貧者の一灯 ブログ

掲載しているお話は、当ブログには著作権はありません。
掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。

妄想劇場・森羅万象

2021年02月24日 | 流れ雲のブログ




















1990年、38歳になった松坂が無名のジャズギタリストの
高内春彦との結婚を発表した。

噂のかけらもない相手。音楽界の人に聞いても「知らない」
という無名の音楽家だった。ヒゲを生やした小太りの体形は
「美女と野獣」と言われ、トップ女優と無名の音楽家の組み
合わせに「究極の格差婚」と揶揄された。

そんな世間の声に呼応するようにメディアに出てきたのが
松坂の父親だった。「結婚は認めん」と猛反対。

他に好きな人ができた”と小坂から別れを告げられたという。
プレーボーイの小坂の心を奪ったのが、女優の松坂慶子
だった。

「恋多き女優」と言われた松坂。その中のひとりが小坂だった
ようだが、松坂の恋がメディアで大きく騒がれたのは映画監督
・深作欣二だった。

「監督と女優」の関係で仕事を共にしてきたことで業界内に
噂が広まり、メディアも2人を追うようになる。典型的な
熱愛発覚パターンだった。  

深作の奥さんは元・東映の女優。映画関係者にパイプはある。
京都市内での夫の動きはキャッチされやすい。
世紀の不倫もやがて収束。松坂の周辺も静かな日々
が続いていた時だった。 ・・・



両親の後押しで児童劇団に入り、女優を目指していた松坂慶子。
高校卒業後、大映専属に。

1980年代、「火宅の人」「蒲田行進曲」などの映画で一躍、
スター女優の仲間入りを果たしたが、女優人生の起点になる
作品となったのが1971年「夜の診察室」だった。  

後に映画関係者から聞いた話は、当時の映画界を象徴する
話だった。 「本来、主演は当時、売り出し中のセクシー女優・
渥美マリだったのが、“もう肌を露出するのは嫌”と拒否したこと
で松坂が起用された。

結果的にこの映画で松坂は注目されるようになり、スターの
階段を駆け上がっていった。

対照的に渥美は松坂に嫉妬するようになって精神的にズタ
ズタになり、睡眠薬で自殺未遂を起こすなどした」  

女優がケガや病気で降板。

「内心、手を叩いて喜んだ」といわれた時代。代役にとって
巡ってきたチャンス。松坂はこの映画をきっかけに確実に
ステップアップし、松竹に移籍後もさらに活躍の場を広げて
いった。

80年代に入るとTBS系ドラマ「水中花」に主演。主題歌
「愛の水中花」がヒット。バニーガール姿で歌う松坂のセクシー
さに男性は魅了された。

世の男性を魅了した松坂は「恋多き女性」と呼ばれたひとり。
結婚相手は注目の的だったが、選んだ人は無名のギタリスト
・高内春彦氏。

休養も兼ね松坂が滞在していたNYで出会い、恋に発展した。





松坂の父親が、世田谷の家でメディアの取材に応じていた。
応接間の椅子に座った父親は、こちらが質問するまでもなく、
いきなり高内非難が始まる。

「ギタリストかなんか知らんが、収入もないのに亭主ヅラして毎日、
ゴロゴロしているだけ」と罵倒していた。

それでもかたくなに結婚を貫く娘。

いずれ和解するだろうと思われたが、「許すとは思えない」熱量
を父親から感じ取っていた。遺伝子なのか娘も父親を説得する
どころか、かたくなに父を無視。

その間、高内氏も一切、発言することはなかった。発言すれば、
火に油を注ぐことになり、父親の激高が増すことがわかっていた
のだろうと思う。  

ついには「あんなヒモみたいな男をかばう娘も許せん」と
親子断絶。

松坂は夫の仕事の拠点だったNYに移住。当地で2人の娘
を出産。

2007年、父親は孫を見ることなく他界。残された母親はやがて
介護が必要となり、松坂は家族で同居を決意。

高内氏も義母の介護と子育てをして家庭を支えていると聞く。  
格差婚といわれた結婚生活も今年で30年目。

夫に支えられて松坂の女優人生も母親役が板につき、
充実期を迎えている。かつての父親との戦いが嘘のように
思えてならない。 ・・・





母親の慶子さんに似れば、もっとかわいく成長したことでしょう。
ちなみに、子供が両親のどちらに似るか、諸説ありますが、
2015年にノースカロライナ大学医学部の研究でわかったことが
あります。それは、哺乳類の遺伝は父親の遺伝子の方が母親
のものよりも優勢的なことが判明したのです。

要約すると、父親に似る方が確立的に高いそうです。
出産は40歳を超えていて高齢出産だったんですね。

2020年現在、自宅には、93歳にもなった母親の松坂つね子
さん。もすんでいるのですが、要介護3の認定を受け、自力で
日常生活をおくるのも困難な状況だそうです。
介護サービスを活用しているんだそうです。

ちなみに、松坂慶子さんの父親は、松坂英明さんと言い、
2007年12月、松坂慶子さん夫婦と絶縁状態のまま他界されて
います。 ・・・












“90歳の郵便配達おばあちゃん”としてテレビや雑誌などで
注目を集めた清水咲栄さん。

冬になると積雪4メートルを超える長野県の山奥で、20年
にわたり、12月から3月まで、郵便配達の仕事を毎日欠か
さず行っていました。

たとえ吹雪であっても、自分の足で坂を上り、ソリで滑って
下りてくる。

そんな咲栄さんの姿はいつしか地元でも有名となり、多くの
人に元気と笑顔を与えていったのです。

ところが、咲栄さんの人生は決して順風満帆ではありません
でした。赤貧、借金地獄、愛する人との死別……。
度重なる艱難辛苦を咲栄さんはいかにして乗り越えてきた
のでしょうか。

忘れもしません。
あれは昭和50年12月12日のことでした。その前日、
一番下の娘が会社の休みの日に涌井の実家へと帰って
きていました。

昼間はとてもいい天気でしたが、その日の晩に大雪が降った
のです。

朝6時、父ちゃん(咲栄さんの夫)は長野に帰る娘を駅まで
送っていくと言って出ていったまま、帰らぬ人となって
しまいました。

その頃、まだ道路は舗装されておらず、ガードレールもない。
その上に新雪が積もっていたので、運転を誤ったのでしょう。
崖から落下し、即死でした。それから数日間、私は茫然自失。
涙が枯れるまで泣きました。

ただ、幸いにして、娘は落ちていく途中で車の外へ放り出され、
九死に一生を得ました。あの時は、娘は運よく助かったのだろう
と思っていましたが、いま考えると、落ちていく瞬間、父ちゃんが
とっさに助手席のドアを開けて、娘の命を助けてくれたのでは
ないか。そう思います。

父ちゃんが亡くなった後、私は無我夢中で生きました。
まだ少し借金が残っていたため、下を向いてばかりいられ
なかったのです。

土木作業員として、高さ10メートルの鉄柱の上に立って
ロープを引いたり、車輪を取り付けたりと、男衆と一緒に
なって朝早くから夜遅くまで働く日々。

あの時の私は仕事に没頭することで悲しみを忘れようと
していたのかもしれません。そうして70歳の時、郵便配達
の仕事が舞い込んできたというわけです。

20年にわたって雪国の郵便配達を続ける中で、命の危険
に直面することが何度かありました。

ある時、配達を終えて歩いていると、突如としてゴォーッ
という地鳴りのような音が聞こえてきました。振り返ると、
山の上から物凄い量の雪が襲ってきたのです。

私は慌てて逃げましたが、一瞬のうちに私の背中をかすめて
崖下へと流れ落ちていきました。あと何秒か遅れていたら、
間違いなく雪崩に巻き込まれていたでしょう。

それだけではありません。
とてつもない暴風雪が吹き荒れていた時には、どんなに
踏ん張っても体が思うように動かず、どんどん崖のほうへ
と流されていく。

そして崖まであと2メートルという寸前のところでピタッと
風が弱まったということもありました。

郵便局の方からは「吹雪の日は大変だから、休んで次の日
にすればいいのに」とよく言われます。しかし、そんなわけに
はいきません。どんなに凄い吹雪だろうと、郵便が届くのを
楽しみに待っている人たちがいるのですから。

ある方がこう言いました。
「誰かの笑顔を、この山に住む人々に届け、一緒に
喜ぶこと。
誰かの悲しみを、この山に住む人々に伝え、一緒に
涙すること。それがあなたの仕事」

ですから、今日までの20年、私は天候を理由に休んだこと
は一切ありません。

しかし、たったの1日だけ、どうしても体が言うことを聞かず、
休んだことがありました。

それは一番下の娘が亡くなった日のことです。そう、
父ちゃんが亡くなった時、奇跡的に一命を取り留めた
あの子です。

彼女はあの交通事故の後、結婚して幸せな家庭を築き
ましたが、若くして乳がんを患ってしまったのです。

享年46でした。
やはり親としては自分の娘に先立たれるほど
切ないものはありません。
 
こうして振り返ると、人生というのはいいことよりも
悪いことのほうが多いものなのでしょう。

しかし、四季が巡ってくるように、
厳しい冬の後には必ず春が来ます。

人生という畑に涙の種を蒔けば、
その種がいつか喜びの花を咲かせてくれる。
だからこそ、人生は忍耐と努力に尽きる・・・。
それが90年の人生を通して得られた実感です。

私がよく言っているのは「ずくを出して頑張らねか」ということ。
“ずく”とはこのあたりの方言で、やる気という意味です。
人生、ずくを出さなければ何もできません。

苦労をともに乗り越えてきた父ちゃんを亡くし、自分の娘にも
先立たれてしまいましたが、ずく一筋で生きてきたからこそ
いまの私があるのではないでしょうか。

悲しみに浸って泣いてばかりいてもどうしようもない。
どん底まで行ったら、あとは這い上がるのみです。

一歩一歩踏みしめていけば、 必ず幸せに辿り着く。
本当に一歩、一歩。そう思います。