ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

嬬恋村 (群馬県) 2016.8.16


(写真は、キャベツ畑の中の「愛妻の丘」)

先月のお盆休みに、万座温泉に1泊した翌日の
話しです。

翌朝は昨日の逆のコースで、万座亭を出てから、
西武高原バスで万座ハイウェーを経て、J万座
鹿沢口駅へ向かいます。

J万座鹿沢口駅からは車で、「嬬恋パノラマ
ライン」を北ルートから出発し一周しました。


暫く山の中を走り、その山道を抜けると、道路の
周りはキャベツ畑が続きます。



間もなく、写真の「愛妻の丘」に到着しました。






ここは、毎年行われる「キャベツ畑の中心で愛を
叫ぶ」の舞台らしいです。



上の写真のポストは、ラブレター専用らしいです・・・

愛妻の丘を出ると、見渡す限りキャベツ畑が
延々と続きます。




圧巻のキャベツ畑は、一見の価値がありました。


所々で収穫風景も見られます。

群馬県は、夏秋キャベツの全国収穫量の53%の
シェアを誇る日本一のキャベツ生産地です。

中でも、嬬恋村はキャベツの生産が盛んで、
群馬県内の生産の約9割を占めています。

嬬恋村では、4月から標高の低い畑から順に定植
していきます。

そして、夏秋(6月~10月)の約5ヶ月間、標高
の低い畑から順にキャベツを出荷します。





パノラマラインを北ルートから南ルートへ向って、
パノラマラインをほぼ一周してから、次に、
「鎌原(かんばら)観音堂」へ向かいます。

天明三年(1783年)、浅間山は大噴火しました。
何と!、噴火の音は京都まで聞こえたそうで、
噴煙は成層圏まで上ったと推定されています。

浅間山の噴火により土石流が発生、ここ人口
570人の鎌原村は一瞬で埋没しました。
鎌原村の570人の村民のうち、土石流の発生を
予感して、村の「鎌原観音堂」の石段を駆け
上がって助かったのは93人でした。


「鎌原観音堂」には、現在は、写真の様に15段の
石段がありますが、1979年の発掘調査で、大噴火
時は、その下に更に35段の石段があった事が
確認されました。

(この35段の石段は、現在は、噴火時の膨大な
 土石流によって、下の写真の赤い橋の下に
 埋もれています。)


そして、この35段の石段の発掘調査では、
更なる衝撃的な事実が発見されました!

現在は埋まっている35段の石段の下から一段目
から七段目にかけて、折り重なるようにして
倒れている二体の遺骨がありました。

この二体の遺骨は、二人とも女性で、若い人が
年老いた人を背負っている状態で発見されました。

家から走って逃げて来たのでしょうから、仮に
背負っていなければ、35段は登りきれた
でしょう。

”運命の石段”に足を掛けながら、あと少しで、
・・・なんとも痛ましい情景です・・・

後ろに迫ってくる土石流の音を聞きながら、最後
まで必死に背負ったまま、投げ出さなかった
のです。


(鎌原観音堂)


観音堂の横の上の写真の民家は「おこもり堂」と
いい、地元の人が毎日詰めて供養をしている
そうです。


鎌原観音堂の下には、上の写真の「三十三回忌
供養碑」が建っていました。

この碑は、生き残った93人の人達が、三十三回忌
の際に建立したそうで、碑の4面には、477人の
犠牲者の名前が彫られているそうです。

観音堂の脇の石段を上ると直ぐに下の写真の
「嬬恋郷土資料館」がありました。



浅間山噴火の資料や埋没した鎌原村から発掘した
出土品などを展示しています。

(入館料300円、水曜休館)

この資料館の展示資料の説明の中で、私が驚いた
のは、「村の復興策」に関する下記の部分です。

「生存者93人の中で、夫を亡くした妻と、妻を
亡くした夫を再婚させました。

また、子を亡くした老人に、親を亡くした子を
養子として養わせました。」

え、えッ~?、嘘っ~!、復興のためとはいえ、
江戸時代には、そんな結婚までさせるの?


当時の百姓は、結婚や養子縁組の際は、家筋とか
素性に非常に拘っていたそうです。

このため、生存者93人による復興に向けて、
これまでの身分や血筋を取り払い、生き残った者
同士で強引に祝言をあげさせた、とあります。

凄い話だなあ~・・・

嬬恋郷土資料館から万座鹿沢口に戻ります。



万座鹿沢口の町中で唯1軒だけ営業していた
ソバ屋で遅い昼食を食べてから、万座鹿沢口15:25
発の我妻線に乗り帰宅しました。

万座鹿沢口(15:25)→(15:39)長野原草津口(15:43)→JR高崎・我妻線[草津4号]
→上野(18:09)→JR京浜東北線→横浜

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コメント一覧

更家
日本武尊
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうでしか、日本武尊が、海の神の怒りを静めるために海に身を投じた愛妻の弟橘媛を「吾嬬者耶」と追慕したのが「嬬恋」の地名の由来でしたか。

それで、ようやく「愛妻の丘」と話がつながりました。

勉強になりました。

「嬬恋村」とは、ホントにロマンチックな響きです。
iina
ああ、わが妻よ
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/9c095a145580751c11d36e497cd8f807
「嬬恋村」とは、ロマンチックな村です。「愛妻の丘」を作って「キャベツ畑の中心で愛を叫ぶ」なんてことをしたなりそうな村です。

日本武尊が東征の帰路、鳥居峠に立ち、海の神の怒りを静めるために海に身を投じた愛妻の弟橘媛を「吾嬬者耶」(あづまはや)と
追慕した古事にちなむ「嬬恋」でした。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/e0b1585e6a0297846222fd36a3eec764

>肥満で命縮めるのはやめよう! ⇒ 肥満で命縮めるの早めよう!
古事では、真逆な誤変換にならなくて幸いでした。

更家
昔から災害列島
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうですね、このあたりは、浅間山の噴火が造り出した風景ですね。

ええ、鎌原観音堂を実地に見学して、多くの犠牲者に心が痛み、日本列島は昔から災害列島だったんだとう事を実感しました。
Komoyo Mikomoti
http://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
このあたりの風景は、浅間山の噴火抜きには考えられないみたいですね。
昔のこととはいえ、多くの犠牲者が出た災害には心が痛みます。
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