他の地方紙も同じだろうが8月になると河北新報では、戦時特集記事を組むのが恒例化している。8月10日付の記事のタイトルは「戦時下 広がったパーマ」。「「非国民」と呼ばれても」「おしゃれ心 ひそやかな抵抗」などの見出しがあり、内容は2人の女性へのインタビュー。その2人は評論家・樋口恵子氏と立命館大学の飯田未希教授で、以下は記事の見出し文。
「有事や緊急時には、「不要不急」で「無駄」といわれてしまう、おしゃれ。それでも日本が第2次世界大戦へと突き進んだ昭和初期から終戦間際まで、「非国民」とそしりを受けてもパーマをかけ、洋装をやめずにおしゃれをし続けた女性たちが少なからずいた。」
記事によればパーマネント技術は昭和初期までに日本に入り、1935年頃には国産パーマネント機の開発で安価となり、大流行し始めたそうだ。だが37年に日中戦争が始まると、戦争協力を促す「国民精神総動員運動」が起き、「戦時下にふさわしくない」としてパーマは事実上「禁止」に。樋口氏も歌ったという「パーマネントはやめましょう」が広く歌われるように、パーマをかける女性は声高に非難された。その状況は終戦まで続く。
それでも人気は衰えず、都市部の美容室では客で長蛇の列ができ、地方でのパーマ機購入も止まらなかった。電力規制でパーマ機使用が難しくなった43年頃以降、金属製のこてを木炭で熱して髪を巻く「木炭パーマ」が広がったことが記事にある。
岩手県では荒浜イマさんが1938年、県内初のパーマネント機を導入、それでパーマをかける女性を写した写真が載っており、パーマネント機の巨大さには圧倒された。現代のコールドパーマからは想像もできないほど、パーマをかけるのも一苦労だったのが伺える。
樋口氏の母も木炭一編を大事そうに抱えつつ、嬉々として美容人に行ったそうだ。そんな母について氏はこう話している。
「母は先進的な女では全くなかった。ごく普通の家庭の主婦として極めて常識的に暮らしていた。抵抗という意識も自覚もない。そんな母ですら戦時下でパーマ屋に通った。おしゃれをするというひそやかな抵抗を国家権力は抑えられなかった。」
戦時下で「パーマネントはやめましょう」のスローガンのもと、パーマをかけたり洋装した女性たちが非難されていたのは知っていた。国産パーマネント機の開発が1935(昭和10)年頃だったのは記事で初めて知ったが、内容には異論があり、記事にすることにした。
「戦時下 広がったパーマ」とあるが、その傾向はやはり都市部中心で、比較的恵まれた層が中心だったのではないか?樋口氏は東京生まれで父は考古学者・柴田常恵。これでは母は「ごく普通の家庭の主婦」とは言えない。
試に昭和一桁生まれの老母に、戦争中に近所でパーマをかけた女性がいたのか聞いてみたが、母の答えは否だった。母は宮城県北部の岩出山町で生まれ育っており、戦前までこの町にパーマ屋自体がなかったそうだ。田舎町ということもあろうが、女性たちは髪をひっつめ、まとめていたとか。
同じ宮城県でも仙台市は別だが、戦前の地方格差は現代とは比較にならぬほど激しく、パーマをかけたくともかけられない女性が多かったのだ。もちろん金銭面でゆとりがなくとも、おしゃれには費用を惜しまない女もいる。ただ、その類の女たちは何時の時代も少数派。少数派を殊更多めに見せかけた印象操作にも感じる。
おしゃれをするというひそやかな抵抗を国家権力は抑えられなかった、と述べる樋口氏だが、おしゃれをする女性を激しく監視・敵視したのは、他ならぬ同性だったことに触れないのは解せない。大日本婦人会が典型で、これも国家権力の一組織でもあるが、婦人会の女達は上からの強制というよりも自ら進んで同性のおしゃれに目を光らせた。
元から女は同調圧力が極めて強く、自分たちと異質な傾向のある同性には非寛容なのだ。まして戦時下であれば、「非国民」の同性には容赦しないはず。
これは日本に限ったことではなく、文化圏の違う世界でも同じなのは興味深い。イラン革命やイラン・イラク戦争時のイラン社会を描いた作品には、服装違反の女性を許さない風潮が記述されている。革命後に女性は皆、頭をスカーフで覆わねばならなくなり、髪の毛がほんのひと房でも見えようものなら、イスラム革命防衛隊が飛んできてしつこく嫌がらせをした。
防衛隊員には女もいて、彼女らは常に車で往来を見回り、新しい規則に反する服装の女性を探していた。大日本婦人会なら口で咎める程度だが、イスラム革命防衛隊に迂闊に口答えしようものなら鉄拳制裁は当たり前、中には殺害された主婦までいたという。
その二に続く
実は私も戦後パーマしている女性は進駐軍相手のパンパンのイメージがあります。食べるのに精いっぱいの戦後、パーマどころではなかった女性が多かったと見ています。