その一、その二の続き
最近は水質汚染が問題になっているガンジス川だが、敬虔なヒンドゥー教徒には依然とて聖なる川であり、「濁っていても、これは聖水なのです。聖なる川に汚れはありません」という信者もいるそうだ。この川に浸かるヒンドゥー教徒の姿はよく知られており、インド版ミソギといってよい。これも「清らかさ」を徹底的に重んじることから来ているのだ。
「清らかさ」を徹底的に重んじれば、汚物や動物の死体処理に日常的に接触する不可触民への差別に繋がってくる。不可触民差別は21世紀でも解消されていない。
仏教はなぜ発祥の地インドでは衰退したのか?多少でもインドや仏教に関心があれば、この疑問を抱かない人はいない。日本のインド研究者や仏教学者もこの問いに様々解説をしているが、井沢元彦氏は仏教がヒンドゥー教に「敗れた」理由として、こう述べている。
―あくまで私見だが、結局、大前提である輪廻転生を仏教は否定する形になったからだろう。すべてが「空」ならば、突き詰めれば輪廻転生もないということになる。これがインド人には受け入れられなかったのではないか。
『逆説の日本史』では、日本の歴史学界の権威主義や「史料絶対主義」を糾弾する井沢氏にしては控えめな意見で意外だった。2006年11月の記事でも取り上げたが、ヒンドゥー知識人はインドで仏教が衰退した主な原因を三つ挙げた。
第一に内部的要因で、釈迦の滅後、仏教は部派間の争いが絶えない状態になったこと。その激しさは仏教徒と異教徒の争いに匹敵したという。一神教の宗派争いよりはましにせよ、ヒンドゥーに比べれば異様なものだ。そのため、仏教の魅力は失われ、同時に王族からの支援も激減する。
第二は教団に女性を入れたこと。これは真に革命的なことだったが、同時に将来問題になる種も秘めていた。釈迦の精神的影響力が強い頃は組織もよかったが、僧院の戒律が緩めば堕落するのは避けられない。紀元7~8世紀の文献には僧院を嘲る箇所もあるらしい。仏教衰退は長期の、複雑で多次元に亘る変遷の結果として現れた、と前置きする。
第三の、そして最大の原因はヒンドゥー側の巻き返し。ヒンドゥー知識人の説明は勝利宣言そのものだった。
「ヒンドゥー教には他の信仰を吸収する素晴らしい包容力があります。それはまるで大海が、どんな大河が流入しても溢れることがないのと同じなのです…
ここで忘れてはならないことはヒンドゥー教もイスラムによって、仏教と同じくらい容赦なく破壊されたにも係らず、その存在は続いたとです。これはヒンドゥー教が民衆の中に、とりわけ地方において深く根を張っていたからであり、またその哲学が非常に弾力性に富んでいたからです。
このようにヒンドゥー教はイスラム教の衝撃を切り抜けたばかりでなく、その後幾世紀に亘って新たな分野を開拓し続けました。これは仏教がイスラムの大波に耐えられなかったのと好対照を成すものです」
件のヒンドゥー知識人の挙げた仏教とヒンドゥーの相違点も興味深い。釈迦にとっての世界観は苦の存在に由来し、釈迦は存在の根本的特徴を苦と見たが、ヒンドゥーの覚者は対照的に全ての存在を歓喜であると捉えた。この世が苦に満ちているのは確かだが、人間の存在を全く苦悩という観点から捉える考え方は、明らかに否定主義に陥ってしまう。
一方ヒンドゥーの聖者たちは自らが住む苦悩の大海を考察しながら、人間存在の中核が苦ではなく歓喜と想定した。釈迦を讃えたネルーさえもが、仏教の厭世主義的傾向は好みではないと述べている。
キリスト教も尼僧のように教団に女性は入れている。しかし、尼僧が存在しないイスラムに比べればパワーで劣るのは否めない。
ちなみにヒンドゥー教にもヨーギニーと呼ばれる女性行者がいる。男尊女卑の最たる宗教と思われがちなヒンドゥー教だが、柔軟性と包容力に富んでいるのは確かで、この辺りが「強い」多神教ゆえか。何しろ一神教に支配されながらも屈服しなかった多神教なのだ。
神道が「強い」多神教とは私は思わない。ただ、その強さは天皇の存在と国家の手厚い庇護が最大の要因だろう。天皇が最高の宮司でもあり、棄教は許されない。天皇制がある限り、神道もまた存続していくだろう。
◆関連記事:「インド知識人と池田会長の対談」
結局人間の欲を捨てて人間をやめるとしか思えない
所業を極めろ!てことですし。阿弥陀信仰みたいに
誰でも気軽にできて、救われるわかりやすい教義へ
アップデートできないと簡単に消えてしまう教えに思えます。カネと時間があり、高度な思索に至れる
人間なんていつだって少数派でしょう。
イスラムもキリストもわかりやすい見返りがありますけど、釈迦のいう仏教だと常人では価値すらねえ。
神道は皇室もあるでしょうが、特にか戒律がなく
負担はお祭りと社殿の維持ぐらい、冠婚葬祭
儀式等々に便利だから問いところだと思います。
あと最近米作りゲームにはまっていたんですが、
どんなに最適な種もみ選別や田の水量調整、
肥料の最適化、防虫雑草対策を仕掛けても、
天候一つでアウト!もちろん天候に合わせて
打つ手を変えるのも駆け引きですが、対策不可というケースもあり天候の理不尽を実感。一応兼業農家なんですけど近代的なツールナシなゲームをやって、いままで実感できなかった神頼みする気持ちと五穀豊穣への感謝の気持ちというのがしみじみわかりましたね。近代以前の農業は雨一つで簡単に飢えて死ぬことができる!
神道は稲作文化とむずびついてる部分も強みだと思いました。
この教えを聞き、「日本は食品のみならず宗教もインスタント化したのか!」と驚いた東南アジアの仏教僧がいたそうです。それで大いに結構。カネと時間があり、高度な思索に至れるハズの僧侶が異教徒掃討を煽るのだから。
>>特にか戒律がなく負担はお祭りと社殿の維持ぐらい、冠婚葬祭儀式等々に便利だから問いところだと思います。
日本の仏教も戒律はユルユルだし、僧侶が妻帯しているのは日本くらいでしょう。だからガチガチの戒律が求められるイスラムは、変人でもない限り敬遠されるのです。尤も宗教オンチなので洗脳されやすい傾向がありますが。
米作りゲームというものもありましたか。ゲームの世界も多種多様です。農業未体験でも、作物は環境に左右されることは分ります。せっかく順調に実っても、台風があれば即アウト。現代でも天候の理不尽にはお手上げだし、神頼みする気持ちが湧いてくるのは当然ですよね。
稲作文化は日本に深く結びついており、神道の強みは稲作文化にあり、という指摘は大変参考になりました。
https://www.marv.jp/special/game/sakuna/
私もゲームをしていないため、ゲームといえば戦国モノか三国志しか浮かびませんでした。しかし米作りゲームもあったとは驚きます。案外面白かったりして。
大変面白いです。農水省のコメ作りのページや
JAのコメ作り冊子(作者はこの手引書を使って実際ベランダで稲をそだてたとか)が攻略情報として
有効といわれゲーム界隈で話題になりました。
作者は日本人ですが、販売会社がアメリカの会社で
英語版もあり全世界で2週間で50万本売ったようです。海外のレビューを見ても、日本人と同様の感想を抱く人が多く、コメ作りの大変さだけだなく
米作り文化も面白く眺めているようです。
米づくりのこだわりは半端ではなく、作者は国会図書館にこもって稲の論文を読みまくったとか(ついでに室町時代末期に似た日本風の世界というの設定なので、当時の宣教師の記録を読み漁り、食事や風俗を研究したとのこと)昔の農機具の可動状態を知りたくて、足踏み臼という精米用の器具があるのですが、日本の資料館では貴重なので実際に使うことができない。そこでベトナムの農村ではまだ現役ということで、実際に使っている動画を取りにいったとか、まあゲームと思えない逸話ばかりで驚きです。特に病気の設定がこまやかで、先にも書きましたが、雨が続くと簡単にカビが発生して、葉枯病やいもち病にかかってしまいます。一応ゲームなので、農薬相当のアイテムも出てきますが、序盤はそんなものはなく、天気と病気の恐ろしさに戦慄します。農薬と機械て素晴らしい!
稲作ってベランダでもできるのでしょうか?やれたとしても、素人には無理でしょうね。『晴れ時々ファーム』という番組で、何年か前に稲作に挑戦していましたが、コメ作りは本当に大変だと感じました。
ゲーム作者のこだわりもスゴイ。つまらないゲームはクソゲーと呼ばれますが、クソゲーでも制作は楽ではないと思います。
米以外でも農作物は天気と病気の他、獣害や虫害もあります。特に最近は里山にも獣が現れ、せっかく実った農作物が根こそぎ食い荒らされる始末。寒冷な東北では稲は冷害の影響を受けやすく、天候の変化でカメムシが大発生することも。河北新報の社会面に時々カメムシの発生状況が載るのも、ローカル紙ならではでしょう。