貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・番外編

2022年11月02日 | 流れ雲のブログ

















葬儀の前に遺体を整える「納棺師」で、著書が
映画「おくりびと」の基になった青木新門さんは、
遺体を通して日本人の変化を感じてきた。

「死に姿」から教えられることも多いという。

長い間、私たちは死を忌むべきものとして、
日常生活から切り離して隠し、見えないところ
に遠ざけてきました。

だから本当の意味で、死の実感に乏しい。

頭の中で想像しているだけなので、極端に
美化したり、恐れたりするのでしょう。
私は、その傾向に疑問を感じています。

30歳代半ばで納棺師になり、3000近い
遺体と接してきました。

たまたま求人のあった葬儀社に入社したところ、
死体に白衣を着せ、髪や顔を整えて納棺する
仕事を任せられたのです。

最初は遺体を扱うことを、後ろめたく感じて
いました。本来なら見たくない、見ないはず
の死を受け止める仕事なんて汚らわしいと。

親族から「一族の恥。辞めろ」と言われた
こともあります。

しかし、出会う遺体はみな、それぞれに
美しかった。正確に言えば、死を通して、
生きていることのすばらしさを教えてくれました。

寿命が延びても、いつか必ず死ぬ。死から
目をそらしては生きられない。ありのままの
死に姿を見てきたことで、それに気付くこと
ができました。

自然に逆らわず

いつの頃からか、ぶよぶよとした遺体が増えて
きました。延命治療を受けてきた方に多い
ようです。

私には、死を受け入れず、自然に逆らった
結果のようにも感じられます。

死期を悟って、死を受け入れたと思える
人の遺体は、みな枯れ木のようで、そして
柔らかな笑顔をしています。

亡くなる直前まで自宅などそれぞれの
居場所で、それまでと変わらぬ日々を
過ごしてきた人の多くがそうだった気が
します。

体や心が死ぬ時を知り、食べ物や水分を
取らなくなり、そして死ぬ。それが自然な
姿なのではないか。

今、そういう死に姿は少ない。

医師は一分一秒でも長く生かすことを使命
だと思っているし、家族は少しでも長く生きる
のが重要とばかりに「がんばって」と繰り返す。

本人が死について思うことや、気持ちは
聞かない。

生命維持に必要な機械のモニターばかり
見つめ、死にゆく本人を見ていない。
大切なことを見逃し、聞き逃してきたのです。

死ぬ人の役目

確かに健康で若々しい高齢者は増えました。
しかし、いつまでも若い頃と同じように飛び続け
られるわけがないから、

着陸(=死)の準備は、60歳ぐらいまでに始め
なければいけないと感じます。

今後、亡くなる高齢者が激増するに連れて
これから10年間、「どう死ぬか」に真剣に
取り組まなくてはいけないと思います。

ある中学生が、祖父の死の直前3日間を
振り返ってこう書いています。

「ドラマで人が死ぬときは大げさだと感じて
いましたが、亡くなっていくおじいさんの
そばにいて涙が止まらず、いのちの本当
の大切さがわかりました」

この祖父のような死に姿でありたい。

若い人の死生観、人生観を揺さぶるような
姿を見せ、子や孫の心を育てることが、
高齢者の大事な役目であり、仕事なのでは
ないでしょうか。

それが超高齢社会の良いところであり、
若い世代への贈り物だと思うのです。


病院での死が大半…「自宅で」希望と隔たり

1950年代初めは8割以上の人が自宅で亡く
なっていた。

その後、病院などの医療機関で亡くなる人が
増え、2000年代には約8割を占めるまで
になった。  

しかし、自宅での自然な最期を望む声は、
今も根強い。

内閣府が12年に55歳以上に行った調査では
「自宅で最期を迎えたい」と回答した人が半数
を超えている。  

国は24時間体制で往診する「在宅療養支援
診療所」制度を設けるなど、自宅で終末期を
過ごせる医療・介護体制の整備に力を
入れている。  

◎QOD=Quality of Death(Dying)
 「死の質」の意味。

author:青木新門












幼児期における母親、および周囲の人たち
からの語りかけが 大事 …

かつてドイツのバルバロッサは北イタリアを
占領しました。

その際たくさんの戦争孤児が生まれ、敬虔
(けいけん)なカトリック教徒だった
バルバロッサは、

「赤ん坊は天使」と思い、清潔な施設に入れ
て育てました。

そこでは、ミルクを充分に与え、いつもきれいな
シーツとオムツに包んで完壁な保育をしたのです。

ところがバルバロッサは「フランス語は女子を
誘惑する言葉であり、ドイツ語は軍人の言葉
であり、イタリア語はなまっている。

そんな言葉で天使に話しかけてはならない」
と言って、保育中は赤ちゃんたちに一切言葉
をかけてはならない、と看護師たちに厳命
しました。

言葉をかけられない赤ちゃんたちは、自ら言葉
を発することができなかったばかりか、 やがて
衰弱し、ついには全員死んでしまいました。

第1次世界大戦後もドイツやフランスは戦争
孤児で溢れかえっていました。

当時の国際連盟は孤児たちを病院に集め、
いいミルクを与え、清潔な環境で完壁な
保育をしました。

しかし人手が足りなかったため、子どもたち
にろくに言葉もかけてやれなかった。

すると大体4歳で全員が死んだといいます。

第2次世界大戦後も同様の状況が起きましたが、
やはりどんなに完壁な施設で完壁な保育を
施しても、語りかけがなかったために、子ども
たちは死んでしまいました。

つまり、言葉をかける、かけないということは、
生死にかかわるほど重要なことなのです。

もちろん、生まれつき耳が不自由な
子どももいるでしょう。

しかし“話し掛けられている”ことは目で
確認できます。

中にはヘレン・ケラーのように目も耳も
不自由な子どももいますが、本能的に
愛情に包まれて肌で言葉を感じること
はできるのです。

どんなに完壁な環境を与えても、人間
の言葉、ぬくもりを感じなければ子ども
は育たない。

それはこれほどまでに医療技術が進歩
した現代も同じです。

現在、日本は出生率が低いので、未熟児
は大切に保育器の中に入れて育てられます。

保育器の中は一定の温度に保たれた無菌
状態で、酸素も充分に送り込まれている。
未熟児を育てるために 完壁な環境と
いっていいでしょう。

ところが、保育器の中に入れられたままの
未熟児は、次々と胃潰瘍になってしまいます。

大人も仕事のストレスなどから胃潰瘍に
なったりしますが、…

赤ちゃんは、生まれてすぐに保育器に入れ
られ、これまでずっと聞いていた母親の心音
が聞こえず、どうしょうもなく不安になるのです。

もちろん、生まれたての小さな赤ちゃんの
脳がそこまで働いているはずもありません。

本能的に孤独に絶えかねて胃潰瘍に
なるのです。

現在、未熟児の胃潰瘍の治療、およびその
予防として行われているのは、

「カンガルー式療法」です。

以前は母親の洋服のお腹の部分にポケット
を設けて持ち歩く「カンガルー方式」が
一般的でしたが、…

それをさらに一歩進めたのが
「カンガルー式療法」です。

朝と夕方のわずか10分間でいい。
保育器から管をつけたまま赤ちゃん
を取り出し、裸の母親のお腹の上に
寝かせ、心音を聞かせてあげるのです。

赤ちゃんは母親と触れ合い、母親の
心音を聞き、母親の語りかけを聞いて、
心から安心します。

それだけで胃潰瘍なんて治ってしまう
というのです。

もちろん、実の母親が一番いいのですが、
何らかの事情で母親ができない場合は、

父親や看護師さんでも代役を務めても
構いません。

薬でもなく、治療でもなく、
人のぬくもりと語りかけで
子どもの病気が治ってしまうのです。…









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