貧者の一灯 ブログ

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妄想劇場・森羅万象

2021年02月22日 | 流れ雲のブログ
















10万人以上の死者を出した「東京大空襲」は、昭和20年
(1945年)3月10日でした。
第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)11月から1945年
(昭和20年)5月にかけて、アメリカ軍によって東京に対する
大規模な爆撃が行われました。

東京 辺り一面、火の海。それが当時8歳の二瓶治代
(にへい・はるよ)さんの見た光景だった。

米軍の投下した爆弾で炎を伴う旋風が発生し、すさまじい
勢いで家々の畳を吹き飛ばす。畳は道にたたきつけられ、
家具や人もそこに投げ出される。

「炎が燃え移って、人は火だるまになった」と、83歳になった
二瓶さんは語る。

二瓶さんが眠っているとき、爆弾の一斉投下が始まった。
当時の東京はほとんどが木造家屋で、二瓶さんは両親、兄、
妹とともに暮らしていた家から逃げ出さざるを得なかった。

通りを駆け抜けるうちに、ものすごい熱風を浴びて防空頭巾
に火が付いた。それを払い落とそうと父の手を離した一瞬、
父は逃げ惑う人ごみに巻き込まれ、姿が見えなくなって
しまった。

炎が迫りくる中、交差点で父を探して泣き叫んでいると見知
らぬ人が現れ、自分の体で二瓶さんを包むようにして炎から
守ろうとした。

交差点にどっと人がなだれ込んだので、二瓶さんは地面に
押し倒された。 人々の下敷きになって意識が朦朧(もうろう)と
していると、上の方から誰かが押し殺した声で「おれたちは
日本人だ。こんなことで死ぬな。みんな生きるんだ」と話すの
が聞こえた。

やがてその声はか細くなり、ついには聞こえなくなった。
折り重なった人々の下からようやく引っ張り出された二瓶さん
が見たのは、上の方にいた人たちの焼け焦げた死体だった。

さきほど自分をかばってくれたのは探していた父で、2人は
地面に倒れた後、上に重なった人々に守られる形で焼け
死なずにすんだのだった。

1945年、3月10日未明。二瓶さんはこうして、単独のもの
としては人類史上最も多くの人命を奪った空襲を生き延びた。

この東京大空襲では一晩で10万人が犠牲となり、100万人
が負傷したとされる。その大半は民間人だ。





米軍の爆撃機B29が300機以上飛来し、1500トン分の
焼夷(しょうい)弾を投下した結果だった。 焼夷弾で発生した
火炎は、約41平方キロを焼き尽くした。これにより100万人
が住居を失ったとする推計もある。

死者の数は同年広島と長崎に投下された原子爆弾を上回る。

米エネルギー省によれば広島ではおよそ7万人、長崎では
4万6000人が原爆投下の犠牲となった。

だがこれほどの被害をもたらしたにもかかわらず、広島や
長崎とは異なり、東京には公的資金を投じた大空襲の
犠牲者の追悼施設というものが存在しない。

また連合軍による独ドレスデンへの45年2月の空爆が民間人
を標的にした作戦だったとして広く議論される一方、同じく
75年目を迎える日本に対する空襲の影響については、
依然としてほとんど知られていないのが実情だ。

B29の投入

二瓶さんがあの晩に味わった恐怖は、「ミーティングハウス
作戦」と呼ばれる軍事作戦に起因する。米空軍による東京
への一連の空爆の中でも最大の犠牲者を出したこの作戦は、
45年2月から5月にかけて実施された。

作戦の大半は、太平洋地域の爆撃部隊の司令官を務めていた
カーチス・ルメイが立案した。ルメイは後年、北朝鮮とベトナム
への空爆を行い、62年10月のキューバ危機ではソ連への核
による先制攻撃を支持した人物だ。

第2次世界大戦が欧州で勃発した39年、当時のルーズベルト
米大統領は参戦した各国政府に対し、民間人への爆撃は
非人道的かつ野蛮であるとしてこれを行わないよう呼び掛けた。

しかし45年までに、こうした方針は変化していた。 41年12月
7日の日本軍による真珠湾攻撃を受け、米国は報復を決断。
42年8月の南太平洋ガダルカナル島への侵攻に続き、44年
には日本軍占領地だったサイパン島、テニアン島、グアム島
を立て続けに奪取した。

これらの島々を拠点に日本本土を攻撃する役割を担ったのが、
最新鋭の重爆撃機B29だ。

もともとは米合衆国本土からドイツへの爆撃に使用すること
を想定していたB29。英国がドイツに敗れた場合はその任務
に就くはずだったが、米国立航空宇宙博物館の学芸員、
ジェレミー・キニー氏によれば、高速かつ高高度での飛行が
可能で大量の爆弾を搭載できるその性能は、日本本土への
攻撃にも適していたという。

B29は、第2次大戦までの20年間で発展を遂げた航空技術
の集大成といえる機体だった。内部は与圧され、空調も完備
していたので、高高度でも搭乗員は酸素マスクなどを付ける
ことなく軽装で作戦を遂行できた。

このため大半の対空砲の射程外で爆撃を行え、敵戦闘機
による即時の迎撃も難しかったとキニー氏は説明する。

ただ、当初計画された高度約9000メートルからの爆撃は
目標への命中率がわずか20%と、十分な成果をあげられ
なかった。搭乗員らは悪天候での視界不良や、ジェット気流
がもたらす強風のために爆弾が標的を外れると主張した。

これに対しルメイは、機体の高度を約1500~2400メートル
に下げ、夜間に爆撃を実施するよう命令。編隊は1列縦隊を
組むものとした。

欧州における対独爆撃では、米軍は複数列の編隊による
大規模空爆を昼の時間帯に行っていた。 さらに、おそらく
もっとも重要だったと思われるのが焼夷弾の使用だ。

通常の爆弾が爆破の衝撃や金属片によって標的を破壊する
のに対し、焼夷弾は着弾すると内部に詰めた燃焼剤を
放出する。

木造建築物が大半を占める東京で、大規模火災を引き
起こすことが狙いだった。 搭乗員らはルメイの命令に驚愕
(きょうがく)した。

1列縦隊では日本軍の戦闘機から互いを守ることができない。
しかもルメイは機体から防御用の兵器をほぼすべて取り除き、
より多くの焼夷弾を積み込めるよう命じてもいた。

作戦にかかわった部隊の記録からまとめた日記の中で、
搭乗員の1人の息子、ジェームズ・ボウマン氏はこう
書いている。

「ほとんどの隊員はその日、ブリーフィングルームを後に
しながら2つのことを確信していた。

1つ、ルメイは気がふれている。
2つ、多くの隊員とは今日限りで会えなくなるだろう」

空から降る炎

45年3月9日夜、サイパン、テニアン、グアムの各島から
B29の編隊が飛び立ち、7時間かけ約2400キロの距離を
北上。東京への空襲を開始する。

翌日の午前1時半から午前3時までの間、B29の主力部隊
は計50万発のM69焼夷弾を投下した。1発およそ3キロの
これらの焼夷弾を38発ずつ収納した親爆弾が、東京の街に
降り注いだ。

親爆弾が空中で開裂すると、落下時の姿勢を安定させる
ためのリボンを付けた子爆弾が飛び出し、地面に到達。
衝撃により内部の燃焼剤が発火する。

下町の亀戸で商店を営んでいた二瓶さん一家は当初、防空
壕(ごう)に逃げ込んだが、「(中にいると)蒸し焼きになるぞ」
という父の言葉で再び外に出た。

防空壕から出たときの恐怖は想像を絶するものだった。
そこでは何もかもが燃えていた。 道路は火の川と化しており、
家々も、その中にある畳も布団もすべて炎の中だった。

人々の体にも火がついていた。「燃えている赤ちゃんをおんぶ
したまま走っているお母さんもいた」





上空ではB29の搭乗員らも熱風と火炎の威力を感じていた。
ボウマン氏が引用した搭乗員の証言によれば、眼下に見える
すべてが真っ赤に燃え盛っていた。

炎で熱せられた空気で飛行中のB29の高度が押し上げられる
現象も起きた。

一方で日本軍は反撃に出ており、別の搭乗員の記録では曳光
(えいこう)弾による対空射撃が縦横無尽に飛び交っていた。

機体に砲弾が当たることもあったが、この搭乗員は気に留めず、
焼夷弾の投下に集中した。 投下を終えると、この搭乗員の機体
は海へ向かって飛び去った。

東京から240キロ以上離れた太平洋上からもなお、空襲に
よる炎の輝きが視認できたという。 この晩の空襲で、二瓶さん
は親友を6人失った。

前日の午後に一緒に遊び、次の日もまた会う約束をしていた
仲間だった。





過去を忘れないために

戦後生まれが日本国民の8割を占める現在、若い世代が
こうした過去の出来事への関心を失ってしまうのではないか
という懸念の声も上がっている。

江東区にある東京大空襲・戦災資料センターは、空襲の
生存者のグループが少しずつ資金を集めて2002年に
オープンした施設だ。

東京大空襲の記憶を今に伝える展示のほか、中国・重慶
での日本軍による空襲も扱っている。

1938年2月から43年8月にかけて行われたこの空襲では、
3万2000人が死亡し、民間人に多くの犠牲が出たといわれる。

人々を恐怖に陥れるこうした空襲は、現在もシリアやイエメン
といった地域で実施されている。

二瓶さんは、上記のセンターができて初めて、自身の過去と
正面から向き合う強さを手にすることができたという。 ・・・