その①の続き
清は英国との貿易改善交渉、条約締結を拒絶、マカートニーは何も得るところなく帰国する。彼の後任としてウィリアム・アマーストが1816年再び訪中するが、またも三跪九叩頭の礼を要求され、アマーストが拒絶したため皇帝への謁見も叶わなかった。頑なに中華思想と朝貢に固執する清に、英国がアヘン密輸政策を推進していく動機になるのも当然だろう。
19世紀以降の清は、英国の三角貿易によりアヘンが出回り、その結果中毒者が激増したというイメージがある。しかし、実際は明代末期からアヘン吸引の習慣が広まっており、1796年、北京政府はついにアヘン輸入禁止とする。政府はアヘン貿易を禁止しても、地方の中国人アヘン商人が官憲を買収し取り締まりを免れつつ密貿易に応じたため、アヘン貿易は拡大していく一方だった。
19世紀に入っても何度となく禁止令が発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったようだ。人口が18世紀以降急増したことで民度が低下、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させたという見方もある。
中国人のアヘン商人もいたが、厖大なアヘン密輸は英国が大きく絡んでいた。しかし、直接携わったのはイギリス東インド会社の英国人社員よりも、会社と繋がりのある非英国人が大半だった。以前「パールシーとアヘン」という記事で、アヘン貿易で富を築いたパールシー貿易商のことを取り上げたことがある。インドの大財閥ターターもアヘン貿易でも儲けたという。
しかし何事にも上には上がいて、ユダヤ系貿易商デイヴィッド・サスーンの方がアヘン貿易において重要な位置を占めていたことを数年前に知った。「「アヘン戦争」の舞台裏」という記事では副題どおり「アヘン王サッスーンの暗躍と上海に築かれたユダヤ人社会の実態」が詳しく描かれており、ネットで初めて麻薬王サッスーンの名とその活動を知った。今回の記事名も件の記事からの借用。記事から一部引用する。
―「サッスーン家」は、もともとは18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商であった。1792年にこの一族の子供として生まれたデビッド・サッスーンは、バグダッド(現在のイラク)で活動していたが、シルクロードの交易によってますますその富を蓄え、そこからインドへ進出(移住)した。
デビッド・サッスーンは、1832年にインドのボンベイ(現ムンバイ)で「サッスーン商会」を設立し、アヘンを密売し始めた。イギリスの「東インド会社」からアヘンの専売権をとった「サッスーン商会」は、中国で売り払い、とてつもない利益を上げ、中国の銀を運び出した。
(※デビッド・サッスーンは「アヘン王」と呼ばれた。彼はイギリス紅茶の総元締めでもあり、麻薬と紅茶は、サッスーンの手の中で同時に動かされていたのである)。
サッスーンはアヘン戦争後は香港、上海にも営業所を構える。彼自身は1864年に死去するが、以下は先の記事から引用。
「アヘン戦争以降、ユダヤ財閥たちは競って中国へ上陸していった。「サッスーン財閥」はロンドンに本部を置き、上海に営業所を設け、英・米・仏・独・ベルギーなどのユダヤ系商事会社、銀行を組合員に持ち、「イングランド銀行」および「香港上海銀行」を親銀行に、鉄道、運輸、鉱山、牧畜、建設、土地・為替売買、金融保証を主な営業科目として、インド、東南アジア、インドシナ、中国に投資を展開していった」
アヘン戦争の舞台裏では、このようなユダヤ系巨大財閥が台頭していたのだ。パールシー貿易商などユダヤ系財閥の足元にも及ばない。中国大陸で巨万の富を築いたユダヤ系財閥だが、第二次世界大戦でその富を失った者も少なくなく、ユダヤ人に日本を敵視する者が多いのはこのことが最大の原因かもしれない。
現代ではアヘンは恐ろしい麻薬というイメージがすっかり定着しており、これもアヘン戦争の影響が大だろう。しかし、当時は違っていたらしく、牛蒡剣さんから興味深いコメントを頂いた。
「ただ当時アヘンは気軽に買える家庭用の痛みどめ常備薬兼精神安定剤扱いだったようで。現代の感覚でアヘンをとらえるのはどうかと。アヘン戦争に反対の論陣を張ったのちの英宰相グラドストンも重要演説をする日の朝はコーヒーにアヘンを一つまみ入れて呑むのが習慣だったそうです。おそらくアヘン戦争反対の演説の日の朝もアヘンきめて演説したのではないでしょうかw」(2019-06-11)
「ちなみにアヘンは第一次大戦頃まで英国では規制されてません。というか薬物の規制ゆるゆるです」(2019-06-12)
麻薬が巨大ビジネスとなっているのは21世紀も変わりない。欧米諸国でマリファナを合法化する動きがあるようだが、酒好きの私でも考えさせられる。マリファナは酒と同じくソフトドラックだ、という人もいるが根拠は提示されていなかった。マリファナが合法化されたら、 巨大ビジネスになるのは目に見えている。中国を愛したネルーは、こんな言葉を遺していた。
「人間の良心というものは、どんな場合にも、やりたいと思うことに他愛なく調子を合わせるものだ」
一応出典を明らかにしておきます。
並木書房「失敗の中国近代史」別宮暖郎
この本にグラッドストンのアヘン服用ネタや
痛みどめ薬として簡単に買えた事情が描かれてます。
ちょっと読み返したら1870年アヘン規制案が出た際グラッドストンは政府委員として
「酒飲んでアル中になる馬鹿がいるようにアヘン
も適量で節制できない奴が悪い!規制の必要なし!」みたいな答弁してるんですね。
これに限らず、歴代の中国王朝でも中華思想と朝貢に固執するのは本質的には国内のみです。軍事的に中華思想を押し付けられないところ=外国、なので当たり前なのですが。(国内向けの)史書では誤魔化していますが、例えば「白登山の戦い」の後の漢は匈奴に朝貢していますし。
問題は、外交が皇帝の専権事項だということです。臣下は中華思想を否定できないのです。皇帝と対等な存在を肯定したら首が飛びますからね。(中国と対等でありさえすれば満足していた日本では何の問題もない話なのですが。)
そして、この影響が外交文書や儀礼ならまだいいのですが、アヘン戦争でイギリス側に大義名分を与えたイギリス商人の財産(アヘン)の没収の様な"主権"への無理解に至る(欧米からみれば野蛮人となる)のが問題です。
もっとも、清は好き勝手に侵略して「十全武功」を誇っていたわけなので、イギリスも好き勝手に清を侵略すれば良かったんですよ。
(欧米列強は文明人を自称するが故に侵略にも正当性求め、侵略されたと喚く野蛮人は自らの侵略は全肯定する。何だかなあと。そして、文明人として振る舞えば簡単には侵略されないと理解していた維新の人々は偉い。韓国はいまだに理解しないのですが。)
一般に清が被害者と見なされているアヘン戦争ですが、当時のアヘンの取り扱いを知ると、危険な麻薬を強要した侵略戦争という見方も変わってくるでしょう。既に明代末からアヘン吸引が広まっており、英国がまだ関与していない18世紀には中毒者が激増したのは何を意味しているのでしょう。
対照的に日本ではアヘンが広まらなかった。政府の取り締まりもあるにせよ、民族性の違いも大きいと思います。中国ではすべてアヘンを売った英国が悪い、で済ませますが、先にmottonさんがコメントされたように、中国こそ周辺諸国への侵略やりまくりでした(21世紀でも同じ)。「十全武功」を誇っていたのこそ乾隆帝です。
そういえばネルチンスク条約がありましたね。wikiを読むとこの条約は基本的に領土問題であり、通商は殆ど扱われないように見えます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E6%9D%A1%E7%B4%84
対等の条約ではあっても、清に有利なものだったらしく、「清はロシア関係の事務をモンゴルや内陸アジアの朝貢を扱う理藩院で行うなど、ロシアを朝貢国としてみなしていた」とか。
対照的に英国は通商交渉がメインだったので、中華思想と朝貢に固執するになったのかもしれません。そしてアヘン没収のような行為は、"主権"への無理解に至るという見識は中国には無理だったのです。英国商人の財産没収で林則徐は祖国のヒーローとなりました。
仰る通り侵略されたと喚く第三世界の人々は、自らの侵略は厚かましく全肯定しています。文明人として振る舞うのは外国被れにすぎず、簡単に侵略されると思い込んでいた第三世界の指導者と維新の人々との決定的な違いですね。韓国はそれを理解せず、永遠に侵略されたと喚くと思います。
ウィキを見ると、あの悪名高いヘロインももともとは19世紀に「咳止め薬」(!)として販売されていて、正式に禁止されたのは第一次世界大戦終結後なんですね。販売時には知識がないにしても驚くべき歴史です。禁止が遅れたのは戦争もあったからといいますが、意外に麻薬の世界的な取り締まりは遅いのです。
作用があるそうです。そのためコメや雑穀も買えない貧民層で流行したそうです。しかもアヘンの灰も
効力は落ちるとはいえ何回か回し飲みが利くので
出涸らしみたいな灰を貧民層は購入していたようです。対して欧州ではアヘンより穀物価格の方が安く
アヘンにはあまり手を出さなかったようです。
ここからは自分の意見ですが、インドで生産したアヘンを欧州へ運ぶとなると、スエズ運河もないころ
で、喜望峰回りルート。蒸気機関が発明されたとはいえ商船はほとんど帆船。海難も多かったでしょう。必然的にアヘン価格は欧州とシナで数倍の差が出てああいうことになったとおもいます。欧州では薬として買えるくらいの価格だがバカバカ服用できるほど安くもない価格だったのでしょう。勿論
民族性の差も大きいでしょう。あれだけ厳しい
法律があったのにもかかわらず簡単に買収されていたわけですし。
日本の場合は早くからアヘンが痛み止めとして有効
な薬物と知られており反面危険なのもわかっていたのは確実だと思います。世界初の全身麻酔でがんの外科手術に成功した華岡青洲の全身麻酔薬もアヘンベースだったはず。そんなわけで早い段階で規医者や研究者が購入できる規制ができたというのが大きいでしょう。またアヘンが流行し始めた明代の時点で日中の一人当たりの推定GDPは日本優位だったといわれ農業生産性の高い日本の方が余剰食糧が
豊富でした。この辺が決め手だったと思います
それでもホームズがアヘン窟のような場所に入り浸り、ワトソンに心配をかけたのは憶えています。薬物規制が皆無だった西欧社会も麻薬中毒者は多かったと思いますが、規制を強化した中国社会で患者が激増しているのは興味深いですね。
wikiにヘロインは、「モルヒネに代わる依存のない万能薬のように国際的に宣伝され」ていたことが載っています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%B3
20世紀になって清政府はイギリス製アヘンを市場から一層しましたが、単にモルヒネやヘロインへと移行しただけだったとか。さらに中国では1920年代頃、ヘロインはモルヒネと同じくアヘン常用の治療になるものと信じられ、医療用ならモルヒネ共に合法で輸入できたそうです。
現代から見ればメチャクチャですが、かつてはヘロインが「咳止め薬」として販売されていたことは案外知られていませんよね。
アヘン商人には中国人もいて、官憲に贈賄して丸め込んだのはあの国らしいですよね。尤もアヘンを取り締まろうとする英国人役人にも、インド商人が贈賄したから発想は印中ともに同じです。
小説「華岡青洲の妻」で華岡の全身麻酔の話が一般にも知られるようになりましたが、この麻薬がアヘンベースだったというのはハッとされられました。華岡の時代ならアヘンの入手先は大陸しかなかったはず。
それにしても、明代の時点で日中の一人当たりの推定GDPは日本優位だったとは知りませんでした。中国も農業大国、しかも広大な農地があるはずなのに、日本の方が余剰食糧が豊富だったとは……何が小日本ですか!そちらは暗黒大陸でしょうに。