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このお話は、
「約束」
「願い」
の姉妹編です。
女の幸せって何だろう。
仕事の充実?
恋人がいること?
結婚や子供?
今の自分にはどれもピンとこない。
桜庭紫織(おうにわしおり)、もうすぐ三十歳。
生きているだけで儲けものって感じの人生を送っているーー。
継母の職場はコンビニ、そこに来店されるお客様で楓山流禮(あきやまながれ)という人がいる。最初は継母自身が気に入って、誘ってみましょうという話だった。
ただ親の思惑にそのまま乗りたくなかったから、偶然に会うことがあればいいよ、と答えた。いつの間にか、一緒に食事をし、二人で映画に行くような間柄になっていた。
その彼から話がしたいと連絡があった。電話ではなく、顔を見て話したいと。
どんなことだろう。嫌な予感がする。
紫織は三年前、病気で片目を失った。
普通なら最初に違和感をもたれる義眼。彼はそれについて何も聞いてこない。
ついに気付かれたかな。それとも黙っていただけでやっぱり気持ち悪いって思うようになったのかも。
もしも聞かれてしまったら、正直に話す。それが継母との約束だから。いつも正直に生きていくこと。その瞬間は辛くても、嘘を重ねる人生はもっと辛くなる。だから正直に話す。
楓山の顔が脳裡に浮かぶ。あの優しい穏やかな表情に、別れを告げる日になるかもしれない。そう思うと胸が痛むーー。
午後九時。
思っていたよりも遅くなってしまった。いくら週末で連絡するとは言ったものの、これは日を改めた方が良さそうだ。
そう思ったので電話ではなくメールを送る。
『遅くなりました。時間も時間なので日を改めたいと思いますが、如何でしょう』
送信ボタンを押し携帯を机に置いた。
優しい人だ。多分、了解と返ってくるだろうと思いながらも、もしかしたら電話があるかもしれないとも思った。
とにかく出よう。連絡がきたらそれに従えばいい。バッグを手に歩き出す。
ところが一向に反応がない。+メッセージだから既読になったことだけが分かったーー。
エレベータを下りると、残業した人が出てきている。週末は遅い人が多い。
「桜庭さん。今、帰り?」
振り返ると、同期の喜多村英梨が走って来る。
「受付の時と違うからね。定時だけってわけにはいかないから」
「そっか。でも私の気持ち、分かってくれて嬉しいよ」
何よ、それって笑う。今までだって知らないわけじゃない。ただ実感していなかっただけ。
「確かに。実際残業して初めて知った夜の暗さだわ」
そこで外を見る。秋の日は釣瓶落としだ。夕暮れ時のオレンジの空はすっかり消え失せ、夜の帳がおりている。
一階は一面ガラス張りのビル。どんなに暗くても街灯の明るさで誰が立っているかは分かる。
「楓山さん」
喜多村が知り合いかと聞いてきたので、首肯するだけで答えた。じゃ、先に行くわと残し彼女は離れて行った。
外に出ると、少しだけ肌寒い風が吹き抜けた。
「ごめん。近くにいたから」
楓山はそう言ったが、彼の家からでは離れ過ぎている。
「来て下さっていたんですね」
どうしても今夜、話をすることに決めたのだろう。
「有難うございます。私、食事してないんです。遅くまでやってるお店行きましょう」
何かを言われる前に、一気に話して歩き出す。
どこからか金木犀の香りが漂ってくる。風向きのせいだろうか。珍しいこともあるものだ。
空腹で別れ話は辛い。
しっかり食べて、臨戦態勢で言葉を受けないとダメージが大きすぎる。
「紫織さん。そのままで聞いて」
先を歩く紫織の背に言葉が降る。
「結婚を前提として付き合って下さい」
一生聞くことのない言葉だと思っていた。
驚きと喜び、そして直後の失望。彼は何も知らないのだ。
「ありがとうございます。ただ返事は私の話を聞いてもらった後に。改めて考える時間が必要だと思うので」
歩みを止めることなく告げた。聞こえただろうか。彼は何も言わずに付いて来る。
失う恋か、続く恋か。
今は何も考えないでいよう。
そう思うものの、自分ではどうにならないこともある。脳は勝手に動き出すのだ。
無理よ。
背負うものが多すぎる。
「紫織さん」
思考に没頭しすぎて聞き逃した。
えっ!?
「何ですか」
「これ以上行っちゃうと、お店なくなるよ」
言われて辺りを見渡すと駅からすっかり離れてしまっていた。
「あ。ごめんなさい」
「いや。こんなところで言うべきことじゃなかったから」
彼は頭をかきながら踵を返す。
「遅くなると閉まっちゃうし、サイゼにしましょう」
そうですね、と言いながら後を追う。
色々考えているようで、何も考えていなかったことに気付かされたーー。
「少し飲みますか」
食事の後、まだ閉店まで時間はあった。
「ではグラスワインを」
そう言ってメモにオーダーを書き込む。
ほどなくして二つのグラスが並び、グラスを傾けたあと半分ほど飲んだ。
「楓山さんは私の顔をちゃんと見たことがないのだと思います」
結局、身も蓋もない言い方で始めてしまった。
「そんなことないですよ」
「でしたら私の目のこと、どうして何も聞かないんですか」
「聞かれて楽しいことではないでしょう」
そして小さく、義眼なんてと付け加えられた。
ちゃんと知ってたんだ。
「まだ治療中ですか」
「はい。三年前ですから」
「ならお父さんと同じ頃」
「同じ病室に入院していました」
話し始めてしまうと、楓山はずっと知っていたということがわかる。気遣いだけでなく詳しい。
不思議に思い尋ねると、思いがけない返事がきた。
「叔父が義眼だったんです。すでに鬼籍に入ってますが」
その一言で全てが解消された。
義眼を取り出して洗わなければならないのだという話をどう言おうか、一番悩んでいたことが一瞬で消え去る。
「ご覧になったことがありますか」
その叔父様の義眼を、と聞きながら、彼の表情を見る。
「叔父は変わった人で、折角だから後学の為に見ていろと言われて。最初は驚きましたが、これを毎日だと思えば気持ちが悪いとかの感情は言っていられませんでした。結局、癌で亡くなったんですが別の癌が原因で転移ではなかったそうです」
今は癌になる人が本当に多い、と言う。身近にいる人が病気になると、確かに多いと感じる。
店を出て歩く。終電にはまだ早い。
「紫織さんの話というのは病気のことでしたか。それならば問題ないです。僕の気持ちは変わりません」
隣を歩くので表情は見えない。ただ優しい声音だった。
「男性とお付き合いをするなんて、もうないと思っていました。きっとご迷惑をかけてしまうと思います。それでもよければ」
漸く足を止めこちらを向く。
「ありがとう」
抱きしめたい気分だ、と彼は言った。思わず笑みが溢れる。
「ただ結婚は、ご家族がいい顔をしないと思いますよ」
「何故」
彼は、真正面から紫織の顔を覗きこんだ。
「僕たちは成人した大人です。誰かの許可なんてなくても結婚できる年齢ですよ」
「でも」
彼は、今度は自分の話を聞いてもらう番だと苦笑いを見せた。
彼には妹がいる。知っているのはそれだけだ。確かに結婚を前提というなら、もう少しお互いを知っていなければならないだろう。
これまで普通の人の幸せから目を背けてきた付けが回ってきた。当たり前のことがわからない。
「とりあえず今夜は帰りますか」
もう遅い。でも週末、明日は休みだ。
「楓山さんのところ、お邪魔してもいいですか。今夜中に聞いてしまいたい」
「わかりました。桜庭さんが心配するといけないので、そちらに伺いますよ」
「でも辰巳駅まで行ってしまうと終電なくなるかも」
「二駅なら歩けます」
そう言われてしまったら無下には断れない。結局、家まで来て上がってもらった。
継母は一瞬だけ驚いた顔を見せたものの、すぐに奥に引っ込んだ。自分はもう休むからと言ってーー。
「難しい話はしません。父親は今でいうDV夫だった。母は僕を連れて家を出た」
小学四年の時だという。
しかし、その後、今度は母親が楓山に対し暴力を振るうようになる。
「一年後、母が再婚して新しく義妹と継父ができた。その彼が母の暴力から守ってくれた。義妹とは血の繋がりはない」
そうだったんだ。
紫織は弟とは父が同じだ。そういえば以前、弟の歳を誤魔化したことがあった。彼はまだ学生だ。訂正しないと。
「母とは疎遠になっている。結婚するとしても連絡するつもりはない。何だったら僕が此処に引っ越して来たっていいんだ」
言葉の意味を理解するのに、少しだけ時間がかかってしまった。
「それは継母がいるから」
「いや。家族はいいものだと知りたいから」
多くの感情が押し寄せてくる。彼の中で、どんな想いが紫織に向けられているのか。
今はまだ、何もわからないーー。
【了】 著 作:紫 草
ニコッとタウン内サークル「自作小説倶楽部」2020年11月小題:引っ越し