貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・THEライフ

2022年08月11日 | 流れ雲のブログ













   






祖母と私がお互いの存在に圧迫され、
がんじがらめになっていたのはもう
40年以上も前の事なのに、今もまだ、
小さな針が時折私の心をチクリと指す。

あの頃のことでよく思い出すのは、
祖母の炊いてくれた白いご飯。

お店をやっていた時の癖で、
祖母はいつもたくさんのご飯を炊く。

二人ではなかなか食べ切ることができず、
たくさん炊いたご飯を何日もかけて
食べる。

夏の暑い時期など、ご飯がどんどん
酸っぱい匂いになっていく。

けれど祖母はその匂いに
気がつかない。

私は酸っぱい匂いが気になって
食が進まない。

祖母はその様子を見て不機嫌に
なりやがて泣く。

あんたは優しくないと。

こういう時、いつも私は困った
顔をして下を向くしかなかった。

この時期、祖母と同様、私も
疲れていた。人の思いの大きさに、
人の落胆の大きさに。

牛久に来て一番変わったのは
祖母だった。

新橋にいた頃の強い女という印象
とは別人で、同情を買うのがとても
上手になった。

あんなに他人に対して警戒心を持って
いたはずの人が、牛久で友達を増やし、
愚痴を聞いてもらっていた。

「今まで苦労して頑張ってきたのに
お店は潰れて、孫と二人でやり直そう
としているのに、

孫は一つも優しくなく、反抗ばかり
している」

その言葉を聞きながら、周りの
大人たちは揃って祖母に同情した。

祖母は寂しかったのだ。
誰かに頼って心ゆくまで
泣きたかったのだ。

そんな毎日の中、私は急に
咳が止まらなくなった。

一度咳き込みだすと止まらず、
一晩中眠れずに咳き込んだり
していた。

そのうち昼間も咳が止まらなくなり、
歩くのもやっとになっていった。

病院に連れて行ってもらったけど、
ただの風邪だとすぐに帰された。

周りの大人たちが私に言った。

「お婆ちゃんに心配かけようとして、
わざとそんな咳をしてるんだろう」
「子役なんかやってたから、変な
芝居を覚えてきたんだろう」と。

私は泣きながら、咳き込みながら
そんな事はしない。

本当に苦しいんだと訴えたが、
誰も聞いてくれず、気管支炎特有の、
息を吸うと胸がヒューヒュー鳴る
呼吸の音と共に、たくさんの思いを
胸の奥に飲み込んだ。

それから二ヶ月あまり経っても咳は
一向に収まらず、さすがに心配した
祖母が別の病院に連れて行ってくれた。

診断は急性気管支炎。
最初の医者が誤診をしたのだ。

その日から、祖母は急に優しくなった。
背中を優しくさすってくれた。
すえたご飯を食べなくても怒られ
なくなった。

祖母は悪い人間ではない。
冷たい人間でもない。

ただただ、黙って自分の愚痴を
聞いてくれる相手が欲しかったのだ。

けれど私は思春期真っ最中。
反抗もすれば反発もする。

生きることに疲れ果てた祖母に
対して、まだ中学生の私は生命力
に溢れている。

その存在自体が、祖母にとって
辛かったのだ。

だから病気で弱った私に対しては、
優しくなれたのだ。

あの頃の祖母の、やり場のない
怒りや悲しみを思うと今も私の心は
やるせなさで一杯になる。

あの当時、私がもっと幼かったら。
あるいは、私がもっと大人だったらと。

その想いと同時に、どうしても祖母
を許せない自分がいる。

いや、もっと正確に書くと、頭ではとっくに
許しているはずなのに、今も私の心には
小さな針が何本も刺さっている。












学校では「答えのある問題」ばかり出て
きますが、社会に出ると「答えのない問題」
のほうが多い。

そこで役に立つのが教養です。

でもやっかいなのは、教養は
「この問題に対処しよう」と思って
身につけるものじゃないことです。

いつぶつかるかわからない「答えの
ない問題」に立ち向かうには、目的
なしに、いつ役に立つかわからない
教養を少しずつ身につけておくしかない。

教養は、「教わる」ものでなく、自分から
手を伸ばして「獲得」するものです。

学校みたいにカリキュラムがあって、
誰かが教えてくれるわけではない。
自分から、学んでいく姿勢が、
必要なんです。

まず、「知りたいことを調べる」のは、
教養とは違います。

「調べる」とは、知らないので、
外部資料に当たることです。

たとえば「日本の経済動向を探るのに、
過去五年間の日本のGDPを知りたい」
というように。

そして情報は、調べたらそのことの
役に立ちますが、読み捨ててしまう。

情報は、必要に応じて「参照」する
ものだからです。 それを頭にしまって
おかなくても、また資料をみればよい。

このように、情報は流れていきます。

でも、教養は頭にしまっておくもの。
そこで、知りたいことを調べるのは、
教養とはいわないんです。

じゃあ、何かを習って、「できないことが
できるようになる」のはどうだろう。

これも、教養とはいいません。

「できないことができるようになる」のは、
技術の習得です。

「たとえば会社に入ったら、エクセルに
データを入力して表計算をして、それを
グラフにしなさいと言われた。

そこで『すぐできる エクセル活用術』
みたいな本を読んで、言われたことが
できるようになった。

これも、教養とはいわない。 さっきの情報は
読み捨てだったけど、今回は、習った内容
が頭に入っている。

だけど、ここで身につくのは技術であって、
教養ではないんです。

情報を手に入れるのも、技術を身に
つけるのも、重要なスキルに違いありません。

昔は、情報を集めるのに、とても手間
がかかった。 どこに自分の求める情報
があるかわからない。

足を使って探さなくちゃならなかった。
集め方にうまい下手があって、えられる
「情報の差」になった。

情報社会になって、情報を集めるのが
簡単になった。 家から出なくても、
ネット検索でビッグデータにアクセスし、
欲しい情報が手に入る。

「ネットのデータは、誰にでも公開されて
いるのが特徴です。 でもデータがありすぎて、
どこに絞ればいいのか、わからない。

そこで、「検索能力の差」みたいなもの
が生まれてくる。 情報時代のスキルです。
そういうスキルの習得も大事です。

このように、情報集めや技術の習得では、
必要なスキルがある。 でも、情報は情報、
技術は技術で、教養ではない。

「学ぶ」ことではないんです。

情報にアクセスしたり技術を身につけたり
するのと、「学ぶ」ことには、決定的な違い
があります。

情報は、誰かが先に調べて記録して
あったのを、使わせてもらうこと。

技術は、誰かが 先にできるようになって
いたのを、教えてもらうこと。

どちらも、「消費」なのです。

いっぽう、「学ぶ」ことは、これから「生産」
するんです。 なにを生産するのか。

「答えのない問題」にぶつかったときに、
それなりのやり方をみつけ出す。

自分の人生は、「答えのない問題」の
最たるものです。

それに立ち向かって、自分なりの生き方を
みつけだす。

これも「生産」ではないだろうか。
と言っても、ゼロから生産するのではない。

教養は、これまで「人間が考えてきたこと
のすべて」でした。 それを身につける。

教養を身につけるのに、明確な
目的はない。

これは消費の段階。 誰かのものだった
教養を、ちょっとおすそ分けしてもらって
いるだけだからです。

けれども、そうやって身につけておいた
ことが、ひょんなことで役立つ場合がある。

自分の行動や生き方に、反映される
場合がある。

それこそ、過去のおおぜいの他者の
考えを踏まえて、自分がひと味ちがった
ふるまいができる。

自分が「生産」をする瞬間です。

そう考えてみると、教養は、「学ぶ」
ことの「部品」と言ってもいいかもしれない。

いつ、どう役立つかわからない部品
を集めておく。

そして、なにか「答えのない問題」に
ぶつかったら、手元の部品をいろいろ
組み合わせてみる。

手元の部品だけでは、これという
答えに行き着かない。

そこで、「自分のアイデア」 という
最後のピースをはめて、全体を
完成させる。

このように、自分なりの解決にたどり着く
プロセスの全体が、「学ぶ」ことなのです。









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