貧者の一灯 ブログ

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妄想劇場・森羅万象

2021年06月03日 | 流れ雲のブログ










歌:小林旭:
作詞:星野哲郎:作曲:叶弦大

あなたは着物が すきだから 
着物にしたのと いう女
そんなに飲んでは だめですと 
女房きどりで 涙ぐむ
あの瞳は信じて いるんだね 
嘘の上手な このおれを











悲しいけれど老いた親に触れ、抱きしめ、思い出を
共有して「温かい死」を迎える家族もいる。
それを支えるのが「看取り士」だ。

親友に書いた、交際終了を知らせる手紙

山岸玲子(仮名・享年78歳)が、親友の戸田昭恵
(仮名)に、交際終了を知らせる手紙を書いたのは
2017年8月4日。
その11日後、玲子は自宅で意識を失って病院へ緊急
搬送された。

実は、同年7月に玲子は物忘れの多さに違和感を覚えて、
同月末に脳神経外科を受診。悪性の脳腫瘍で半年から
1年の余命告知を受けていた。

玲子は戸田への手紙で、長年の親交を丁重に感謝し、
近年は体調がすぐれず、「粗相(そそう)や失礼が
あっては申し訳ないので、たいへん残念ですが、
おつきあいはこれまでにさせてください」と書いている。

10年以上苦しんできた脊柱管狭窄症(せきちゅうかん
きょうさくしょう:背骨の中を通る神経を背骨が圧迫
して痛む)が悪化し、手術を受けたのが同年5月。

だが術後、脳に悪性腫瘍が見つかったことが、玲子が
手紙を出した理由の1つと思われる。

その文面を代筆した長女の聖子(仮名・52歳)は、
「長年親しくしてくれた人だからこそ迷惑をかけたく
ないし、気遣いもさせたくないという率直な思いであり、
母らしいなと思います」と話す。

すでに従来のような達筆では書けなくなっていた玲子は、
聖子に代筆を頼んだ。

玲子は親友への手紙を投函後、20年近く通った小説教室の
仲間たちに「体の調子が悪くて休会することにした」と、
代筆の手紙を送った。

さかのぼれば、交際終了手紙を書く約3年前、玲子は
家族に宛てて「意思表明書」を書いていた。

意識が明確なうちに、本人が希望する終末期医療や
ケアなどについて書く文書のこと。遺言書と違って
法的拘束力はない。

表明書には「治る見込みがない場合の延命治療は不要」
で「葬式は家族だけで済ませて、供花や香典も不要で
あること」「自分の持ち物はすべて処分してほしいこと」
などが書かれ、 家族への感謝の言葉で結ばれていた。

便せんに鉛筆で毅然とした筆致で書かれ、2枚目には
署名と割印がある。

この文書から、親友への交際終了手紙や、小説教室の
休会は周到な準備の一環だったことがわかる。

玲子の毅然とした終活に、1人の訪問看護師が小さな
花を咲かせることになる。 ・・・



「ご主人のこと、お好きですよね?」 そう尋ねた訪問
看護師の今井厚子は、無言だった玲子が一瞬、その
口元を小さくほころばせたのを見逃さなかった。

昨年8月の緊急入院先から自宅に戻り、今井が同月末から
玲子の自宅に通い始めて2、3回目の頃。

『その気持ちをうまく言えないなら、手紙を書きましょう』
と提案させていただきました。

どなたにでも、そんなぶしつけな質問をするわけでは
ありません。でも、玲子さんが反射的に見せた口元の
笑みを見て直感しました」 今井はそう話した。

玲子の趣味は登山と小説を書くこと。自分の気持ち
を人に言い表すのが苦手で、小説教室に約20年通って
いることを今井は知っていた。

自宅のリビングに置かれた玲子のベッドの脇で寝起
きする、夫の康弘(仮名・80歳)の献身的な介護ぶり
からも、2人の強い絆を感じてもいた。

一方で、1930年代生まれの2人が、今さらお互いの気持
ちを言葉にするのは難しいと考えた今井は、リハビリ
の一環として2つの提案をした。

「まず、奥様の手をご主人に握っていただき、
『このように冷たくなりがちなので、手を時々
マッサージしてあげてください』とお願いしました。

あとは、ベッドに寝たままだと筋力が落ちてしまうので、
『奥様が体調のいい日には、できるだけお2人で散歩
をなさってください』ともお伝えしました」

散歩時は転倒防止のために、ご主人から奥様と手を
つないであげてください、と助言することも
忘れなかった。

康弘はこう振り返った。
「わからないことをこまめにメモしておき、訪問の
たびに今井さんにあれこれと質問すると、自分が
答えられるものと、担当医に質問すべきものとを
瞬時に分けて、つねに的確な答えを返してくれる
のでありがたかったですね」

その信頼感から、康弘も今井の提案を忠実に実行した。
ところが長女の聖子によると、手つなぎ散歩は当初
かなりぎこちなかったらしい。

「つなぎ慣れていないせいか、父が母の手首を持って、
まるで“連行”していくようにも見えました。なので、
私が『お互いの手の指と指を交互に差し入れて、
恋人つなぎにしてあげて』と、父には伝えました」

よく晴れた空の下で夫婦の、そして聖子も交えた
親子3人の初々しい手つなぎ散歩の写真が、何枚も
残っている。

一連の潔い終活とは一見不釣り合いな玲子のつかの間の、
ほがらかな笑顔がそこにある。

触れることでお互いに通じ合うものがある 今井は以前、
意思の疎通が難しい高齢者が多い介護療養型病院に
約13年間勤務。当時は病院から次第に足が遠のく
家族に時々電話をかけては、

「今日、少し目を開かれましたよ。今度は、
いつごろお見舞いに来られますか?」
などと伝えて、来院を地道にうながしていた。

実際に見舞いに来た家族の手で触れられると、患者の
表情がやわらいだり、なぜか発熱までしたりするのを
今井は何度も見てきた。

言葉以上に、触れることでお互いに通じ合うものが
確かにあると彼女は強調する。

それで、玲子と康弘にスキンシップをうながした
理由でもある。

2017年1月、今井は200人以上を抱きしめて看取ってきた、
柴田久美子(日本看取り士会会長)の講演を聞いて心が
震えたという。

「抱きしめて看取るなんて、病院ではありえないこと
なので驚きました。だけど、それが本当だなとも直感
したんです。

だって子どもも生まれてくると親に抱かれるわけ
ですから、親を看取るときはその逆もありだなと」
触れ合うことの大切さを熟知する、

しかし、前職の病院では、亡くなった親の身づくろいに
今井が誘っても、約9割の家族は手を出そうとは
しなかった。

入院手続き以降は顔を見せず、亡くなったと知らせても
すぐに来ない家族や、なかなか連絡がつかない家族もいた。

彼女は看取り士資格を取得後、もっと高齢者の役に
立ちたいと、2017年6月から東京都多摩市にある訪問
看護ステーションで働いている。



話を戻すと、今井が担当する山岸夫妻の楽しい日々は
長続きしなかった。

脳腫瘍が進行し、自宅トイレの場所さえわからなくなって
いったからだ。

「リビングからトイレへ誘導する大きな矢印を紙に書いて、
ご主人に壁に貼ってもらったりしました。

深夜にトイレに行けば、ノートに簡単なメモを書いて
もらっていましたが、 その字が次第に読めないものに
なっていきました。

以前は達筆だった方なので、おつらかったでしょうね」
11月中旬の深夜、ふと目覚めた康弘はベッド近くで
うずくまる玲子を見つけた。抱き起こそうとしたが
思うようにいかず、老々介護の厳しい現実に直面する。

家族で触れて、さすって、声かけをした時間

「お父さんに『好き!』って言いました?」
玲子が亡くなる2日前の夕方、 今井は緩和ケア病棟で
彼女を見舞った際、耳元でそうささやいた。

当日昼間から話せなくなり、目を閉じていた玲子だが、
今井の声には黙ったまま首を左右に小さく振って
みせたという。

だが、今井が面会した翌日に容態が急変。夕方には康弘と、
娘と息子両方の家族が玲子のベッドを囲んだ。

玲子が好きなポール・モーリアや、ニニ・ロッソの静かな
旋律が流れるなか、 それぞれが彼女の手を握り、
腕や脚をさすり、「お母さん」「おばあちゃん」
と声かけを続けた。

玲子が約3年前に意思表明書に書いた通りに、
家族だけで迎える時間になった。

看取り士が提案する「幸せに看取るための4つの作法」
を踏まえてはいるが、今井が事前に教えたものではない。

夫の康弘は淡々と語ってくれた。

「元々は今井さんが『手をつないであげてください』
と教えてくれたことから、(看取り時も)どれも自然と
生まれたものでした。

今振り返ると、妻が倒れる前に(夫として)もっと
できることがあったかなという想いもありますが、
みんなに囲まれて(妻の希望通りの)見事な最期でした」

確かに親友への「交際終了」手紙など、
「死に方は生き方である」と体現するような幕引きだった。

ちなみに今井は、自身が看取り士でもあることを、
玲子をはじめ山崎家の人たちには玲子が亡くなるまで
明かさなかった。あくまでも1人の訪問看護師として…、

結局、恋人つなぎの散歩は実現したが、玲子が「好き」
という言葉を康弘にじかに伝えることはなかった。

しかし、玲子が康弘に宛てて、ノートに
2017年の8月21日付で「あの世へ行っても、
ずうっと感謝し続けています」などと鉛筆で書いた
文章が、後日見つかった。 ・・・












東井義雄(とういよしお)
明治45年、兵庫県の担東(たんとう)町に生まれた。
昭和7年、姫路師範学校卒業。故郷の小学校に勤務。
以来、その生涯を小中学生の教育に捧げた人である。

東井さんは語る。
人間は5千通りの可能性を持って生まれてくる。
死刑囚になる可能性も泥棒になる可能性もある。
その5千通りの可能性から、どんな自分を取り
出していくか。

「自分は自分の主人公、世界でただひとりの自分を
創っていく責任者」

「世界でただ一人の私を、どんな自分に仕上げていくか。
その責任者が私であり、皆さん一人ひとりです」
講演の中で東井さんはそう繰り返し、一人の知的障害
を持った中学生の詩を紹介している。

私は一本のローソクです もえつきてしまうまでに
なにか一ついいことがしたい
人の心によろこびの灯をともしてから死にたい

彼は勉強はできないが、何か一ついいことをしたい
と頑張っている。これが賢い生徒。

ところが、少し勉強ができてもバカがいる。
ある中学生が下校の途中、通せんぼをした保育園の
幼児に腹を立て、刺殺する事件が起きた。

一度家に帰って刃物を持って引き返しての犯行。
なぜ、やめとけとブレーキがきかなんだのか。

彼は自分で自分を人殺しにした…東井さんが
涙を流して発した痛憤である。

木村ひろ子さんは生後間もなく脳性マヒになった。
手足は左足が少し動くだけ。ものも言えない。
しかも3歳で父が、13歳で母が亡くなった。

小学校にも中学校にも行けなかった。
わずかに動く左足に鉛筆を挟んで、母に字を習った。

彼女の詠んだ短歌がある。

『不就学(ふしゅうがく)なげかず左足に辞書めくり
漢字暗記す雨の一日を』

左足で米をといでご飯を炊き、墨をすって絵を描き、
その絵を売って生計を立てた。自分のためにだけ
生きるなら芋虫も同じと、絵の収入から毎月身体の
不自由な人のために寄付をした。

彼女はいう。

「わたしのような女は、脳性マヒにかからなかったら、
生きるということのただごとでない尊さを知らずに
すごしたであろうに、

脳性マヒにかかったおかげさまで、生きるという
ことが、どんなにすばらしいことかを、知らして
いただきました」

私たちは眠っている間も息をしている。
心臓の鼓動も自分が動かしているわけではない。
死ぬほど辛いことがあっても、胸に手を当てた時、
ドキドキしていたら、「辛かろうが、しっかり生きて
くれよ」と仏さまの願いが働いていてくれる、
と考え直してほしい。…

…五体満足なのに、人を殺めたり犯罪を犯す者がいる。
反対に、目が見えず、耳がきこえず、話せないという
三重苦のヘレン・ケラーのように感謝の心を持って、
他人のために生きた人もいる。

彼女はこう語っている。

「私は自分の障害に感謝しています。自分を見出し、
生涯の仕事に出会えたのも障害のおかげだからです。」
「人生がもっとも面白くなるのは、他人のために
生きている時です。」

「悲しみと苦痛は、やがて人のために尽くす心という
美しい花を咲かせる土壌だと考えましょう。
心を優しく持ち、耐え抜くことを学びましょう。」








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