2004年4月にカナダのモントリオールに移動してそれからまたすぐケベックに住む彼女の家に移り住んだのだが、5月の初めまで雪が降るような寒いところだった。その村は白人ばかりの部落で僕が日本人第一号というのでみんな車で通りかかる時きっと僕の姿を観察するのだった。そこで油絵を始めたのは実際には6月15日でそれまでは小学校の運動場ほど広い庭や菜園の片づけをしていた。枯れ木や枯れ草がものすごい量あったのだ。それまで男手がなかったのでかなり荒れていたので僕は良い庭師となったわけだ。そしていよいよ6月に油絵を始めたのだけどそれまで鉛筆でポートレートを描いていたのとは勝手が違った。少しもよい絵が描けそうになかったのである。しかもインターネットがなかったからどうすれば油絵が上達するのか全く糸口がなかった。そんなある日ケベック市内の繁華街で一つの画廊を見つけ、ちょうどピノの2点の絵を展示してあったのに遭遇した。その絵を見た途端僕の心臓は激しく高鳴り、体は震えだし、発汗迄する始末で尋常ではなかった。原因は彼の作品があまりにも美しいからであった。そんな絵はそれまでの人生で一度も見たことがなかったのである。ああ、なんという美しさだろう。僕はこんな絵が描ける画家に成りたいのだ。そのためには何でもしようと思うのであった。そこには彼の画集が120ドルで展示即売されており、僕はその画集を見て模写を始めたならすぐに上達するという確信があった。が、貧乏な旅人である自分にはその120ドルという余裕がなかった。だから翌年日本に帰国しタクシー家業に復帰してからはPC,デジカメ、インターネット接読を購入し、ネットで彼の作品を探して片っ端から模写に掛かった。彼の出現により僕は単なる肖像画におさまらないfine artの世界にのりいれることになったのだった。
昔は美大もテレビもSNSもなかったから絵を勉強しようと思えば写生か模写しか方法がなかった。独学が基本だ。絵で身を立てたいと思えば有能な親方に弟子入りしてその下仕事を引き受けながら目で親方の技を盗むしかなかった。親方が手取り足取りして親切に教えてくれるわけではなかった。やはり独学が基本になる。だから芸は盗むものだと古くから言われている。この過程は小生の実家が大工の棟梁の家だったからよく知っている。中学を卒業してすぐに親に付き添われて田舎から自分の家にやってくる同い年くらいの若者をたくさん見た。彼らは毎月1日と15日しか休みがなかった。盆と暮れに少しのまとまった休みがあったかもしれない。けれども初めの3年間は小遣いとも呼べない低賃金で働かされるわけだ。3年の修業期間が終わると次の一年を御礼奉公と言ってまた親方の下で働く。もうこの時には一人前の賃金を取っていたのかどうか僕はそこまでは知らないが、その御礼奉公が済んでやっと一人前の大工として認められるわけである。それでやっと自由が許され、通いの大工になるもよし、ほかの親方につくもよしというわけである。僕が感心するのは誰でも3年辛抱すれば一人前の大工に成長することだった。しかし基本は芸は盗むものであって親方が懇切丁寧に教えてくれるものではないということだ。僕はそのことを幼いころから自然と観察していたので、後年外国で油絵の勉強を始めたとき独学で始めなければならないことにいささかも恐れをかんじなかった。日本人の友人に話すとみんな口をそろえて、「今から勉強して画家になるなんて無理ですよ。年齢を考えてくださいよ。そんなことを他の人に話したら笑われますよ」と言うのだった。しかし外国の友人はみな口をそろえて、「nothing is too late 」何事も遅すぎることはない、と言ってくれるのであった。ここに僕は日本人特有のネガティブなものの見方、ものの考え方を見たというわけだ。僕は今想い返してもこの重要な時期に外国で暮らせたことを幸運に思う次第である。続く。
昨夜はマイナス1度だった。そして今朝はマイナス2度である。それでもまだ暖房を使っていない。これは精神力のなせる技だ。ストックホルムの友人はあらゆる意味において僕の真似は出来ないと言っている。彼は30年前に初めて僕が親しくなった西洋人で頻繁にマレーシアで友情を交歓してきた。非常にハンサムで現地ではいつも女性の人気を集めている。彼は僕と同じ165㎝の身長ということで彼の祖国では彼のサイズに合う女性が少ないのでそれで年に一度の長期の夏休みはマレーシアで過ごすというわけだった。僕が描いた彼の肖像画をご披露したいところだけど今日は彼の話が主題ではない。レンブラントの話がしたいのである。ご承知のように彼は若くして肖像画家として大成功を納めるわけだが、図に乗りすぎて無茶苦茶な破廉恥なことをするようになって顧客から総スカンを喰い自己破産に陥り、晩年は息子の世話になるまでに貧窮したらしい。しかしこの人ほど美術史上有名な人も少なく今もレンブラントという超高級な画材ブランドのイメージを支え続けている。僕が彼の作品に初めて接したのはリスボンのグルベンキアン美術館 Museu Calouste Gulbenkian · 毎週日曜日 14:00~入場無料!で二つの大作に出会いあまりの衝撃に一時間余り動けなくなった。どちらも人物を描いているのだけど他の画家の作風とは全く異なるのだ。絵の具の盛りようもまったくちがうわけである。その迫力には見るものを圧倒する迫力があり、僕は夢中になってなめるようにして近くで運筆を確認していたら警備員からもっと離れて鑑賞しろと注意される始末だった。日本の美術館なら鎖でおおわれて1メートル以内には近づけないものだが、外国の美術館は本当に鑑賞する者にとってはありがたくできている。そして日曜日はフリーで公開しているのだ。日本の文化関係者なら日曜日こそ稼ぎ時だと言って、絶対にこんな恩典はもたらさないものだ。ここに日本社会の文化に対するいじましさと貧困と民度の低さが現れるわけだ。
そんなわけで彼の作品に圧倒された僕は翌日から彼の模写を始めた。一部をご覧いただきたい。