Happy sprout / 幸福の芽 蓮みろく3

心の時代へのパラダイムシフト、ひふみ神示(日月)や古史古伝と共にみろくの世に向かって

アブラハムの子孫とエルサレム

2024-01-19 05:03:00 | 日月神示

幸福の芽のblogは閲覧数が伸びないblogですが日本全国、世界各国

に読んでくださる方がおられます。2010年頃にはアラブの国も

読んでくださっていることを認識しています。

 

アブラハムはアダムから数えて20代目です。

アブラハムはなかなか子に恵まれず、高齢になってから2人の子を

持ちました。

 

イサクは直系でアブラハムの子孫を後々に伝えることになります。

この時アブラハムはシュメール時代からの多くの民と共にいて

導いています。

イサクの後にモーゼとイスラエルの民に繋がっていきます。

 

そして母ハガルと共に荒れ野に行ったイシマエルは一つの国民の

父となります。

アブラハムの子であり一つの国民の父イシマエル、すなわち

イスラム教徒の父であり祖です。

ムハンマドは天使から啓示を受け、自らを神としていません。

経典はコーランですが旧約聖書、新約聖書も含むと言いました。

信仰する者は戒律を守って教徒になれ、そしてイスラム教徒

ムスリムは共同体を作り生活しています。

一夫多妻制などはムハンマドの言葉を聞いた者たちの受け取り

かたであったと思います。

 

ユダヤ教、キリスト教の聖地はエルサレムです。

そしてイスラム教には聖地が3か所あり、その1か所がエルサレム

です。

現在、エルサレムにはユダヤ教徒にとって巡礼地で嘆きの壁が

あり、神殿を建てる予定地です。

キリスト教徒にとってイエスが復活した地、巡礼地となります。

イスラム教徒にとってムハンマドが昇天する旅をした場所、

岩のドームが築かれ聖地となっています。

 

 

 

 

 

 

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心の時代を生きる「三諦円融」 再々々掲載

2024-01-19 04:03:00 | God

ここで昨年3月28日の記事、三諦円融について再々々掲載します。

2010年5月11日にも再々掲載したものです。

三諦円融は仏教、天台宗の三つの真理のことです。

 

2023年3月28日 「心の時代を生きる 三諦円融」

長年の私の研究について掲載します。

三諦円融を知り、菩薩の境地について図式化したものです。
 
2010年5月11日に「心の時代を生きる1」という記事があります。
ここで再々掲します。
 
仏道を求めるなら、仏さまを求めながら今の時代を生きていくことが
大切だと思う。仏教のことばに「三諦円融」というものがある。
そのことについて書いてみたい。

三諦は三つの真理、
「空諦(くうたい)」― この世の価値観から離れ、仏さまの世界(空)が
あるという真理
「仮諦(けたい)」― 仏さまの世界があるが一旦否定した今生きている
この世(この世は仮の世、有の世界)があるのも真理
「中諦(ちゅうたい)」― 仏さまの世界と今生きている世界と二つの
世界があるという真理はあるが、それぞれの世界でそれぞれの中だけに
真理があるのではない。その二つの中に真理がある。

今の時代を生きていくには「空諦」、「仮諦」、そして「中諦」の
三つの真理、それぞれの世界があり、それぞれを円融(妨げることなく、
またそれぞれの世界を融合)して生きていくことが大切であり、
その中で仏さまの意図を感じ取っていかなくてはならない。

仏さまが見ている世界があり、現実社会の事象を見つめ、そしてその中に
真理を見つけていく。
 
 
 

仏さまは愛であり、このときの愛はそれぞれの人がそれぞれの人の悟りを
得て、心の向上を目指すことにある。
そしてこの個人の心の向上が社会に反映していくことが大切。

仏さまの意図を感じ取って、または仏さまの意図にできるだけ添って
今の時代を生きていくことが大切であるとそう思う。

 
2010年8月13日に「心の時代を生きる2」を続けて再掲します。
 
何度も泥中の花について書いているが蓮華の花は仏教の言葉で
「上求菩提下化衆生」につながっていくと思うと書いた。

インドの頃の僧団では心の修行を行い、自らの悟りの向上を目指し、
仏さまに近づいていき、悟りを得ることを修行としていた。
インドの時代は階級があったので上下という表現だが、仏道修行者は
自らは仏さまを求め修行をしていくが、一方では衆生に仏法を伝え、
悟りの道に導いていくことが大切だった。

泥中の花はインドのお釈迦様の時代に仏道を求め、心を磨き、清らかな
花を咲かせることが大切というものだと思う。

心の時代を生きる1では「三諦円融」、
あの世とこの世があり、心の向上を目指し、その中で仏さまの意図を
感じ取りながら生き、そしてそれを社会にも反映していくこと、
仏さまの意図に添って今の時代を生きていくことが大切であると思うと
書いた。

インドのお釈迦さまの時代から年月がたち、学問、教育がある時代、
そして情報社会に生きる私たちにとって「心の時代を生きる」とは
どんなことか、それには仏さまはいったいこの社会をどうみて
いるのかと考えてみることが大切だと思う。

本来、仏さま、神仏の目は
この世とあの世の全てを見つめている存在である。
現代社会であの世の存在を知りながら、神仏と一体になって神仏の目で
見たらこの世はどう見えるか、
「どうしたら多くの人が幸福に生きることができるか」を思い、それを
社会に反映しながら生きていくことが大切であると思う。

「 泥中の花は自分を磨き、きれいに咲くが、
  泥も根も暗闇の中、もがきながら一生懸命に生きている。
  泥も根も心のどこかで花にあこがれ、花になってみたいと
  思っている。 」

仏さまは蓮華の花のみではなく、その泥も根も暗闇の中で迷って
いる、その姿を見つめている。
また葉があり、花が終わって実になろうとするものもある。
その全てに仏性が宿っている。
そして空気があり、太陽の光がある。
その環境の中で仏性をもつ泥も根も花に向かっていくには
どうしたらよいか、幸福になるにはどうしたらよいか、
そう考えていると思う。
 
 
 
 
 
ムー大陸、ムー文明には蓮華の花が咲き乱れていたのでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
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