小学校のPTA会長の飲み会からラブホへ
「私、根っからの不倫体質なんだと思う」
菊池弘子(仮名)は、うつむきながら、
不意にそう呟いた。
待ち合わせ場所のJR三鷹駅に現れた弘子は、
可愛らしい黒縁眼鏡に三つ編みという、一見
オタクっぽい感じの外見だった。
小学生ほどの背格好ということもあってとても
53歳には見えず、少年のような幼さが残る
不思議な雰囲気を漂わせていた。
だが、弘子はそんな容姿から想像できない
ような波乱万丈の不倫人生を30代から
歩んできた。
黒髪の間にチラホラと見える白髪だけが、
弘子の年輪を感じさせる唯一のものといえた。
子どもは3人いるが、今は全員独立して
家を出ている。
弘子が東京都の支援を受けて介護福祉士
の資格を取ったのは3年前。離婚後の現在は、
介護福祉士として障害者施設とデイサービス
の夜勤で生計を立てているという。
弘子が7歳年上の夫、良平(仮名)と結婚した
のは21歳の時。会社の後ろの席にたまたま
座っていたのが、夫の良平だった。どこに
でもある、ありふれた職場恋愛…。
しかし、結婚当初は風邪を引くと介抱して
くれた優しかった夫が、郊外にマイホームを
構えた途端、DVの兆候が表れ始め、その
優しさは一気に言葉の暴力に豹変(ひょうへん)
したのだった。
「私の不倫の一因は、今でいう夫のDVとか
モラハラ。夫に“くず”とか、“ゴミ”とか毎日の
ように言われ続けたことが大きかったと思う」
弘子はそう言うと、少しずつ過去の記憶を
掘り起こしていった。
「そのせいで、すごく卑屈な人間になって
いたし、自分のことを愛せてなかったと思う。
だから不倫に逃げたんです。
当時は専業主婦だったから、毎日ごはんを
作ってお父さんの帰りを待ってるんだけど、
お皿の盛り方が悪いと、“馬が食うんじゃねぇん
だぞ”とか、とにかく怒鳴るようになったんです。
私の持ち物をガンガン捨てたり、燃やしたり
するし。いつお父さんの怒りが爆発するかは
わからなくて、常に怯えていましたね。
20年前はDVという言葉もなくて、世間的に
あまり認識されていなかった。モラハラなんて
いう言葉もなかったし。
“言葉の暴力”という言い方はあっても、
“くず”とか“馬鹿”というのは言葉の暴力に
入ってなかったんだよね」
「お母さんみたいになっちゃだめだよ」
ことあるごとに夫はそう子供たちに吹き込んで、
弘子の存在を貶(おとし)めた。
そんな生き地獄のような家庭生活からの逃避、
それが弘子にとっては不倫だった。
最初の不倫は、弘子がたまたま長男の通う
小学校のPTA会長になったことがきっかけ
だった。
相手は、他の小学校のPTA会長で、電気工事
会社を営む6歳年上の稲田浩平(仮名)である。
PTA会長になると、連絡協議会などへ参加する
ため、他校のPTA会長とも顔を合わせることが
多くなる。
会議の後は、飲み会、カラオケへと雪崩れ込む
のがお決まりのコースだった。
当時、女性のPTA会長が少なかったこともあり、
弘子は常に男性の注目の的だった。PTA会長
同士がひっそりとデキることも日常茶飯事だった
という。
「PTAは、とにかく不倫が横行していました。
会議が頻繁にあって、飲み会などの交流も多い。
会議に行くたびに顔を合わせるから、“あっ、
また来たね”となって顔も覚えるし、名前も覚える。
私の場合は突然だった。
会議の後に、浩平さんから“一緒にごはん
食べようよ”と言われて、そのまま彼の車に
乗ったら、勝手に山道のほうにどんどん
入っていった。
“この先、ごはん食べるとこないよー”って
言ったら、“いやいや、別に添い寝してくれる
だけでいい”と言って…
ラブホテルに無理やり車を入れられちゃって。
そのまま、押し倒されちゃったんです」
しかし、ほんの火遊びだった浩平の誘いに
対して、本気になってしまったのは弘子の
方だった。
浩平のために新しい下着を新調し、さらに
ネイルや髪形も変えた。夫は、そんな弘子の
変化に気づくこともなかった。
「私も、そのときはお父さんとは4、5年セックス
レスになっていて、久々に人の温もりに触れた
から、実は嫌だという感情はなくて、むしろ求め
られてすごく嬉しかった。
その人となりを好きになっていったというよりは、
セックスに溺れていったという感じなのかな。
だから、きっとその人が好きだったんじゃなくて、
彼に求められるがままにセックスにハマって
いった。とにかく毎日が寂しかったから」
たった一回のセックスに過ぎなかったが、
弘子は不倫の沼に足を取られてしまっていた。
まさに、それからは底なしの沼が弘子を待ち
構えていた。
ある日、弘子は浩平に勧められて地元の
コーラス部に入った。しかし、そこでは、
浩平が若いママたちと親しげに会話をして
いる姿を目にすることになった。
浩平は根っからの遊び人で、これまでも
複数の主婦たちと付き合っていた。
女たちにちやほやされる浩平を見るのは、
弘子には辛かった。帰り道に浩平のことを
延々と責めるという日々が続いた。
「お前、おかしいよ。
なんで恋人気取ってんの?」浩平は、
そんな弘子の態度に嫌悪感を露わにした。
コーラス部で休憩時間にコーヒーが回って
きた時のこと。カフェインが苦手な弘子は、
思わず浩平に「悪いけど、私コーヒー飲め
ないから、飲んでくれる?」とお願いした。
すると、浩平は終了後、二人きりになった際に、
「何様のつもりなんだ? お前がそういう仕草
をすると、周りの人からどう思われるか考えろよ」
と怒った。
弘子にとっては、たった一人の相手でも、
浩平にとっては数多の遊び相手の一人で
しかない…。
その事実は、弘子をひどく傷つけた。
それ以降、弘子の好意は激しい嫉妬になって
暴走し、とどまるところを知らなかった。
「公民館の駐車場で、3時間ずっと彼が帰って
くるのを待っていたこともあります。たぶん相手
にとっては面倒臭い女だったんです。
でも、距離を取りたいのかなと思うと、
いきなり電話をかけてきてくれたりするから
舞い上がるわけですよ。
その繰り返しでしたね」
妻とはうまくいっていない…。会うたびにそう
言って弘子に言い聞かせてきた浩平だったが、
それは弘子の身体を弄(もてあそ)ぶための、
いわば殺し文句だった。
弘子の暴走は遂に臨界点に達した。
浩平が非情にも妻の妊娠を告げたのである。
「あれほど奥さんは女じゃないと思ってるとか、
あいつは俺のことなんて愛してないし、俺は
お前だけだって言っていたのに、結局、
やることはやっていた。
奥さんの妊娠について問いただしたら、
“そりゃ夫婦だからな、同じ屋根の下に住んで
るんだからやるだろ”と言われたんです。
“俺の妻でもないのに、思い上がるのも
いい加減にしろ”って。
今思うと、あたしはそのとき、相手の人格とか
を見極めないまま、寄りすがっていただけ
だったんだと思います」
浩平から妻の妊娠を突きつけられて、一気に
頭に血が上ってクラクラと眩暈(めまい)がした。
“奥さんのお腹を引き裂いてやりたい”。
弘子はそんな危険な衝動を抑えることが
できなかった。
気付くと弘子は、不倫相手の子供の運動会
を観覧していた。
「誰にも気付かれないように、帽子を深く
かぶって彼の子供の運動会を見に行ったの。
あれは本当にストーカー行為だったと思う。
そしたら、夫婦の周りをご近所さんたちが取り
囲んで、それはそれは楽しそうでした。
その瞬間、カーっと怒りが込み上げてきたの。
なんかね、自分のものを奪われたような気に
なったんだろうね。当たり前なんですけど、
彼の隣には奥さんがいて、とても幸せそうな
顔をしてるんですよ」
お腹を裂くという凶行はすんでのところで
思いとどまったが、運動会の帰り道、絶望
とも呪詛(じゅそ)ともつかない、どす黒い
感情だけが澱(おり)のように残った。
夫が作った家庭という入れ物の中で、弘子
はただの付属品、パーツに過ぎなかった。
しかし、目の前には、楽しそうに笑い合う
不倫相手とその家族がいる……。
家庭の中で自動人形のように振る舞うしかなく、
心から安らげる居場所を失った挙げ句、弘子
は不倫に救いを求めた。
しかし、家庭の不和を遠ざけて、「心」を求め
れば求めるほど、弘子の行動はストーカーの
ような体をなし、不倫相手はそんな彼女に
嫌気がさして遠ざかっていく。
弘子は引き裂かれそうな苦しみの中にいた。
それでも不倫は止められず、一種の嗜癖
(しへき)のように誰かの温もりを渇望した。
そう、それは弘子にとって、自己を助ける
「救済」の手段だった。
だが、浩平とは、妻の妊娠を機に破局した。
しかし、弘子はそれでもまだ見ぬ相手を探し
続けた。
それは、かつてない禁じられた旅の
始まりだった。 (後編に続く)…
宮崎康平氏は、長崎県島原市の人。
大ベストセラー『まぼろしの邪馬台国』で、
邪馬台国ブームの火付け役となった盲目
の作家・詩人・実業家です。
「島原の子守唄」の作者でもあり、
さだまさしさんの恩人でもあります
※
33歳で過労のため失明
宮崎康平氏は早稲田大学で森繁久弥氏と
ともに演劇活動をしていて、脚本家として
東宝に入社しています。
しかし、兄が死去したために、故郷の長崎
・島原に帰って家業を継ぎ、島原鉄道の
常務取締役となりました。
過労のため33歳にして失明。
しかも、失明後は先妻から離縁を突き
つけられ、会社は辞任します。
暗闇への招待状を受け取った康平氏は、
世を恨み、身の不遇をかこちながら明け
暮れていました。
その時に残された子供をあやすために
作った「島原の子守唄」がヒットすること
になります。
1956年、島原鉄道からの強い要請で、
再び常務取締役となりましたが、その翌年
に島原大水害に襲われます。
その際に流失した土器の破片を見つけた
ことをきっかけに古代史に興味を持ち、
特に以前からあこがれていた邪馬台国の
探求を始めます。
夢を追い続ける夫婦二人の旅
けれども、それは盲目の康平氏ひとり
では決してできないこと。
康平氏を支えたのは、再婚した
妻の和子さんです。
目の見えない夫に、和子さんは
『魏志倭人伝』『日本書紀』『古事記』など
を繰り返し読み聞かせ、立体地図を
作ってあげます。
白い杖をつく夫の目となり、九州各地を
2人で調査の旅を続けます。
康平氏は会社を退職しましたので、
生活は苦しく、家財道具も売り払い、
ついには借金生活に落ち込んだと
いいます。
そうして康平氏の口述を和子さんが書き
留める共同作業で、夫婦の夢である
「まぼろしの邪馬台国」を著していきました。
すさまじい情熱です。
日本中に「邪馬台国ブーム」が起こる
こうして一九六七年、ついに『まぼろしの
邪馬台国』は完成。
発売と同時に、本は大ベストセラーとなり、
日本中に邪馬台国ブームを巻き起こすこと
になるのです。
夫婦で作り上げた夢の本は、第1回
吉川英治文化賞に輝きます。
ちなみに、さだまさしさんは、宮崎康平氏
をモデルにした「まほろば」という歌を作って
います。
「貧の友は真の友なり」
宮崎康平氏が晩年好んで色紙に
書いた言葉に
「貧の友は真の友なり」
という言葉がありました。
「貧しい時の友達こそが本当の友達だ」
という意味ですが、「自分が恵まれない時に、
困っている時に、自分のそばを離れないで、
そばに居てくれた友達を大事にしなさい」
というつもりで書いたのでしょうか。…
康平氏が、順境のときも逆境のときも、
ともに居てくれたのは妻の和子さんです。
康平氏は和子さんには、「貧の妻は
真の妻なり」と感謝していたのです。
ちなみに映画では、吉永小百合扮する
和子さんは、こう言います。
「あなたと過ごした毎日は、本当に
幸せだった」
貧しく苦しくとも、ふたりで夢を追いかけて
歩んだ人生は、ふたりにとって幸せな
日々だったのです。…
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