Happy sprout / 幸福の芽 蓮みろく3

心の時代へのパラダイムシフト、ひふみ神示(日月)の八通り目の解読や古史古伝と共に弥勒の世に向かって 

人生の岐路、人生の選択2 

2024-01-21 21:33:00 | 日記

日月神示を読んでいる方々や読んで無い方も、今縁があって私の

blogを読んでくださっている方々全ての魂には個性があり、癖が

あります。少なくとも日月神示を読んでいる方々は意図的に自身の

向上を目指しておられるでしょう。

 

人生は日々、一瞬一瞬に自分自身の心に飛来した思いをどう選択

したか、その選択の連続でできています。

人生の中で自分自身の前にある大きな分かれ道を決めなくては

ならない時は悩みに悩み、決めていくと思います。

何かを調べたり、誰かの助言が必要かもしれませんが、最後は

自分の責任で選択しなくては、失敗したときに誰かのせいにして

しまってうまく進めなくなってしまいます。

 

非常に自己肯定感の強く人の意見を聞けない人がいたり、または

自分なんかと思う自己否定が強く人の話を聞けない人もいます。

魂の癖はいろいろあるけれどそれはその人の姿はその人が選択

したものが現れていることに違いありません。

人が変化するときは出会いや言葉です。自分にとって大事な何か

を知る機会が必要です。まず知らなくでは変化は難しいと思います。

人は人を変えようとしても変えることは難しい。しかし、その人に

とって重要な言葉や知恵を知る機会を与えることはできます。

 

心の法則で有名なのは引き寄せの法則でしょう。人が壁にぶつかる

と出会うことが多い、たくさんの書籍も販売されています。

ですが肝心な時に忘れてしまうこともあるでしょう。

心の法則では選択したことを一瞬思ってただけでは成り立ちま

せん。思いの持続も大事です。

ポジティブシンキングを繰り返すということでしょう。

人生には岐路があり、たくさんの選択をします。そのときに

自身の成功や向上する方向を選ぶことは大事なことですし、その

選択の積み重ねが道を開くと思います。

そして重要なのがそれが神の御心に合っているかどうか、その時に

しっかりと考える必要があります。

 

しかし、高齢に差し掛かり自身の人生の先が見えた時や急に

大きな不安にかられ意識が低下する、悪化するとうつ症状が

酷くなる場合もあります。

若い方々でも先に恐怖や苦しみがきた時に戸惑い、落ち込む

ことも通常だと思います。

何かきっかけがあれば立ち上がれるということがあります。

天災が起きた時、知らないことで恐怖や苦しみが増しているの

なら、知ることは非常に重要になります。また知ったことで

恐怖や苦しみが増したなら心に力をつけることが大事、また振り

切るために体を動かしてみることも大事です。

誰かと話をしたり、仲間を見つけて解放することも大事です。

人は苦しい時「どうしてこんなことになったんだろう」と思い、

悲しむのは更に辛い、自責の想いに駆られたり、誰かのせいに

したいけれどどうにもならないということもあります。

苦しんでおられるならまずその心に寄り添うことが大事ですが、

知るというとでその後の選択肢が広がり道を開くことがあります。

 

今、お辛い方々に向かっていうことではありませんがこれから

災害が多く起きることを知っていることはその人の魂を守ります。

先に道があることを知れば、道を開くこともできると思います。

過剰に反応し続けると心が疲労困憊してしまい力がでません。

知ることで心の準備と備えをし、勇気をもって日々を送ることが

大切であると思います。

 

日月神示には災害が続くけれど、先の世界、新時代があることを

告げています。

 

 

 

 

 

 

 

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人生の岐路、人生の選択1

2024-01-21 21:03:00 | 日記

人生の中で日月神示の書籍と出会う、

そして日月神示を手にしたときに自分との「縁」を感じ、突き動か

される何かを感じる、神を知りたい欲求にかられるのではないで

しょうか。

 

日月神示を読んでいる方々は既に人生の何かを掴みたい、世界の

何か重要なことを掴みたい、自分の向上を図りたいと思っている、

もしくは神様が好き、神様に近づきたい、神の計画を知って

神様の役に立ちたいという向上心を持っておられるのではないか

と思います。

読んでいくうちに自分自身について納得したり、修正しなくては

ならないと思い当り、修正します。

個々に本を読みながら心の掃除をし、身霊磨きをしていきます。

 

社会に生き、当たり前と思える人生を歩んでいく、

その中でこれが自分の人生の本当の目的なのかと気づくこと、

それはいつ訪れるかは個々に違います。人生にとって重要な

何かを掴むことはとても大切です。

何かに失敗してそこで人生を終えるならその魂は苦しみ続け

成長できません。人は永久に変わらないなら成長することは

ありませんし、社会も悪い方向にしかいかないでしょう。

失敗はそれを糧にして先に進まなくてはなりません。

傍から見ていて急に人が大きく変化することがあります。

 

何かに躓いたら、そこはその人の岐路になります。

どんな選択をするか。

どんなきっかけで変わるのか、どんな出会いで変わるのか、

どんな本で変わるのか、どんな言葉で変わるのか、以前聞いた

どんな言葉を思い出して変わるのか。

自分を変化させ、成長する気付き。

これはたいへん重要なことです。

自分の立場に捉われ修正できるかできないか、それは大きな岐路

です。これは日月神示にも書いてあるとおり、人だけでなく、

神々にも同じことが言えます。

どうしても修正できない魂があります。影響力の大きい魂が

あり人を責めて脅し、迷わせる魂、終末時期に現れます。

その魂は自分が変わることができず、神が悪い、周りが悪い、

人に対しても「人は変われない、同じ過ちを繰り返す」と

言います。

そのような言葉に騙されず、光を目指し成長の渦の中に入ること

がたいへん重要です。

 

なかなか気付かないかもしれませんが神や神々は人々に目覚めを

与えるサインを繰り返し送っています。

神、そして神々が人々のその気付きと目覚めの時を待っています。

 

 

 

 

 

 

 

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日記 「幸福の芽」の前後

2024-01-20 14:13:00 | 日記

私は非常にコンプレックスに悩みながらも、とても伸びやかな

環境に育っています。

 

子供の頃は毎日、学校から帰宅すると自宅周りや近所の植物観察に

出かけていました。植物たちが前の日とどのように変わっているか

変化が楽しみで植物を良く愛でていたと思います。どこで何がどの

ように育っているか、たぶん誰よりも詳しかったと思います。

時々は引き抜いて植え替えたりしていました。

空を見上げるのも、遠い山も見るもの、木登りも好きでした。

小学校の頃には植物の挿し木ができて、中、高校の頃はアニメも

好きでしたがお菓子作りが大好きで、手芸で小物を作ったり

染料を作ったり買ったりして染物をしたり編み物をしました。

高校の時は自宅近くで花壇に種を蒔いてを育てていました。

なぜか機械類も好きでした。

今でこそ過敏性大腸炎という名前がついていますが中学入学後

からお腹の調子が悪くなり、貧血も相まって保健室に通い、

高校生活では腹痛でよく早退していました。

中学から集中力が非常に落ちたことを実感していました。

 

最近、SHOGENさんの縄文の話を聞いて子供の頃のことを

思い出していました。

本日、X-twitterで食べ物について書きました。

X-18歳くらいまで肉、生卵は吐き気が勝って食べれません

でした。魚は切り身を少しくらい。 自然の探訪が好きで毎日

植物の成長する姿を見つけるのが好きでした。

縄文かな。現代は荒波。

 

肉類は食べれず、ハムやソーセージなら食べられたけれど、魚の

皮を見ると吐き気に襲われて、小学校の頃は給食でいつも午後の

授業時間ギリギリまで座っていました。

何食べていたんでしょうね。納豆でしょうか。

肉類は18歳以降食べれるようになりましたが一人で食べるときは

吐き気はその後もずっと続いていて自ら購入して食べたのはここ

数年の体力の必要な仕事をしていた時くらいです。現在はお魚は

普通に食べています。

 

一方では子供の頃から自然の中で育ったけれど、社会の変化、

流行に非常に敏感だったと思います。高校の頃から大自然を好む

私と、流行に敏感に反応し、何かと取り入れたり冒険してみたり

する私と興味の赴くままだったと思います。

時代は古いですが原宿の竹の子族とか、見に行ったことが

あります。

 

大自然の植物の成長の芽を見つけて愛でていた私。

blogに書いた私自身の悲しみの中で見つけた植物の成長の姿、

社会の中で、もみくちゃになった私に神様が見せてくださった

幸福の芽だったのだと思います。

 

今は大地と共にありたい。

 

 

 

 

 

 

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アブラハムの子孫とエルサレム

2024-01-19 05:03:00 | 日月神示

幸福の芽のblogは閲覧数が伸びないblogですが日本全国、世界各国

に読んでくださる方がおられます。2010年頃にはアラブの国も

読んでくださっていることを認識しています。

 

アブラハムはアダムから数えて20代目です。

アブラハムはなかなか子に恵まれず、高齢になってから2人の子を

持ちました。

 

イサクは直系でアブラハムの子孫を後々に伝えることになります。

この時アブラハムはシュメール時代からの多くの民と共にいて

導いています。

イサクの後にモーゼとイスラエルの民に繋がっていきます。

 

そして母ハガルと共に荒れ野に行ったイシマエルは一つの国民の

父となります。

アブラハムの子であり一つの国民の父イシマエル、すなわち

イスラム教徒の父であり祖です。

ムハンマドは天使から啓示を受け、自らを神としていません。

経典はコーランですが旧約聖書、新約聖書も含むと言いました。

信仰する者は戒律を守って教徒になれ、そしてイスラム教徒

ムスリムは共同体を作り生活しています。

一夫多妻制などはムハンマドの言葉を聞いた者たちの受け取り

かたであったと思います。

 

ユダヤ教、キリスト教の聖地はエルサレムです。

そしてイスラム教には聖地が3か所あり、その1か所がエルサレム

です。

現在、エルサレムにはユダヤ教徒にとって巡礼地で嘆きの壁が

あり、神殿を建てる予定地です。

キリスト教徒にとってイエスが復活した地、巡礼地となります。

イスラム教徒にとってムハンマドが昇天する旅をした場所、

岩のドームが築かれ聖地となっています。

 

 

 

 

 

 

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心の時代を生きる「三諦円融」 再々々掲載

2024-01-19 04:03:00 | God

ここで昨年3月28日の記事、三諦円融について再々々掲載します。

2010年5月11日にも再々掲載したものです。

三諦円融は仏教、天台宗の三つの真理のことです。

 

2023年3月28日 「心の時代を生きる 三諦円融」

長年の私の研究について掲載します。

三諦円融を知り、菩薩の境地について図式化したものです。
 
2010年5月11日に「心の時代を生きる1」という記事があります。
ここで再々掲します。
 
仏道を求めるなら、仏さまを求めながら今の時代を生きていくことが
大切だと思う。仏教のことばに「三諦円融」というものがある。
そのことについて書いてみたい。

三諦は三つの真理、
「空諦(くうたい)」― この世の価値観から離れ、仏さまの世界(空)が
あるという真理
「仮諦(けたい)」― 仏さまの世界があるが一旦否定した今生きている
この世(この世は仮の世、有の世界)があるのも真理
「中諦(ちゅうたい)」― 仏さまの世界と今生きている世界と二つの
世界があるという真理はあるが、それぞれの世界でそれぞれの中だけに
真理があるのではない。その二つの中に真理がある。

今の時代を生きていくには「空諦」、「仮諦」、そして「中諦」の
三つの真理、それぞれの世界があり、それぞれを円融(妨げることなく、
またそれぞれの世界を融合)して生きていくことが大切であり、
その中で仏さまの意図を感じ取っていかなくてはならない。

仏さまが見ている世界があり、現実社会の事象を見つめ、そしてその中に
真理を見つけていく。
 
 
 

仏さまは愛であり、このときの愛はそれぞれの人がそれぞれの人の悟りを
得て、心の向上を目指すことにある。
そしてこの個人の心の向上が社会に反映していくことが大切。

仏さまの意図を感じ取って、または仏さまの意図にできるだけ添って
今の時代を生きていくことが大切であるとそう思う。

 
2010年8月13日に「心の時代を生きる2」を続けて再掲します。
 
何度も泥中の花について書いているが蓮華の花は仏教の言葉で
「上求菩提下化衆生」につながっていくと思うと書いた。

インドの頃の僧団では心の修行を行い、自らの悟りの向上を目指し、
仏さまに近づいていき、悟りを得ることを修行としていた。
インドの時代は階級があったので上下という表現だが、仏道修行者は
自らは仏さまを求め修行をしていくが、一方では衆生に仏法を伝え、
悟りの道に導いていくことが大切だった。

泥中の花はインドのお釈迦様の時代に仏道を求め、心を磨き、清らかな
花を咲かせることが大切というものだと思う。

心の時代を生きる1では「三諦円融」、
あの世とこの世があり、心の向上を目指し、その中で仏さまの意図を
感じ取りながら生き、そしてそれを社会にも反映していくこと、
仏さまの意図に添って今の時代を生きていくことが大切であると思うと
書いた。

インドのお釈迦さまの時代から年月がたち、学問、教育がある時代、
そして情報社会に生きる私たちにとって「心の時代を生きる」とは
どんなことか、それには仏さまはいったいこの社会をどうみて
いるのかと考えてみることが大切だと思う。

本来、仏さま、神仏の目は
この世とあの世の全てを見つめている存在である。
現代社会であの世の存在を知りながら、神仏と一体になって神仏の目で
見たらこの世はどう見えるか、
「どうしたら多くの人が幸福に生きることができるか」を思い、それを
社会に反映しながら生きていくことが大切であると思う。

「 泥中の花は自分を磨き、きれいに咲くが、
  泥も根も暗闇の中、もがきながら一生懸命に生きている。
  泥も根も心のどこかで花にあこがれ、花になってみたいと
  思っている。 」

仏さまは蓮華の花のみではなく、その泥も根も暗闇の中で迷って
いる、その姿を見つめている。
また葉があり、花が終わって実になろうとするものもある。
その全てに仏性が宿っている。
そして空気があり、太陽の光がある。
その環境の中で仏性をもつ泥も根も花に向かっていくには
どうしたらよいか、幸福になるにはどうしたらよいか、
そう考えていると思う。
 
 
 
 
 
ムー大陸、ムー文明には蓮華の花が咲き乱れていたのでしょうか。
 
 
 
 
 
 
 
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