
外国を旅している時に日本人だと思って日本語で話しかけたら日本語が通じなかったという経験は、誰しも一度は体験するもののようで、かの漱石先生まで体験している、というあたりまで前項で書き出したのだけど、この時点ではその相手の名前を忘れていた。もう30年も昔の話だから当然なのだけど、この文章を書き始めたら不思議と彼女の名前が脳裏に蘇ってきた。彼女はスサーナという名前で南米のコロンビアから来ていた。明日の台北行きで台湾にいる親せきを訪ねる予定になっていた。話してみると昔日本人のボーイフレンドがいて日本まで行ったのだけどビザがないので入国を拒絶され、数日施設に入れられその後強制送還された過去があるのだと話し出した。それは単に旅行会社がビザは要らないものと勘違いしていて彼女にビザの収得を説明しなかった手落ちに拠るものだった。僕は余りに気の毒な話だったので深く同情を覚え、日本政府の態度にも腹を立てたりした。そんなことを話しているうちに夕食の時間になったので食事に誘うと、彼女には別に予定があってやはり一人の日本人男性と会うことになっていた。その日本人は昔の彼ではなく昨夜知り合ったばかりの旅人であった。スサーナは良かったらその食事の席に同席を勧めてくれた。それで僕はその言葉に甘えてのこのこと彼女に従ってカオサンロードに出た。
最初に言っておくべきだったのだけど、スサーナの両親は華僑の2世か3世であってそれで日本人と見まがうほど東洋的な容姿であったわけだ。年令は20代後半で本当に女優のように美しかった。おそらく彼女の一族はコロンビアでも成功したものと見えてスサーナの物腰には育ちの良さが感じられた。カオサンロードで待ち構えていた日本人男性はそれほどの背丈ではなかったが筋骨たくましい身体つきだった。聞くとお兄さんが建設会社の社長をしていて、ひと工期彼は重機を運転して御兄さんの現場で働き、その工期が終了すると半年一年とバックパッカーの旅に出るのだそうな。もう百数十か国を旅してきたらしい。どこが一番良かったかと訊いたらイスラエルだという。キブツで働けば食事とベッドが保証されているかららしい。
ともかくもその夜僕たちは楽しく歓談し早朝に空港へ向かうというスサーナにも別れの言葉を交わしてベッドに就いた。ところがこのインド人経営の宿屋でもまたしても南京虫の被害に遭ってしまったのだ。もうたまらないというのでカオサンロードから少し離れた新築に近いホテルに移動した。そこは清潔にできていて毎日何度も冷たいシャワーを浴びて、一寸刻みに噛まれた後のかゆみと闘う生活を余儀なくされた。この経験があるので以後はカオサンロードから離れたホテル、日本流に言えば土地の連れ込みホテルに逗留することにした。
スサーナとの出会いはそれだけで終わるはずのものだったけれど、これがひょんなところでまた復活するのだから全く人の世というのは面白い。続く。