葉書には「水俣問題はまだまだ先が見えないのに私だけ
賞などもらっていいのだろうかと考えてしまいます」とある。
いつか夫婦ぐるみのつきあいとなっていたが、2012年の
6月11日に原田が77歳で亡くなってまもなく、妻の寿美子は
一切家を出なくなった。
いや、出られなくなったといった方がいいだろう。
私も原田ほど深い笑顔の人に会ったことはないが、
妻にとってはとてつもない喪失感だったのである。
しばらくしてようやく話せるようになった寿美子は「私は
夫の宝くじに当たった」と言い、「もう一度、原田と話し
たいの」と繰り返した。
家にこもりきりになったのも“当選くじの夫”を失った
からである。
何度もそう言う寿美子に娘たちは、「お願いだからやめて」
と頼んだらしい。
恥ずかしかったからだというが、私は冗談まじりに
ツレアイに「そのくらい言ってみたらどうだ」と問いかけたら
「組違い」と一蹴された。
「ハズレくじと言わないだけいいでしょう」と付け加えられ
てギャフンである。
ツレアイ同士が親しくなって、原田は私に「ヤバイですよ」
と耳打ちしたりもしていた。
原田が亡くなった翌年の春に私は『原田正純の道』
(毎日新聞社)を出した。
副題が「水俣病と闘い続けた医師の生涯」である。
「未来へと語り伝えたい人」である原田の闘いに
ついてはそこに詳述したが、書けない話もあった。
原田に無理を言って送ってもらった本に『この道は』がある。
中にこんな手紙が入っていた。 「先日は楽しい時間を
下さってありがとうございました。やっと1冊みつけましたが、
恥ずかしい限りです」
郷里の新聞に連載してまとめられたものが評判を呼び、
増刷をとなったのだが、夫人の寿美子にストップをかけられ、
稀少本となっていた。
再版されなかった逸話集 ・なぜ、ストップをかけられたのか?
前半の方に「まぶしい美少女にくぎづけに」という章がある。
そして、セーラー服姿の「美少女」の写真が載っている。
中学時代のことらしいが、まず、原田がその写真を持って
いたことに驚く。あるいは、新聞連載中は、寿美子はあまり
熱心に読まなかったのかもしれない。
次に「新婚旅行は北アルプス登山」。こちらの方がもっと
問題になったのだろう。原田は若くして母を亡くし、義母が
見合い写真を山のように送ってきた。
それで「追いつめられていた」という。
当時、原田は熊本大学の精神神経科の医師であり、
妻となる寿美子は同じ科で働いていた。
そして、原田が委員長だった勤労者演劇協会の事務局員
に、彼女をオルグしていたのである。
こうした状況下に見合い写真が届く。その後の一文は。
<私の周りの女性たちは頭脳明晰で才能あふれ、
活動的で個性的で魅力的な人が多かった。しかし、
私は何かホッとする雰囲気が欲しかった。
結婚相手の条件は、今なら女性差別と怒られそうだが、
「朝飯、みそ汁、手作り弁当」だった。
彼女は今もそれは守ってくれている。
彼女も私と同様、父を幼く戦傷病でなくしていた。
彼女の母は女手一つで4人の幼子を百姓をして育て
あげている。
その苦労は大変なものだったと思われるが、
愚痴一つ、恨み事一つ言うでなく、
明るく、たくましく、楽天的な義母である。
日本の農村の母の原型をみる想いで頭が下がるのである>
私はこれを読んで吹きだしたが、原田は夫人をはじめ、
かなりの女性から怒られたらしい。
仇討ち的に夫人から聞いたところによれば、原田の
「つきあってほしい」という申し出を彼女は最初断った。
断られた原田はショックを受けて何も食べられなくなった。
間に入る人がいて何とか交際が始まり、めでたくゴールイン
することになったのである。
原田を知るに当たって『この道は』は欠かせない逸話集
なのだが、寿美子は頑としてこの本の再販や収録を
断っている。
だから、原田の死後刊行されたいくつかの本にも収められ
ていないのである。
原田の真骨頂を示す「遺言」
朝日新聞西部本社編の『原田正純の遺言』に、原田の
真骨頂を示す「遺言」が載っている。
現在のメディアの中立バンザイめいた風潮への痛烈な
批判だろう。
<医学者の意識、研究者の意識の中に
「政治がらみのものは避けたい」という、変な中立主義
みたいなものがあるんです。
「医学は中立だ」と。それは、AとBの力関係が同じだったら、
中立というのは成り立ちますよ。だけど、圧倒的に被害者
のほうが弱いんですからね。
中立ってことは「ほとんど何もせん」ってことですよね。
「何もせん」ってことは結果的に、加害者に加担して
いるわけです。
全然、中立じゃない。権力側に加担している。
それこそ政治的じゃないかと思うんだけど、
ところが、被害者側に立つと、「政治的だ」と言われる。
逆ですよね。
これは学んだ、というものではなくて、水俣の患者とつき
合う中で、あるいは三池の患者とつき合う中で、気づかせ
てもらったというか、実感として感じとった。
「理屈じゃない」と思っているんです>
原田は有機水銀に侵されたカナダの先住民の居留地
にも行った。冒頭、「俺は日本人で、英語が下手だ」と言うと、
彼らに「英語の上手なヤツは悪いヤツだ」と返された。
お世辞がうまいなと思ったら、そうではなくて、彼らは実際、
英語の上手なヤツにだまされつづけてきたのである。
原田は同じく水俣病を告発した宇井純から
「公害は差別のあることころに起こる」と言われたが、
水俣病と闘ったために原田自身が差別を受けた。
国が御用学者と結託して、水俣病は有機水銀が原因で
はないと誤魔化しつづけたので、それに逆らった原田は、
いくら主任教授が推薦しても国立の熊本大学では、
教授になれなかったのである。
「教授会に出なくてすむからいいんですよ」と原田は
衒(てら)いもなく笑っていたが、
世界が注目して称えた原田を教授にしなかったことで、
日本が世界から笑われていたことを、当時の国やエセ
権威者たちはわかっていただろうか。 …
岡山県内の河川敷で昨年8月、56歳の男性が、
末期がんを患う83歳の母親の首を絞めて殺害する
事件があった。
男性はコロナ禍で仕事を失い、1人で母親を介護していた。
孤立を深める中、母親は死を望み続け、最期に
「ありがとう」と口にしたという。
3月に嘱託殺人罪などで執行猶予付き有罪判決を
受けた男性は「どうすればよかったのか」と
今も自問し続けている。
2人暮らし
岡山地裁の判決によると、男性は昨年8月23日未明、
同県和気町の河川敷で、母親から頼まれ、首をひもで
絞めて殺害し、遺体を放置した。
3月15日に懲役3年、執行猶予5年を言い渡された後、
岡山市の更生支援団体のサポートを受けて暮らす
男性が取材に応じ、その日までに起きたことを語った。
男性は高校卒業後、県内の工場に就職したが、25歳の頃に
交通事故に遭い、重い物を持てなくなり、退職。
その後、職を転々とするようになったという。
結婚し、子どももいたが、40歳前に離婚。
実家で両親とともに全盲の兄の世話をしていたが、
数年前に父親と兄が相次いで亡くなり、母親と2人
暮らしになった。
そうした中、2020年、コロナ禍が襲った。
当時、自動車工場の新車を運ぶ仕事をしていたが、
生産台数の減少で職を失った。
追い打ちをかけるように、母親に乳がんが見つかった。
治療費がかさんで生活が苦しくなり、自宅を売った。
仕事を探したが、50歳代の年齢がネックになってなかなか
見つからず、21年2月、生活保護を受給。
ほどなく母親のがんが肝臓に転移した。
病状が進行するにつれ、母親は「迷惑をかける前に
殺して」と口にするようになった。
母親は兄の世話で苦労し、同じ思いをさせたくないと
考えていたという。
男性は通院に付き添い、生活の世話をしながら
「そんなこと言うな」と励ました。
しかし、コロナ禍で周囲との交流もなくなる中、
自身も追い詰められた。
「おかんを殺して、俺も死ぬわ」
「そうか、悪いな」
21年8月22日夕、電車で現場の河川敷に向かった。
「子どもの頃、毎年大阪まで花火を見に行ったなあ」。
橋の下に座り、日付が変わるまで思い出を語り合った。
翌23日午前2時頃、男性は母親が自宅から持ってきた
ひもを母親の首に巻いたが、手が震えて2度失敗した。
「何度も心の中で『ごめんな』って謝りながら、
おかんの首を絞めた」。
母親が眠るように息を引き取った後、夜が明ける
まで寄り添った。
翌日、死に場所を探してさまよっていたところ、
警察官に身柄を確保された。
「最後の願い」
判決では、執行猶予とした理由について
「将来の見通しが立たず、他者との交流に乏しい中、
母親の自殺願望の影響を受けやすい状況だった」とした。
男性は取材に「殺したくなかった。
でも、助けてくれる人がおらず、おかんの最後の願い
を聞いてあげたいとしか考えられなくなった」と
涙を流しながら話し、
「自分は生きていていいのか」と何度も口にした。
男性の更生や就労を支援する団体の社会福祉士は
「孤立が男性を追い詰めた。
周囲に助けを求められれば、結果は違ったのではないか」
と話し、「男性が『生きていいんだ』と思えるよう、
支援していきたい」と話した。
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