同じ本を読んでも、その感想は十人十色、それぞれ異なるだけでなく個人差も激しい。聖書が世界のベストセラーなのは現代も変わりないが、同じクリスチャン同士でも解釈が著しく異なる上、異教徒が見ればさらに差は開く。特に旧約聖書は第一級の宗教文学であり、未だにこれを超える教典はでていない。それでも、いかに古代社会といえ、非キリスト教徒日本人からすれば、あまりにも異質な印象が強い。
聖書には文学性に富む素晴らしい物語に溢れる一面、私がどうしても違和感を覚えるのは聖絶と呼ばれる民族浄化である。特にヨシュア記など、「剣を持って町の住民を全て撃ち」の表現が何度も繰り返され、これほど惨い記録を得意げに記す様子に戦慄を覚えるのは私だけではないだろう。あるブロガーが紹介していた山本七平の言葉に、暫らく私は考えさせられた。
-山本七平の『一つの教訓・ユダヤの興亡』には、竹山道夫(竹山道雄?)氏が、「新訳のなかのユダヤ人呪詛の文句を法王はどうして削除しないのだろう」といったことについての反論が書かれています。要するに、「正確に記録して後世に残す」こと。「恥になるからといって隠蔽しないこと」これがどれだけ重要か、ということをいっています…
クリスチャンであり聖書学専門書出版社の経営者・山本が、聖書を悪く言うはずはないし、同時にイスラエルの御用文化人でもあった彼が「正確に記録して後世に残す」「恥になるからといって隠蔽しない」聖書を讃えているのは文面からも知れる。しかし、編纂の過程で聖書もかなり改ざんされているのは聖書学者ならずとも知られており、聖絶のようなおぞましい異教徒大虐殺は古代は恥どころか、大いなる功績と見られていたのは聖書からも伺える。イスエラル王国初の王サウルは悲惨な最期を遂げるが、その理由はアマレク人との戦いで、「アマレク人とその属するものを一切滅ぼせ」との神の命令に従わなかったため、神の心は彼から離れたとある。仏心(?)を出してアマレクの王を助けたりしたのが運のつきだった。サウルの後を継いだダビデはきちんと聖絶も含めた神意を実現している。
古代はともかく、中世の十字軍側の記録もまた凄まじい。1099年7月、ついにエルサレムを占領した十字軍は略奪と殺戮を開始、以前の記事でも紹介したが、十字軍側の記録を改めて挙げたい。
-諸侯は住民の大部分が城壁に避難したという噂を聞くと、騎士や歩兵を大勢引き連れてその場所に駆けつけ、居合わせた人々を容赦なく滅多切りにして、広間に異教徒の血の雨を降らせた。こうすることによって彼らは、聖域を穢した異教徒たちが今度は自分の血でその聖域を浄め、罪を犯したまさにその場で殺されるようにとの神意を実現したのである…
この記録からも当時は異教徒を「容赦なく滅多切り」することが神意と疑っておらず、恥とは欠片も思っていなかったことが分る。そして、「救い主の恨みが十分に晴らさせた頃、すなわち街からほぼ人影が消えた後、彼らは感涙にむせび、胸を叩きながら主を讃えるために聖墳墓に向かった」。もちろんイスラムも記録を重んじる文明であり、十字軍による極悪非道な振舞いを記し、現代に至るまで記憶に刻まれることになった。
十字軍の残虐行為を遺したイスラムもまた、ジハードと称する異教徒征服を記録している。そのためイスラムに滅ぼされた側のことも現代にまで伝わっているが、文面からは軍事征服でイスラムの拡大を行ったことに全く疑問視していないことが分る。異教徒世界をイスラム化することこそ、神意を実現したと盲信していたが、「正確に記録して後世に残す」行為は、悪行まで残ることになった。
近代までは敵をいかに多く倒したのかは大いなる軍功と見なされ、洋の東西問わず恥などとは思っていなかったのだ。近代以降はお体裁と偽善、欺瞞が主流となり、非戦闘員の虐殺を恥と見なし隠蔽することが一般的に変わる。己がいかに人道的に振舞ったか、敵が冷酷非常だったかを誇張とでっち上げで記録を粉飾する。歴史はいわゆる“勝者の記録”となるため、敗者が悪し様に描かれるのは古代からだが、映像という文明の利器の登場により、隠蔽がやり難くなる。それを妨害するための偽の映像も制作されたり、通信媒体も著しく向上、プロパガンダがより巧妙になった。
今時のイスラエルや欧米諸国で、表向きは女子供のような非戦闘員を殲滅する聖絶を公認することはしない。しかし、刀剣の時代と違いハイテク兵器がふんだんに使えるのが現代なのだ。そして人間性や民族性は刀剣の時代からあまり変わっていない。完璧な人間など皆無であり、感情の動物でもある人間の記録にどれだけ正確さが期待できるだろう?その時代により価値観や思想は様変わりするが、宗教はいつの時代も不滅なのだから、狂信に火が付けば聖絶のような民族浄化も正当化する教義の拠り所となる。
◆関連記事:「大本営発表」
「アラブが見た十字軍」
「民衆十字軍」
「加害者としてのイスラム」
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聖書には文学性に富む素晴らしい物語に溢れる一面、私がどうしても違和感を覚えるのは聖絶と呼ばれる民族浄化である。特にヨシュア記など、「剣を持って町の住民を全て撃ち」の表現が何度も繰り返され、これほど惨い記録を得意げに記す様子に戦慄を覚えるのは私だけではないだろう。あるブロガーが紹介していた山本七平の言葉に、暫らく私は考えさせられた。
-山本七平の『一つの教訓・ユダヤの興亡』には、竹山道夫(竹山道雄?)氏が、「新訳のなかのユダヤ人呪詛の文句を法王はどうして削除しないのだろう」といったことについての反論が書かれています。要するに、「正確に記録して後世に残す」こと。「恥になるからといって隠蔽しないこと」これがどれだけ重要か、ということをいっています…
クリスチャンであり聖書学専門書出版社の経営者・山本が、聖書を悪く言うはずはないし、同時にイスラエルの御用文化人でもあった彼が「正確に記録して後世に残す」「恥になるからといって隠蔽しない」聖書を讃えているのは文面からも知れる。しかし、編纂の過程で聖書もかなり改ざんされているのは聖書学者ならずとも知られており、聖絶のようなおぞましい異教徒大虐殺は古代は恥どころか、大いなる功績と見られていたのは聖書からも伺える。イスエラル王国初の王サウルは悲惨な最期を遂げるが、その理由はアマレク人との戦いで、「アマレク人とその属するものを一切滅ぼせ」との神の命令に従わなかったため、神の心は彼から離れたとある。仏心(?)を出してアマレクの王を助けたりしたのが運のつきだった。サウルの後を継いだダビデはきちんと聖絶も含めた神意を実現している。
古代はともかく、中世の十字軍側の記録もまた凄まじい。1099年7月、ついにエルサレムを占領した十字軍は略奪と殺戮を開始、以前の記事でも紹介したが、十字軍側の記録を改めて挙げたい。
-諸侯は住民の大部分が城壁に避難したという噂を聞くと、騎士や歩兵を大勢引き連れてその場所に駆けつけ、居合わせた人々を容赦なく滅多切りにして、広間に異教徒の血の雨を降らせた。こうすることによって彼らは、聖域を穢した異教徒たちが今度は自分の血でその聖域を浄め、罪を犯したまさにその場で殺されるようにとの神意を実現したのである…
この記録からも当時は異教徒を「容赦なく滅多切り」することが神意と疑っておらず、恥とは欠片も思っていなかったことが分る。そして、「救い主の恨みが十分に晴らさせた頃、すなわち街からほぼ人影が消えた後、彼らは感涙にむせび、胸を叩きながら主を讃えるために聖墳墓に向かった」。もちろんイスラムも記録を重んじる文明であり、十字軍による極悪非道な振舞いを記し、現代に至るまで記憶に刻まれることになった。
十字軍の残虐行為を遺したイスラムもまた、ジハードと称する異教徒征服を記録している。そのためイスラムに滅ぼされた側のことも現代にまで伝わっているが、文面からは軍事征服でイスラムの拡大を行ったことに全く疑問視していないことが分る。異教徒世界をイスラム化することこそ、神意を実現したと盲信していたが、「正確に記録して後世に残す」行為は、悪行まで残ることになった。
近代までは敵をいかに多く倒したのかは大いなる軍功と見なされ、洋の東西問わず恥などとは思っていなかったのだ。近代以降はお体裁と偽善、欺瞞が主流となり、非戦闘員の虐殺を恥と見なし隠蔽することが一般的に変わる。己がいかに人道的に振舞ったか、敵が冷酷非常だったかを誇張とでっち上げで記録を粉飾する。歴史はいわゆる“勝者の記録”となるため、敗者が悪し様に描かれるのは古代からだが、映像という文明の利器の登場により、隠蔽がやり難くなる。それを妨害するための偽の映像も制作されたり、通信媒体も著しく向上、プロパガンダがより巧妙になった。
今時のイスラエルや欧米諸国で、表向きは女子供のような非戦闘員を殲滅する聖絶を公認することはしない。しかし、刀剣の時代と違いハイテク兵器がふんだんに使えるのが現代なのだ。そして人間性や民族性は刀剣の時代からあまり変わっていない。完璧な人間など皆無であり、感情の動物でもある人間の記録にどれだけ正確さが期待できるだろう?その時代により価値観や思想は様変わりするが、宗教はいつの時代も不滅なのだから、狂信に火が付けば聖絶のような民族浄化も正当化する教義の拠り所となる。
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岡田英弘氏の本のご紹介、有難うございました!
目次を見ただけで面白そうですね。しかも、安価な文庫版で出ているとは。密林で検索したら、「千三百年前の外圧が日本を作った」の副題も関心をそそられます。「特異な中国人の歴史観/中国史書のでたらめぶり/いまも変わらぬ中国外交」「信用できない『日本書紀』」は納得ですが、「日本の建国者は華僑」は驚きました。朝鮮系と思っていましたが、これは読んでのお楽しみでしょう。
日本史の誕生
2008年6月10日 第1刷発行
著 者 岡田英弘
発行者 菊地明郎
発行所 株式会社 筑摩書房
ISBN978-4-480-42449-5
目 次
序 章 日本の歴史をどう見るか
世界史の一部分としての日本史/考古学・民族学は歴史学の代用にならない
第1部 倭国は中国世界の一部だった
第1章 邪馬台国は中国の一部だった
「魏志倭人伝」の読み方/特異な中国人の歴史観/中国史書のでたらめぶり/2つの報告
書からできた「倭人伝」/「倭人伝」の本当の価値/帝国は皇帝の私的企業/郡県制度の本
質/いまも変わらぬ中国外交/日本の建国者は華僑
第2章 邪馬台国の位置
「魏志倭人伝」にみる邪馬台国/作為された「魏志倭人伝」/邪馬台国の位置を知る方法/
邪馬台国の消滅とその痕跡/邪馬台国は華僑の大聚落になった/邪馬台国(=秦王国)は
関門海峡の近く
第3章 親魏倭王・卑弥呼と西域
政治的意図をもった「魏志倭人伝」/邪馬台国論争の誤解/幻影を作った中国の事情/「漢
委奴国王」の演出/3世紀の東北アジアと中国/「親魏倭王」卑弥呼の誕生/晋朝の創業
/『三国志』成立の事情
第4章 倭人とシルク・ロード
中国の交通路/中国の成立/韓半島から日本列島にいたる貿易ルート/シルク・ロード
と直結した日本列島/倭国とシルク・ロード
第5章 日本建国前のアジア情勢
倭から日本へ/建国以前のアジア情勢/信用できない『日本書紀』/中国史の一部分だ
った日本列島/中国商人の貿易の仕方/中国の戦乱と倭国
第6章 中国側から見た遣唐使
第7章 「魏志東夷伝」の世界
3世紀の東北アジア世界/中国の人口激減の影響/初期前漢の事情/中国と東夷諸国/
張華/『三国志』の著者・陳寿/なぜ「西域伝」がなく「東夷伝」があるのか/「韓伝」に見
える奇妙な現象
第2部 日本は外圧のもとに成立した
第8章 日本誕生
奴国から卑弥呼まで/河内・播磨・越前王朝/7世紀後半、日本誕生す
第9章 神託が作った「大和朝廷」
伝説時代の天皇をたどる/実在でない天皇の正体/神武以来16代は7世紀の投影
第10章 新しい神話-騎馬民族説
第11章 日本人は単一民族か
日本人の純粋民族の意識/歴史創作に始まるアイデンティティ/東アジア史の実態/中
国の皇帝制度と日本列島の都市化/中国の動乱と周辺の異種族/鎖国は日本国家の本質
第12章 日本語は人造語だ
国語は人工的なのが歴史の法則/7世紀の共通語は中国語百済方言/『万葉集』に見る
国語開発/『日本書紀』歌謡の表記/ハングルの開発がおくれた韓半島/紀貫之が実験
した日本語散文
第13章 歴史の見方について
歴史はものの見方の体系/地中海型と中国型の歴史/日本型の歴史は反中国/国史から
世界史へ
文庫版あとがき
一神教に限らず多神教もまた凄惨な宗派対立や虐殺を行っております。ヒンドゥー教の聖典にも極めて好戦的な箇所はあり、仏教も解釈次第では殺人の正当化は容易なのです。仏敵認定すれば、敵側の非戦闘員の殲滅も逸脱行為とは言えなくなる。そこが宗教の恐ろしい面ですが、元からある人間の残虐性や闘争本能が増長するのでしょうね。
ただ、聖絶があれほどあからさまに教典に書かれている一神教の特徴ゆえ、異教徒には違和感が拭い去れません。
旧約聖書にもエステル記のように勧善懲悪ふうの話もあり、悪だくらみを企てた者は滅びるというパターン。もちろん悪人1人ではなく、反ユダヤ人勢力を根絶やし、まさに聖絶していますね。部下の妻を寝取ったダビデも、一応は悔い改めても罰はちゃんと受けている。「ユダヤ人の聖絶願望」を解説したサイトは面白いですよ。
http://www.nagaitosiya.com/r/old_testament.html
人間は環境の生き物だし、文明発祥の地で様々な民族が興亡を繰り返した中東と、辺境の島国でのほほん状態でいられた日本ではものの見方や考え方がかなり違ってくるのは当然です。仰るように日本のような社会は世界でも非常に稀、大陸諸国では共存できないとみればジェノサイトが普通だったのです。冷酷さも身に付けなければ、とても生き残れませんでした。アイヌも日本以外ならとっくに淘汰され、消滅させられていたでしょう。
戦国時代の日本を見ると、現代とはまるで別人種ですよね。人は十人十色なので多神教的な一神教徒もいれば、一神教的な多神教徒もいる。状況によって日本人も残虐性を発揮する素質はあると私も思いますし、そうでなければ今後サバイバルは難しいでしょう。
岡田英弘先生の著作は未読ですが、歴史文献は時代や著者の背景を考察しない限り読めませんよね。現代の価値観で昔を語るのは極めて的外れだし、マルクス史観など歴史学の外道の典型でしょう。ただ、人間は時代の影響から逃れられないし、その時代の思想で昔を語りたがります。
最近では聖書の虐殺描写を比喩に例えたり、誇張やフィクションに過ぎないと解釈する向きもありますが、結局は勝者の側を讃えます。
私は軍事オンチなので、イスラエル・ミリタリー・インダストリーズという兵器会社は初耳です。イスラエルの兵器で知っていたのはウージーくらいですが(※知ったのはU2のロック曲から)、これもこの会社の製造だったのですね。ウージーは人名からですが、「ジェリコ」ミサイルまであったのは驚くと共に、やはりとも感じました。何しろ殲滅目的だから、「ジェリコ」の名は縁起(?)がよい。玉砕の「マサダ」となれば、ちょっと・・・このミサイルはフランスの援助により開発されたとwikiにあります。フランスも十字軍を内心悪いとは思っていないと私は勘ぐっています。
Mugi さんは人間の壮絶な残忍性は、一神教によるものだとのお考えのようにお見受けしますが、どうなんでしょうね(勘違いしていたらごめんなさい)?
確かに旧約聖書をちょっとばかり読みかじってみても、サミュエル記あたりのソロモン王前後の、ユダヤが栄華を誇っている時期でさえ、大王が政権については死ぬ30-40 年毎に、凄惨な皆殺し、総入れ替えが起こって、私のような平和ボケの日本人には想像を絶する世界のように思っちゃいます。大体、神のおメガネにかなってユダヤの王になったサウルが、神託により、ある民族を女・子供も一人残らず皆殺しにするはずだったのが、それを怠ったために打ち滅ぼされたばかりか、息子ともども身体をバラバラに切断されて、城壁に吊るされ晒される罰を受けた一方、ダビデの方は、自分に誠心誠意忠実な部下の妻に横恋慕し、女を得るために故意にその部下を前線に送って見事殺害に成功したにもかかわらず、ソロモンを得、天寿を全うして一生神に祝福されたとか、訳わかんない記述ばっかりですよね。少なくとも日本人の考える勧善懲悪からは、程遠い世界なのは確かですね。
個人的な体験から得た感覚で恐縮ですが、思うに社会が安定して善意に満ちた人々で成り立っている日本のような社会は非常に稀で、言葉や民族・文化、人種が違うと、殺し合いばっかりする、というのがホモ・サピエンスの本質だと思うんですよね。日本の外に出てみると、ああ、そうなんだな~、と実感します。皆さんそんな世界で先祖代々サバイバルして来てるので、日本人のように夢物語みたな平和主義を信望したり、他人をとことん信頼するような人々は見かけないです。あるいは、そういう穏やかな人々は淘汰されて消え去る運命にあった、という気がします(アイヌとか、アメリカインディアン、今は元々の文明がどんなだったかほとんど知る由もない中南米、西インド諸島の人々)。
ホモ・サピエンスというのは獰猛で、ネアン・デルタール人もホモ・サピエンスの出現により滅んでしまった、という仮説があったような気がするんですが。ネアン・デルタールには埋葬の儀式があったそうで、精神性が高く、性質が穏やかだと考えられていますよね。
日本は海に囲まれ、運よく異民族との交渉がほとんどなかったから、異民族としのぎを削ってサバイバルする激しさを鍛えられて来なかったんでしょうけど、今のところ近代をサバイバルしてきた様子から見ると、状況によっては日本人も、mugi さんのおっしゃるような、一部の一神教信望者のような残虐性を発揮する素質は十分にあると、私は思うんですが、
いかがでしょう?
ヒューマニズムよりも聖書の成立がふるいのですから、虐殺をほこる記述があるのは当然です。ただ、現在改訂しないのはそれをほこる気持があるのは否定できないでしょう。
古代の虐殺を現代の感覚で非難するつもりは全くありませんが、誇られるのも不思議な心持です。「マサダ」と言う名前の武器はあるのでしょうか?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA