貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・特別編

2022年08月09日 | 流れ雲のブログ










   









今日は、長崎市に原爆が投下された日です。

己のごとく人を愛する


長崎の原子爆弾が落とされた場所のすぐ近くに、
如己堂という小さな家がいまもあります。

如己堂(にょこどう) とは、
己の如く隣人を愛せよ”という意味

如己堂とこの家に住んでいた永井隆博士
は意外に外国でも知られているのです。

わたしが勤めていた長崎市の学校に、
オーストラリアからのふたりの高校生が
きたときのことです。

彼らに、「長崎のどこにいちばん行きたい
ですか」と聞くと、すぐに「ニョコドウ」
と答えました。

彼らは、ここに住んでいた永井隆という人
のことをオーストラリアの学校で習い、
尊敬していたからです。

永井隆博士は心から平和を願い、
平和をうったえた人です。

平和は、人を愛することからはじまる
という考えをもち、まず自分から身を
もって実行するように努力しました。

永井博士が住んでいた如己堂は、
「己の如く人を愛せよ」という『聖書』
の言葉からきています。

訪れるとみなさんは驚きます。

如己堂はわずか畳二枚一間の小さな
家です。そこは永井博士の住まいであり、
病室であり、仕事場でした。

永井隆博士は、あと三年しか生きられ
ないと宣告されるほどの白血病を背負い、
さらには長崎で原爆の被害にあいながらも、
医者としてみんなの命を救うために
力を尽くしました。

「働ける限り働こう」

自分がたおれて動けなくなってからは、
「働ける限り働こう。

腕と指はまだ動く。書くことができるし、
書くことしかできない」と、 如己堂で
たくさんの本を書きました。

長崎、そして日本を再建し、平和を
訴えるためでした。

永井博士が書いた本は人々を感動させ、
歌になり、映画にもなり、日本中の人を
元気づけました。

そして、いくつかは外国でも翻訳されて、
永井博士の思いと生き方は世界中の
人々にも知られ感動を与えるように
なったのです。

いま日本では、戦後70年以上の時がたち、
戦争のない平和を維持しています。

でも平穏に見える日本ですが、
いじめによる自殺、青少年の犯罪、
家族殺しなど、ひとりひとりの心の平和
とはかけはなれた悲しい事件が相次い
でいます。

物質的な豊かさとは裏腹に、
精神的には弱く、どこか自己中心的な
若者が育っているとの嘆きも聞かれます。

また世界に目を向けてみれば、
残念ながら、いつもどこかで戦争や争い、
テロ行為などが起こっています。

そのため傷つき、命をうしなう兵士や
一般市民は絶えません。

住みなれた街に、あるいは自分たちの
体や心に戦争の傷跡を負い、戦争の
拡大におびえている人びとは大勢
いるのです。 …












ベッドの上でうずくまりながら、私は
次の発作を待ち構えていた。

最初の腎臓結石の時には、あまりの
痛さに気が遠くなり、その後は痛みを
あまり感じなかった。

「ああ、そうか、人間というのは耐えられ
ない痛みは無いのだな。

その前に気が遠くなるのか!」と
おもったものだ。

でも、2度目の今度はそれほどの
痛みは無い。

数分ごとに来る発作の痛みの
比較もできる。そして待つ。

やがてその痛みがやってきた。

私が苦しみ出すと、看護婦さんが
傍に来てくれて、ベッドの上で丸くなって
痛みに耐える私の腰をさすってくれた。

おお!・・・痛みが少し和らいで
来るではないか!

最初は「さすが若い女性の力は
すごい。と思った。

そして、その痛みを乗り切るとまた
小康状態が来る。

でも、今度は「次の痛みを越えられる?」
という不安がなっていることに気がついた.

もしかすると次の発作で看護婦さんが
さすってくれると痛みはそれほどでは
ないのではないか?と思うと不安感は
減ってきたのだ。

やがて予想通りに激痛がやってくて、
看護婦さんがまた優しくさすってくれる.

私は痛みの中で「さすってくれ
なかった時と、今とどちらが本当に
痛いのだろうか?」と考えた.

「俺も科学者だ。そのぐらいは客観的
に判断しなければ・・」 そのぐらい
分からなければ俺も一流の科学者
とは言えない。

冷静になるのだ、痛みが激しくても
データだけは取ろう!

そして・・・

看護婦さんがさすってくれると、
明らかに「痛み」自身が減る.

それに加えて「痛みを克服できる」
という確信がわいてくるのだ。 ・

・・・・・・・・ 人間は故障する.

故障は、体が壊れたり、ある時には
心が病む。

心が故障したときに、私たちは心を
さすってあげない。

心に手が届かないこともあるけれど、
目に見えないから「心も故障する」と
いうことの実感が無いのだ。

だから、苦しんでいる人を非難
したりする.

心が痛んでいる人を非難する
というのは、「傷を叩く」ようなものだ。

痛くて痛くてたまらない傷、それを
時としてあの優しいお母さんまでが
子供の傷を叩くのである。

心の傷はなでてやりたい。

傍にいる人にも心の傷は見えない
けれど、それをさすってあげたい。

辛いと言って泣いている人を
慰めてはいけない。
もちろん叱ってもいけない。
理由を聞いてもいけない。

傷ついた心をさするのはどうしたら
良いのか?

なにも言わない。なにも聞かない.
ただ、自分も一緒に泣く。

辛いと泣いている人より大きな声で泣く.
傷ついて痛いと泣いている人の横で、
自分も泣く.ただそれだけだ。 ・・・

体の痛みはさすってくれることに
よって和らぐ.そしてその痛みを
超えられるという気持ちがわく。 ・・・

心の痛みをさすってくれれば
痛みは和らぐ.そしてやがて
その人は痛みを克服して元気に
なるだろう. ・・・・・












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