今日はクリスマスイブ。クリスチャンでもない殆どの日本人が商業主義にすっかり乗せられ、贈り物と飲み食いを満喫するお祭り騒ぎの日でもある。この日にちなんで、キリスト教で聖人とされている人物を取り上げてみたい。彼らがいかにして聖人に叙せられたのか、その“功績”を見れば、キリスト教の知られざる側面が浮かび上がってくる。
5世紀はじめ、キリスト教の聖人キリル(Kyrill)の犠牲となった女哲学者ヒュパティアを私が知ったのは、20年ちかくも前に見た『アシモフの雑学コレクション』(新潮文庫、ア-6-4)に名が載っていたからだ。この本からその箇所を紹介したい。
-西暦4百年頃のギリシアの哲学者ヒュパティアは、当時ただ一人の女性の学者。美人で人格者で、学識もあった。門弟にキリスト教の司教もいたのだが、異教徒扱いされ、暴動を起した狂信者たちに、カキの貝殻で切り刻まれて死んだ。
いかに5世紀といえ惨すぎるが、この本にキリルの名は出ていない。この聖人の名は司馬遼太郎の短編「兜卒天(とそつてん)の巡礼」(『ペルシャの幻術師』文春文庫、し-1-92)で知る。ここからも一部抜粋したい。
-「彼女の名が都鄙(とひ)に高まりつつあるのを妬んだ」と、史伝にある。原始キリスト教会の敵の一つは、ギリシャ哲学であったといわれる。彼は、神への忠実な下僕であろうとして、この教会と並び立とうとする異質な精神の権威をゆるしておけなかったのであろうか。教会内に無頼漢を雇い、彼らを使嗾(しそう)して、アレクサンドリアの街路上で若い美貌の女哲学者を捕らえ、衣服を脱がせてなぶり殺したうえ、死体を寸断してキナロンの地で焼いた…
wikiにはさらに詳しくヒュパティアの殺害の模様が記されている。「カキの貝殻で、生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した」のだから、その苦痛はいかばかりだったのか。彼女の惨死は多くの学者たちがアレクサンドリアを離れるきっかけとなる。古代から学問の中心地だったアレクサンドリアは、その活動の終焉を迎えるに到った。亡命先としてサーサーン朝ペルシアに向かう学者も少なくなく、この専制君主国家で彼らは安心して学業に専念できた。彼らの学績はペルシア滅亡後のイスラム時代にも受け継がれ、現代人が知ることができるのも中東の人々が保存したためである。
ヒュパティアの虐殺を扇動したアレキサンドリアの総司教キリルは、他にも異教徒の迫害、破壊活動を精力的に行っている。この異教徒虐殺者は「アレキサンドリアから異教徒を追放した功績者」として称賛され、何と19世紀後半、ローマ教皇レオ13世により「教会の博士」として聖人の列に加えられている!中世ならまだしも近代に到ってもカトリックの教条的本質が、これだけでも知れる。
果たしてヒュパティアの言動は現代も守られているだろうか。彼女の自由な精神は21世紀に生きる我々にも通じるものがある。
-考えるあなたの権利を保有してください。なぜなら、まったく考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです。
-真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです。
十字軍といえば、日本人なら聖地エルサレムを巡る西欧の侵略を連想するが、同時期に現在ポーランドからバルト三国に及ぶ一帯の地域にも同じ行為をしていたのを知る人は意外に少ない。これは「北の十字軍」と呼ばれ、そのブログ記事もある。この記事にある聖ベルナールことクレルヴォーのベルナルドゥスは12世紀の著名な神学者。この人物もまた第2回十字軍(1147-48年)の勧誘に大きな役割を果たしたことにより、聖人の殿堂入りとなった。ベルナールは厳格・禁欲なシトー派の神学者でもあり、次の様な檄を飛ばしている。
-キリストのために殺すか死ぬかすることはことは罪ではなく、最も名誉あることだからである…キリストのために殺し、キリストのために死ぬのであれば、ますます良い…
もちろん、中世においても異教徒との共存と融和を図ろうと考える者もいた。そのような人々に教皇庁は聖人の称号を与えるどころか、破門で報いる。異端審問は欧州のみならず、ポルトガル支配下のインドのゴアでも行われた。インドの伝統とキリスト教を融合させようとした聖職者は、異端審問の対象となる。キリスト教社会の聖人とは、信徒数を増やすことと、当然それに付随する異教徒迫害がステータスらしい。
日本人クリスチャンが戦前の軍国主義や植民地主義を糾弾し続けるのは、その規模や非道さでは類のないキリスト教世界の負の歴史を糊塗する腹積もりなのだろう。先日偶然目にしたカトリック聖職者のブログ記事には、日本民族消滅願望そのものの内容に戦慄した。「神の国」樹立に異教徒日本人など「聖絶」するべき存在である。未だにキリスト教には十字軍時代と変化のない凶悪、狂信、狂暴な側面があるのが判った。
今日は目出度いクリスマス・イブだ。そこで私からキリスト教徒へのささやかな贈り物として、この記事を捧げたい。ただでさえ弱小ブログ、そして私の記事を楽しんで読んでいるクリスチャンなど、おそらくいないだろうから。
◆関連記事:「教会は最大の犯罪組織?」
「マザー・テレサの実像」
「キリスト教の本質」
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個人的にはむしろ、開き直ってクリスマスを稼ぎ時と捉え、大衆もそれに追随する日本は、とても人間的で好きです。
「キリストの生まれた日に子作りしてる」なんて、若い人は言いますが、もし彼に恋人がいたら同じことをするだろうから、ただのやっかみというもんです。(笑)
先日サンタがピザを配達していましたが、世界中の子どもたちの内、半数以上が異教徒として除外されているということに何人気が付いているのやら。仮にサンタが実在しているとすれば、欧米のキリスト教右派の家くらいでしょうね。(笑)
今年も残り僅かですが、お変わりありませんでしたか?
日本以外の非キリスト教社会でも、派手にクリスマスを祝う所はありますが、ここまで大らかに行うのは日本くらいかもしれませんね。節操がないといえばそれまでですが、節操がありすぎて血みどろの宗教対立をするより遙かによいと思います。
先月初め、聖地エルサレムでアルメニア正教とギリシア正教の聖職者同士が殴り合いをしている映像を見た時は、大笑いしました。
十字軍等の中世の間の教会の悪行は当然非難されるべきだし、現代のクリスチャンでそれを肯定的に取る人はキリスト教を湾曲する信者以外にいないと思います。(なかったことにしたい人はいるでしょうが・・・)
私はもちろん日本人なので日本国家には平和と繁栄以外に何も願いません。アメリカの日本人教会に通っていますが、日本という国家
、日本民族の悪口なんて聞いたこともありませんよ。アメリカ政府への不満なら少し聞きますが・・・(イラク戦争など)
記事に「日本民族消滅願望」とありますが、もしかしてそのカトリックの方は在日韓国人の方ではないでしょうか^^; 全ての在日の方がそうだとは言いませんが、多くの人が自分が韓国人とは言わずに「日本人」だとなりすましてそのような発言をするのはよく見かけます。
異教徒、宗教間の争いに関しては、これはキリスト教以外の宗教にも言えることですが、前述したように原理主義者や過激派が教えを歪曲して暴走したり、政教分離がちゃんとされていない時代、国で、宗教の名の元に、その宗教の教えと全く逆の事がなされる場合に起こる事だと思います。
記事で挙げられたその聖人も、そのような教会が「異常」だった時代に、聖人となった人の一人でしょうね。個人的にはジャンヌダルクなんかもなんで聖人入りしたのかわかりませんね。人を殺したり、戦争に関わった人は聖徒に数えられるべきではないですよね。
異教徒との歩みよりに関しては、カトリック教会はもうムスリムとは和解しましたよ。小ブッシュに代表されるアメリカ南部系の右翼バプティストは相変わらず本気でムスリムを邪教、地獄に堕ちると思ってるみたいですけど・・・。というか、信じないから地獄に落ちる、という思想自体が危ないですよね。私はクリスチャンですが、キリスト教のこの部分だけは嫌いです。こう考えるクリスチャンは意外と多くいますよ。日本の神学者の八木誠一という人の本を読んでみてください。禅仏教も勉強した人です。
なんだか支離破滅なコメントですが、いちクリスチャンの意見として受け取ってください・・・失礼しました!
まさか、私のような弱小ブログを読まれているクリスチャンがいるとは思いませんでした。では、長文のコメントをお返し致します。
クリスチャンでもとくめーさんは、もしかするとプロテスタントでしょうか?ひと口にキリスト教徒といえ、他宗教同様色々な宗派がありますね。プロテスタントでも様々な分派があり、見解が異なるのだから、ましてカトリックとプロテスタントでは欧州人同士でも結婚に障害となると聞いたことがあります。
十字軍を讃えるキリスト教徒はさすがに少ないでしょうけど、一部存在しているのは事実です。ビリー・グラハムなど、来日時に「十字軍の騎士に見習い、日本をキリスト教社会に変えろ」と日本人信者に檄を飛ばしたとか。また、十字軍を扱った映画『キングダム・オブ・ヘブン』の脚本家ウィリアム・モナハンはカトリックですが、内心は十字軍を悪いと思っていても、特に聖職者は絶対に謝らないと言っていました。
アメリカの日本人教会なら、少なくとも日本人の前では日本の悪口は言わないでしょう。但し、影口ならどうなのやら。戦時中の国家神道ならボロクソではないでしょうか?
私が記事で挙げた件のカトリック神父ですが、在日韓国人かどうかは不明です。彼らが特にネットだと日本人や中国人に成り済ますのは私も知っているし、その類を見ています。しかし、たとえ日本人でもかつてのキリシタンがそうでしたが、「偶象破壊」として仏教の崇拝物や経典を壊したり、仏塔を解体して薪にしたりしています。そのことは関連記事「教会は最大の犯罪組織?」でも書きました。
聖ベルナールはともかく、5世紀のキリルが聖人に叙せられたのは19世紀後半になってですよ。そしてあなたはカトリックとムスリムは和解したと言われますが、ヨハネパウロ2世が十字軍「謝罪」のすぐ後、「天国に行けるのは、正しきキリスト教徒のみである」と言っていた。また、彼は「神の啓示のない仏教は宗教とは言えない」とも発言、スリランカの僧侶が激しく抗議しています。異教徒から見れば、こんなものは謝罪でなく単なる同教徒向けのポーズに過ぎません。現教皇ベネディクト16世もムスリムを刺激する発言をしていましたね。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/8e9f6e065abef4baa615de087df8ce1a
キリスト教と仏教にはかなり似た説話もあり、これをもって、仏教教義はキリスト教がルーツ…などと言う欧米人もいます。しかし、信者による解説だとどうしても身びいきもあり、「聖絶」のようなマイナス面は出来るだけ過少若しくは好意的曲解をする傾向がある。やはり岡目八目で異教徒による研究の方を私は評価します。クリスチャンに限らず信者では、客観視が難しいのではないでしょうか。
あなたは信じないから地獄に落ちるという思想自体が危ない、キリスト教のこの部分だけは嫌いと仰られますが、これは一神教ゆえの帰結なのです。異教徒の私もこの箇所だけは大目に見るつもりはありません。あなたは「キリスト教を湾曲する信者」とも言われますが、これだけ宗派があること自体、その解釈は多様となりますね。
ローマ法王は謝罪の後、そう発言したんですか・・・ヨハネ・パウロは個人的に好きだったのですが・・・まあ法王が「キリスト者じゃなくても天国にいく」というのもおかしいでしょうが、それでもショックですね・・・。そういえばカトリックの父が「いかにコーランが矛盾しているか」のような本を読んでいて、私が「聖書はすばらしいけど、聖書にも矛盾はたくさんあるよ」といって少し口論になったのを覚えています。本当の意味では和解していないのかもしれませんね・・・。悲しいことです。
私の宗派についてですが・・・自分の意思で聖書を読み始めたのが15歳の時で、2年後家族とアメリカに渡り、日本人の母が熱心に通い始めた長老派の日本人教会にしばらくいましたが、牧師先生が招かれた「偉い先生」から耳を疑う言葉を聞き・・・例えば、「キリストの名を聞いた事がない人、聞いても西洋人ほどのチャンスがない人は、どう救われるのか」と質問すると、困った顔をして「そのような人も一生に一度は神様からチャンスを与えられている(=だから信じないのは自分の責任なので、結局地獄にいく)」といった回答を与えられ、納得がいかず、自分なりにすごく真剣に悩んで質問したのにとてもショックで、その教会から足が遠のきました。アメリカ人の父がいくカトリック教会に顔を出しはじめ、そこの方が居心地が良かったので、無理やりどちらかに分類すれば私はカトリックでしょうか。言語の壁でそこも毎週はいってませんが・・・。
正直言って、大勢のクリスチャン(カトリック・プロテスタント問わず)の前で私のキリスト教思想、解釈を説明すれば、多くの人が「お前はクリスチャンじゃない」と言われるかもしれません。キリストを愛していますし、彼の生き方を、そして彼をそう生かした何かに憧れ、そこにたどり着きたいと焦がれていますが、クリスチャンだけが天国にいけるとはどうしても思えないんです。旧約に書かれているような、mugiさんのおっしゃる「聖絶」等の思想は誰に強制されても受け入れたくありません。
一神教ゆえの帰結。そうかもしれません。私も悩みました。本当に矛盾だらけで、教会を離れた今でも、自分なりの「救い」の解釈、頭の中の思想の整理はなんとなくできあがってはいるけど完成はされていませんし。
とても周りくどくなってしまいましたが、で私がmugiさん伝えたかったのは、mugiさんが記事で挙げられた「醜い部分」は確かに存在するし、矛盾だらけではあるけれど、ほとんどの人がキリストを信じる理由は、キリストの言葉が優しく、暖かく、人の心の最も奥深くまでに届くものであるから・・・と言いたかったのです・・・
まあ、そんな事言ったらオウム等のカルト信者も一緒だ!って言われたそれまでですがw でも宗教とカルトを分ける大事な要因はどんな理由でも他人を傷つける事を良しとするかどうか、だと私は思っています。だから「キリスト教を湾曲する信者」という表現をしました。キリストの名の下に人を傷つけ悪を行うのは、キリストの名を騙った邪教と一緒だと考えたからです。それが法王でも牧師でも神父でも。
もちろんmugiさんを勧誘しているつもりでは全くないですし、キリスト教についてもっとマシな事を書け!と言うつもりもありませんが・・・・
http://miserere-mei.net/christ.html
これに目を通して頂いて、感想きかせてください。では、長文失礼しました!
やはりクリスチャンの方って、押し付けがましいですね(笑)。それが私がキリスト教徒を厭う最大の理由です。キリスト教を信仰する自由もあるが、しない自由もある。イエスが言った「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコによる福音書16-15)を実践するから、異教徒には「余計なお世話」そのもの。布教をしないなら結構ですが、無理でしょうね。
実は私がキリスト教に対し、嫌悪感を覚えるに到った原因は、子供の頃、外国人宣教師に「キリストを信じない者は地獄に落ちる」と脅されたことなのです。以前、ブログでもその体験をかきました。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/49eebeb580b12b5758a6f8b9f150f664
あなたは「聖絶」等の思想は誰に強制されても受け入れたくない、と仰いますが、これは聖書、つまり神の言葉であり、それに従うのがキリスト教徒の基本姿勢でしょう。実際は神の言葉どころか人間の作品であり、コーラン、仏教経典他の宗教書は全てそうですが、原理主義者相手に人間の作品などと言ったら、身体生命の保障はない。十戒の第一「私はあなたたちの神、唯一にして全能の神である。あなたたちは私以外のどんなものも神としてはならない」こそ、キリスト教の原理です。
さて、八木氏のサイトに目を通しましたが、私が異教徒ゆえか殆ど共感もなく、面白味もない内容でしたね。そもそも贖罪意識など、仏教、ヒンドゥー、ゾロアスター教のような宗教には無縁です。セム族一神教と違い、多神教にはそのような観念はない。「業」の言葉を持ってくるのも、日本人には判り易い例えにせよ、巧妙な欺瞞です。
また、氏が「鎖国」の表現を使っているのも実に不適切。これは日本の排他性を糾弾する時に用いる言葉ですが、少なくとも現代の歴史学だと鎖国より、東アジアと同じく「海禁政策」が主流となってきました。かつての欧米の植民地では、分割統治のためキリスト教徒は異教徒の現地人より優遇され、それが独立前後の民族対立の元になりました。
クリスチャンのあなたがキリスト教の暗部を書いた記事を、不快に感じるのは当然でしょう。ただ、異教徒から見て日本人キリスト教徒の不愉快な点は、キリスト教の恥部は触れず礼賛ばかり。そして日本の後進性を叱責する類の「出羽の神」が多いこと。詭弁を弄し仏教とこじ付け、改宗させようとする者もいること。やはり異教徒を改宗させることに意義を見出しているとしか、感じられません。
イエスもエルサレムの神殿で商売している人たちを蹴散らすという、暴力行為を行っています。聖書のイエスの言葉を紹介した記事も書いているので、こちらもご覧になって頂きたいものです。
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/e/d3ca323e5fb0570c6715cb074c2f9898
あなたは15歳の時から聖書を読まれていますね。ならば、是非ブログを開設、クリスチャンによるキリスト教講座のようなサイトで自説を開示なされては如何でしょう。“とくめー”で、異教徒のブログでコメントするより、説得力がありますよ。是非、期待しています。
蒸し返す気はないので、自分の考えだけでも書き残しておきます。
私自信は、無神論者のアンチ科学至上主義者で、キリシタンも念仏を唱える輩も学者連中も、自分の身に迷惑をかけなければ好きにすればいいと思っています。
mugiさんがおっしゃるように、一神教というものは、それがどの宗教を信じているにしても、彼らの神だけが神であって、創世神話はその神によってなされたという立場(例外もありますが)をとっていますから、その宗教を布教せんとする者は押し付けがましくなるのはある意味当然でしょう。その点、科学をやっている人間は客観性を重要視しているだけまだましです。(笑)
ヨハネ・パウロ二世の発言は、それ自身はまぁ、当然といえば当然の発言ですが、啓蒙時代の後の19世紀に入って教皇庁が野蛮な行為で信教を守った連中を聖人に列するというのはまったく理解できませんが、彼らを聖人の列から外さないというのは、ある意味でカトリックの血なまぐささを象徴しているように思います。
そもそも、3世紀の神学者テレトゥリアヌスは「不条理なるが故に我信ず」と言っていますが、イエスの復活
来年は宗教の争いのない平穏な年になって欲しいのですが、少なくともこれから100年間はなさそうですね。