屋の角地の家が僕の生家になった。親父は小学校しか出ていないたたき上げの大工だった。まだ貧乏だったころの楽しい思い出といえばまだ僕が2,3歳の頃から頻繁に通った映画鑑賞の夕べだった。家族で夕食後出かけて冬の寒い時でも僕はねんねこという暖かい衣類に包まれて好い心持であったことをいまだに覚えている。その後兄弟が次々と生まれて母親はその世話に追われていたが、僕だけは父親と一緒によく映画を見に行っていた。このころの親父はまだ通いの大工でオートバイに乗って日の丸弁当を持って現場へ通っていた。時には泊まり込みの現場へ行くこともあった。そんな時は母子だけでじっと留守をまもるのだった。その当時職人の世界はどれも同じで一日と15日しか休みがなかった。遠くの現場へ行っていた親父が半月ぶりに帰って来た時はたいてい見事な折り詰め弁当を持って帰ってくれた。それを火を通してみんなで分け合ったのが一番楽しい家族の思い出になっている。幸せはつつましさの中にあると思うのである。
それが大いに変わったのは1960年代に入ってからだろう。敗戦国日本は1950年に勃発したお隣の朝鮮戦争の特需を契機にして好景気に転じたらしい。1960年代に入ると高度成長経済が進み家庭電化製品の普及につれ民衆の生活スタイルが大きく変化してきた。それまで6畳ほどの広さの土間で煮炊きをしていたのが床が張られ今風のダイニングキッチンとなり水道も使えるようになっていた。親父は長屋中で一番最初にそのような造作をし、その次には二階を建て増した。もうそのころには親父は通いの大工ではなくなっていて建築請負業者の看板を掲げて3人から5人の住み込みの大工さんとほかに数名の通いの大工さんを抱えて手広く商売をするようになっていた。高度成長期の真っ只中で現場は多いときには8つもかけ持ちをするという有様で商売繁盛、これで親父はブロックで一番羽振りの良い成金に成り下がったのであった。そしてそのおかげで僕は大変な苦労を背負いこむことになるのであった。
まず最初の苦労の始まりは電話の登場だった。これが我が家に備わると我が家は一転公衆電話に変身してしまった。長屋じゅう、そのほかの近所の人までがそれを利用するようになった。うるさいことこの上ない。一番腹が立ったのは百メート以上も離れた小さな家内工業の家が我が家の電話をあてにして呼び出し迄させるのである。雨の日に傘をさして百メートルも歩き呼び出し電話を知らせるのはいつも僕の役目だった。だから電話をいまだに憎み続けているというわけである。
その次に起きたのが内風呂である。それまで長屋中の人間はみな銭湯へ通っていたのである。それがうちの親父が内風呂を作ってしまったために、我が家は公衆浴場と化してしまった。近所の人が入れ替わり立ち代わり利用するようになった。その内風呂は薪で焚いていたので僕は昼間は建築現場から親父が持ち帰ってきた廃材を斧で割り、夜は狭いボイラー室で薪をくべているという男版シンデレラの生活を余儀なくされたのである。妹や弟はその時間テレビを楽しんでいるわけで、そんな倒錯した生活環境から僕はテレビも憎む様になっていった。こんな生活を中学生時代から高校の初めまで近所の人がみんな自分の内風呂を持つまで強いられたのであった。
また親父は毎晩住み込みの大工や通いの大工をねぎらって大酒を喰らうのであった。これに電話を借りに来た隣人やふろの順番を待つ人間までが加わって我が家は大衆酒場さながらに変化してしまった。親父は根っからのお人好しだったのかはたまた隣人をすべて将来のお客さんとみなしていたのかわからないが、こういうにぎやかなことが好きなようだった。建前の夜にはおふくろ迄巻き込んで車座になって夜明けまで飲み明かし、その朝は僕がご飯を炊き味噌汁を作るという塩梅だった。男であり長男であり家の跡取り息子であったはずの僕がこのように女中奉公の娘のように働かされたのは一体どうしてだったのだろう。
また近隣で最初の自家用車を親父が乗り始めたときも近隣の人のためには良く働いたが、家族でドライブを楽しむとか家族のために使うということは丸っきしないのであった。僕が学校に遅れそうになって乗せていってくれと頼んでも一度もそれに応じたことのないケチな親父だった。だから車にも僕は強い恨みを抱えていて車大嫌い人間に成長するのだった。話はまだいくらでも続くのだけど、次回に回して、僕がいかに文明の利器に反発をし、物質文明を批判し、物質主義の人間を嫌悪するかはきっとこんな過去に関係しているのだと思うわけである。