重氏(しげうじ)は大した権力者でしたが、
ある日、人の心のみにくさを知って、
妻も子も捨てて仏に仕える身となって
しまったのです。
重氏は名前を苅萱道心(かるかやのどうしん)
と改め、高野山に登って修行にはげみました。
そしていつしか、十三年の月日が流れて
いったのです。
ある日の事、高野山に一人の男の子が
やって来ました。
名前を石童丸(いしどうまる)といい、
道心が筑前に残してきた息子だった
のです。
石童丸は父親が高野山にいる事を知り、
一目会いたいと長い旅を続けてきたのでした。
身も心も疲れきった石童丸は、出会った
お坊さんにたずねました。
「もし、この山に、筑前から来たお坊さまは
おられませぬか?
私の父で、名を加藤重氏と申します」
するとそのお坊さんはとても驚いた様子で、
石重丸をじっと見ると涙をこぼしながら
言いました。
「そなたの父とは、長年の友人じゃった。
それが昨年の夏、悲しい事に急な病で
なくなられてしもうたのじゃ」
実はこのお坊さんこそ、石童丸が夢にまで
見た父の加藤重氏だったのです。
そうとは知らない石童丸は、自分も父親と
同じように出家しようと決心しました。
そしてそのまま、道心の弟子となりました。
親子そろっての修行生活が始まりましたが、
父親の道心には、わが子を弟子として
同じ寺に住むのはとてもつらいことでした。
親子の情が日に日につのるので、
修行に身が入らないのです。
「こんな事では、仏に仕える事は出来ん。
それにいつかは、石童丸にも本当の事が
分かってしまうであろう」
道心は山を去って、信濃の善光寺(ぜんこうじ)
へと旅立ちました。
そしてそこで念仏三昧に明け暮れた末、
八十三才で大往生をとげたのです。
一方、高野山で修行を続けていた石童丸は、
ある晩、不思議な夢を見ました。
うす紫の雲がたなびく中、仏さまが現れて
言いました。
「苅萱道心(かるかやのどうしん)こそは、
そなたの父です。すぐに信濃におもむき、
父の供養(くよう)をするがよい」
こうしてすべてを知った石童丸は急いで
善光寺を訪れると、父の霊をねんごろに
とむらいました。
そして父の作った地蔵のそばに、自分も
一体の地蔵を残したのです。
いつしかこの二体の地蔵さまは、
親子地蔵と呼ばれるようになりました。
長野市の往生寺(おうじょうじ)には、
この親子地蔵と呼ばれる二体の地蔵さま
が今でも残っているそうです。…
一夫多妻の論理
「進化論」を表したダーウィンがビーグル号に
乗船してイギリスを出航したのは1831年12月
29日だった。
それから5年、ダーウィンはこの小さな船で世界
を巡り動物の生態を事細かに観察した。
日本では古来から、学問を「外国から来る知識を
書物を読んで吸収する」と捉える。
それは、古く奈良時代に中国から律令制度や
仏教などの文化が大量に持ち込まれ、その後も
四書五経、朱子学など日本の教養人はまず
中国古典の勉強から始めたことに端を発している。
外来文化の同化には優れた能力を持っている
日本は仏教や禅などの分野では師である
中国のレベルを超えた。
明治になるとヨーロッパ、アメリカの学問の
門戸が開かれ、1000年前に中国の文化を
急速に吸収したように、再びその能力を発揮し、
太平洋戦争の敗戦にも拘わらずアジアでは
ほぼ唯一の先進国に成長した。
だから学問は書物を読むものであり、鉛筆で
数式を解くものであるという強い信仰がある。
でも、学問がもし新しいことを切り拓くものなら
書物でも鉛筆でもなく、役に立つのは「足」
なのである。
有名なガラパゴス諸島でのイグアナの観察など
を行ったダーウィンは、1836年10月2日に
ファルマス港に帰港し、航海で知った膨大な
自然からのメッセージを整理し、抽象化し、
そして「進化論」を著したのだった。
現在でもダーウィンの進化論は色褪せて
はいない。
その書き出しから前編に渡るダーウィンの自然
に対する観察眼、誠実さは見事なものである。
ダーウィンの研究と「進化論」で人類は初めて
自分たちの祖先を知ることができた。
だからこの発見は単なる「科学的発見」ではなく、
哲学、文学、美術など私たちが自然をどのように見、
人間社会や人間をどう認識するかという面に影響
を及ぼすのは当然だった。
その意味でダーウィンは私たちの恩人である。
冷静に自分たちを見つめることができるように
なった人類は次第にそれまでの迷信や妄想
から解放され、
「あの女は魔女だから火あぶりだ!」などという
野蛮な行為は過去のものになったのである。
「進化論」に感謝すべきだった。でも、出版された
イギリスの反応は全く逆で、社会を挙げて
ダーウィンを攻撃した。
「我々の祖先が「サル」だと!とんでもない。
人間は神に似せて創造された特別な存在だ」
ダーウィン派と反ダーウィン派に分かれて
激しい論争が始まる。でも、ダーウィンは
地味な学究派の人だったから論争や公の
場所での演説などは苦手だった。
いくら非難されても出てこない。そうすると
ますます民衆は激昂し、非難の声が高まる。
そんな情勢にいたたまれなくなったダーウィン
の友達、トマス・ヘンリー・ハックスリーが
登場する。
彼は自らを「ダーウィンの番犬」と名乗り
反ダーウィン派のキリスト教の牧師と激しく争う。
有名な論争は1860年6月30日のオックス
フォード博物館で行われた「オックスフォード
論争」である。
反ダーウィン派にはイギリス国教会のサミュエル
・ウィルバーフォース主教、ダーウィン派は
ハックスリーが出場した。
でも、利害関係に敏感な人たちの論拠は
真実から遠く離れている。知識はなくても
頑張る。
私も以前、社会から猛烈に反撃を受ける
経験をした。
「リサイクルは環境を汚す」という内容の本を
出したときだった。
社会からの反論は私の主張と行き違いになる。
武田「リサイクルをするとゴミが増える」
社会「リサイクルは良いことなのに何を言うかっ!」
という訳である。
議論がかみ合っていない。
「リサイクル」という言葉が初めて登場したのは,
昭和 55(1980)年であ る。
まだ「リサイクルをするとゴミが減る」という
理論を聞いたことがない。
相変わらず「リサイクルをしたいのだから、
変なことを言うな」という攻撃ばかりである。
でも、その心境はわかる。人はなんとなく相手
の言うことが本当らしいと感じると、余計に
激しく反撃をしたくなるものだ。
鏡を見れば自分の顔がサルに似ていること
は確かである。でも、鏡は見なければならない。
その度にイヤな思いをする・・・
ダーウィンの奴め!と憎く思ったのもわかる。
ダーウィンは著書の中でこんな事を言っている。
・・・みんなが「自分の先祖がサルだ」と考えたく
ないことは仕方ないけれど、 「そう考えるのが
嫌なことでも勇気を持って考えれば真実が判る」
真実を知ることは簡単な様に思える。
目の前に起こっていることをそのまま
目で見、肌で感じれば良い。
別に難しい学問がいるわけでもなく、特別な装置
が必要でもない。ありのまま、見れば良いのである。
でも人間は生物だから、「自分が生き残ること、
自分だけが得すること」で精一杯であるし、
時としてそれもままならない。
だから事実がどうであれ、できる限り自分の都合
の良いように事実を解釈して生きるのが一番、
良いだろう。
だからダーウィンの言うように「真実」が
わかることですら「勇気」がいることになる。
人間がいかに自分に都合が良いように解釈
するかという見本のようなものに「一夫多妻」
がある。
世の男性に「一夫多妻はどうですか?」と聞くと、
ほとんどの男性は「うらやましい」と答える。
妻1人でも大変なのにとも思わないでもないが、
それが人情というものだろう。
そして婦人団体は眉をひそめる。
この「一夫多妻」に対する男性の反応こそ、
「人間は事実をそのまま理解するのではなく、
必ず自分本位に解釈する」ことの典型的な
例である。
一夫多妻というのは1人の男性が複数の女性
を妻に持つということである。
そして男と女が結婚年齢に達した時には
ほぼ同数である。
ということは、一夫多妻が男性1人に妻10人
とすると、男性10人の内、たった1人が妻を
持ち、子供を持てるのであって、残りの9人
はあぶれる。
だから男性に一夫多妻を聞けば、9人は
「イヤだ」と言い、1人だけが「うらやましい」
と言うはずである。
それをほとんどの男性がうらやましいというの
は自分が10人の内の1人になると錯覚して
いるからである。
一夫多妻制度は男性には厳しく、女性には
まだましな制度である。
男性は10人のうち1人しか子孫を残せないのに
対して、女性はとにかく全員が子孫を残せる
のだから。…
自分に都合の良いことが真実であり、実際には
不利であっても錯覚の限度一杯に錯覚しよう
とする、
そんな可愛い存在が人間なのだ。
そしてその性質を利用してズルをしてやろう、
儲けたい、自分が当選したい・・・などと考える
不埒な奴もいるから困る。 …
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