貧者の一灯 ブログ

掲載しているお話は、当ブログには著作権はありません。
掲載内容に問題がある場合は、お手数ですが ご連絡下さい。

貧者の一灯・森羅万象

2022年04月17日 | 流れ雲のブログ























コロナ禍での生活はストレスがたまります。

みんな、ストレスの発散を求めているようにも感じます。
このストレスは、免疫の働きを抑制する要因を指します。

がんと免疫は深い関係があります。私たちの体の中では毎日
たくさんのがん細胞が発生していますが、免疫細胞がこれ
を排除し増殖するのを阻止してくれます。

がん予防の点では、免疫の働きはとても大切です。

本庶佑先生が開発の道筋をつけたオプジーボは、
「免疫チェックポイント阻害剤」と総称されています。

免疫細胞は常に体の中を監視していて、細菌、ウイルスなど
の他、がん細胞も異物として排除しています。

しかし、免疫の働きが強くなりすぎるとアレルギーや関節   
リウマチといった自己免疫疾患などが発生してしまいます。

このため、免疫力を自ら抑制する仕組みが備わっており、
「免疫チェックポイント機構」と呼ばれます。

がん細胞は、正常な細胞から「進化」していく際に、
いろいろな能力を身につけます。その一つが、免疫から
逃れる「免疫逃避」です。

がん細胞は、PD-L1という物質をつくり出し、
免疫細胞に発現している物質(PD-1)と結合
>させて、攻撃にブレーキをかけます。

オプジーボは、免疫細胞のPD-1と結合することで、
PD-L1によってかけられたブレーキを解除し、
免疫細胞による攻撃を再開させるのです。

絶え間なくストレスにさらされる現代社会

ストレスはがんの引き金になるとよく言われますが、
ストレスを抱えていると本当にがんになりやすい
のでしょうか?

人類の進化を振り返ると、もともとストレスは敵に
襲われるなど、生命の危機に直結するような事態に
遭遇したときに生じるものでした。

このようなストレスを感じると、ストレスホルモンが
分泌され、交感神経を刺激して体が「戦闘モード」
に入ります。

すると免疫システムが抑制され、心拍数や血圧を高めたり、
逃げるために走る方にエネルギーを振り向けたりするのです。

実は、免疫機能の維持には莫大なエネルギーが必要なため、
生命の危機が迫るような事態では、免疫にコストをかけては
いられないのです。

しかし、生物が進化をとげた野生環境では、このような
ストレスは一時的なものであり、危機を回避できれば
ストレスホルモンは減り、体はいつもの状態に戻ります。

これに対して、現代社会のストレスは、主に仕事や人間関係
によってもたらされるため、常にストレスを感じるような
人が増えています。

絶えずストレスにさらされると免疫が抑制され続けるため、
がんのリスクが高まるのではないかと考えるのは
とても自然です。





これまでの疫学調査で、ストレスとがんとの関係について、
強く示すデータはほとんどありませんでした。

そうしたなか、2018年1月、国立がん研究センターが
自覚的なストレスが長く続くと発がんリスクが高まると
いう研究発表をしました。

全国の約10万人を約20年追跡調査した結果です。

これによると、調査開始時に自覚していたストレスと、
その後のがん発症との関連については有意差があり
ませんでした。

しかし、調査開始時と5年後のアンケートの両方に回答した
約8万人を分析したところ、どちらの時もストレスが低いと
答えたグループと比べて、どちらの時もストレスが高いと
答えたグループでは、

がんになるリスクが11%も上昇していました。

ストレスとがんとの関連は男性のほうが顕著で、
特に肝臓がんや前立腺がんはストレスが高い人で
リスクの上昇がみられました。

長期的なストレスは、特に男性のがん発症リスクを
高めることが示唆されたわけです。

男性のがん発症率は女性より3割も多いのですが、
職場などでのストレスが関わっているのかもしれません。















脳梗塞でした。倒れてから、わずか4日で亡くなりました。
倒れるちょうど1週間前、私は介護老人保健施設で父に
面会していました。

お茶や水を飲まずに捨てていると、職員からの申し送りが
ありました。部屋を訪れて、「パパ、出されたお茶はパパの
体に必要なものなんだから、捨てないで飲みなさいよ」と、
私は父に注意しました。

父の死後、知り合ったリハビリ施設の方に、「お父さんは
飲みたくても、そのときはもう嚥下ができない状態だった
のかもしれない」と、教えられました。

そう聞いたとき、生まれて初めて、私は父から人生において
最大で最重要なことを教わったように思いました。

死に方のお手本を父が身をもって教えてくれたように
感じたのです。

倒れて4日あまりで逝ってしまう、

それは私を苦しめまいとしたようでした。私も願わくば、
自分の最期を父のように迎えたい、父のように死にたいと、
このとき強く心に刻みました。

2016年の6月初旬に話を戻します。…

突然ケアマネージャーから、「お父さんが脳の病気で意識が
混濁しているから、救急搬送します」との電話連絡が
入りました。

まだ受け入れの病院も決まらないままにタクシーに乗ったまま、
いつでも移動できるように待機していたときには、まだなんの
感情も湧きませんでした。

まさかそれが最期になるとは思わず、けれども、どう
しようもなく胸の内でざわつく思いを必死に打ち消して、
考えないようにしていました。

受け入れの病院が決まり、待ち構えていた私の前に、
入ってきた救急車からストレッチャーで降ろされた父の
顔は蒼白でした。

私はそこで初めて事態の深刻さを認識したのです。

左半身はすでに麻痺した状態でした。まだ動く右手で
父は、ものすごい力で私の手を握り締めました。

あれは私に対してではなくて、生きることにしがみついた
のだと思います。

医師からは、「お父さんは脳梗塞です。すでに左半身に
麻痺が回っています」と告げられました。

そういわれて見せられた父の頭のCT画像は、右半分が
真っ白になっていました。

「あとはご本人の生命力ですね」と、医師に告げられ
ましたが、私はこのときもまだ、「これで最期だ」なんて
考えませんでした。

「ずっとずっと信心深かった父が、こんなに急にあっけなく
召されるはずはない」

「父はカナヅチなので、きっと三途の川を渡り切れずに
帰ってくる、そう信じよう」

そう自分にいい聞かせました。

毎日、面会に通い、冷たくなった父の手足をさすり続け
ました。私たち父子がそうしているあいだも、入所の順番
待ちをしている人がいるので、父の介護老人保健施設を
解約しに行きました。

父がお世話になっていた介護老人保健施設も、特別養護
老人ホームほどではないにしろ、空きが出るとすぐに
埋まってしまうほど入所希望者が待機していました。

現在はもっと入所希望者が待機していると思います。

ケアマネージャーが私の顔色を見て、「あなたが倒れて
しまうから」と、荷造りを手伝ってくれました。

病院へ戻り、父の傍へ行くとなにも話せず、ただ動くほうの
手で私の手を握り返しました。

その手の力がだんだん、だんだんと弱くなっていくのを感じ、
「本当に最期なんだ」と知りました。

思えば、父と手をつないで歩いた記憶もありません。

父は非常に不器用な性格で、私に対していってほしかった
言葉も、人に対するねぎらいの言葉も声に出していって
くれたことが、生涯でただの一度もありません。

「ありがとう」も「すまんな」も全部全部入っていたよね。

娘に人生のお終いに、手足をさすってもらってう
れしかったよね。

父の呼吸が、徐々に浅くなっていくのを感じていました。

倒れて3日目の朝3時半に固定電話が大音量で鳴りました。
「お父さんが危篤です、すぐに来てください」

もちろん、すぐに駆けつけましたが、ここからが昭和一桁
生まれの心臓の強さです。

17時間近く、生命維持装置で持ちこたえました。

私は疲れて、病室の床で寝てしまいました。家に着替えに
戻ったあいだに、再度危篤の連絡があり、私の到着を
待っていたように生命維持装置は外されました。

「ご臨終です」

「え? これで終わり?」
いくつも疑問符が沸いては消えました。

ここでもまだ実感は湧いてきません。ただ、
「これからどうしよう」という思いで頭のなかは
いっぱいで、涙は一滴も出ませんでした。

父との別れ

走馬灯のように思い出が駆けめぐるのかと思ったら、
それも違いました。悲しいという気持ちはもちろん
ありましたが、続けて喪主を務めたため、感傷に浸って
いる暇がなかったのが正直なところです。

思い返すと私の家族は、ずいぶんとチグハグな関係でした。

時代背景がそうさせたのか、それとも私たち親子が単に
相性が悪かったからなのか、恐ろしく遠回りをして、やっと
両親を看取ることができました。

完璧な人間はいません。ですから、完璧な親でも子でもなくて
よいのです。私はやっとこの結論にたどり着きました。

なにもこれは私だけに限ったことではなく、外から見ている分
にはわからない、どこの家庭にもありうることだと思います。

父と私、そして別れ

私の父は、2016年6月に急逝しました。脳梗塞でした。
倒れてから、わずか4日で亡くなりました。




次回掲載…2016年の6月初旬に話を戻します。







最新の画像もっと見る

コメントを投稿