貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・妄想物語

2022年11月06日 | 流れ雲のブログ

















私の実家の裏山には「耳塚」というものがあった。

それが一体何物で、どうしてそこにあるのかなど
由来は一切分からないのだけれど、年に1度は
近くの神社から神主さんが来てお祓いを
していた。

困ったことや無くし物をした時、耳塚へ
お願いすると誰かの口を借りて知らせてくれる、

実際、近所の人がたまに立ち寄っているの
を見た事がある。

私も最近、車のダッシュボードに会社の
鍵を置いていたはずが、紛失してしまった。

気づいてすぐ戻ったものの、既に鍵は無し。
車には鍵をかけず、ほんの1分たらずしか
離れていないその瞬間に消えた。

どこを探しても見つからず、しかもマスター
キーだったため会社からはしこたま怒られ、
やむなく盗難届を出した。

鍵が見つからない場合は、会社のドアご
と交換になってしまう。

私はあっと思って、耳塚へお参りを
してみた。こんな時の耳塚である。
神様でも仏様でもすがりたくなった。

別に信じていた訳ではないけれど、
私の責任で弁償となったらかなりの
痛手になる。

あの頑丈そうなドアをまるごと替えるなら、
幾らになるのか…。考えただけでも恐ろしい。

数日後、社長室へ呼ばれた。

「大変だったね。」部屋に入ると、社長は
怒っている風でもなく、椅子を勧められた。

「何と説明したらよいのやら。途方に
暮れている。鍵が出てきたんだ。

つまり私のせいって事にはなるんだが…。」
社長は声を潜めながら話を続けた。

「夢に狐が出てきて、何やら話をしていたんだ。
何を話しているのか、聴き取れなくてね。

何日も同じ夢をみて、ついに話し声が
聞こえたんだ。

『鍵は引き出しだと皆が噂している』
そう言っていた。あの狐は恐らく、
社の屋上にある祠の狐だ。

先代が祀っていたんだ。」
「はぁ…狐ですか。」
話はそれだけだったが、とりあえず無事に
鍵は発見された。

耳塚には何が祀られているのか分からない。
管轄は隣町の神社という事になっている。

母も無くし物をした時、耳塚へお願いをした。
するとテレビで、無くし物がこんな所から、
という話題を放送していた。

まさかと思って家でその場所を探してみると、
見つかったのだ。

困った時には有益な耳塚だが、私はどこか
薄気味悪い感じがして、二度と使わないと
心に決めている。。…












心理研究科の先生が知人から聞いた話。

その知人と言うのは、60代の男性。
30代で起業し、今では年商1000億円を超え、
従業員も1000人を超える会社の社長だ。

その社長さん、50歳の時に心不全を起こし
心肺停止、意識不明の重体になった。

救急救命士が来て必死に心臓マッサージ
をしてたそうです。…

その間、その社長さんは林の中を歩いて
いたという。その林を出ると、きれいなお
花畑に出た。

そこは、人によってお花畑であったり、
荒地みたいなところであったり、色々
あるそうだが、その人はきれいなお花畑
に出た。

そのお花畑の広さも人によって異なるそうで、
だいたい50メートルから100メートルほど
続いている。

周りを見渡すと、いろいろなひとがお花畑
を歩いていた。

ある人は歩いてきた林の向こうから
「おじいちゃん、死なないで」という孫の
声を聞いて振り返り、「もう少し孫のため
に生きたい」という想念に駆られ引き返した。

要するに息を吹き返したというわけだ。

そうかと思えば、「あなた、戻ってきてぇ」
という妻の声を聞いて足を速めた人も
いたそうだ。

お花畑を過ぎると川べりに出る。
その川の向こうが彼岸、俗にいう
「あの世」である。

その川幅も人によってまちまちで、
10メートルの人もいれば100メートル
の人もいる。

また、渡り方もさまざまで、橋で渡る人、
船に乗っていく人、泳ぐ人などいろいろ。

一旦、両足が岸から離れてしまうと、
二度とは戻っては来れない。
これだけはすべての人に共通して
いるらしい。

さて、お花畑にでた社長さんの耳に
不思議な声が聞こえた。

「あなたが今まで送ってきた人生とは
どういう人生だったか、それについて
質問されるから川べりに着くまでに
まとめておくように」

お花畑を歩きながら社長さんは、
自分の人生を振り返った。

「○○会議所の会頭もした」
「○○〇協議会の役員もやった」
「○○福祉に多額の寄付もした」

今までやってきたことを頭の中で
まとめていったという。

川べりに着くと、神様の声が聞こえてきた。

「では聞きます。あなたは自分の人生を
どれくらい楽しんできましたか?」

社長さん、はて?と困り果ててしまった。
やってきた業績についてはいくらでも
話せると思って、意気揚々と川べりまで
歩いてきたのだが、

神様が聞いたのは、「どれくらい人生を
楽しんできたか」ということだった。

業績など全く関心がない様子だった。
いくら考えても楽しくやってきた記憶が
なかった。

じっと黙っていたら、「楽しんでこなかった
のですね」と神様は言った。

「はい…」
「じゃあ、あなたの人生は失敗です。

もう一度やり直し」と言われて、息を吹き
返したそうだ。

その日からその社長さんは人生を
楽しく生きようと思った。

その時、教えられたことは、「楽しく生きると
いうことは、自分がどれほど周りから喜ばれ
ているか」ということだと。

なるほど、楽しい人生とは、ただ能天気に
生きるのではなく、「あなたが必要だ」「
あなたがいてよかった」と言われる人生
を送ることなのか。

確かに自分だけが楽しいと思っていても、
周りの人が迷惑を被っていたらいい人生
とは言えない。

私たちは日常の中にどれほど「楽しさ」を
見つけられるだろうか。

社会を見回すと悲惨ともいえる事件や
事故が毎日のように起きている。

いつ来るとも分からない自然災害は私たち
に不安の影を投げかけてくる。

不幸のどん底にいる人が隣にいたとして、
自分だけ「たのしさ」を探していくのは
気が引ける。

でも、そう考えずに、そういう中でも自分
にできることを見つけることが、喜びや
楽しさなのだろう。

マザーテレサも、スラム街の中で自分の
存在が必要とされている喜びに満たされ
ていたのかもしれない。…

「楽しさ」とは、日常の中の親子や夫婦、
友だち、お客さん、同僚など、周りの
人間関係に見出すものだ。

そういう人たちと楽しい思い出をたくさん
つくろう。いつか「この世」をちゃんと
卒業できるために。…









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