―見られている―
夏休み直前の、慌しい昼下がり。
職員室前に立つ、その生徒に気付いた。
どこにでもある県立高校の、当たり前の風景。男子生徒がそこにいても、何の問題もない。
でも…、私は違う。今度こそ、それを自覚した。
「何か、用か?」
数学の男性教師が生徒に声をかけている。
階段を下りての場所からでは、何を言っているのかは聞こえない。
でも確かに、その男性教師の肩越しに、彼と視線がかみ合った。
二言三言話して、その教師は職員室へと消えた。
仕方なく、再び歩を進める。
そこに在り続ける彼。
そして今度は肩が触れそうなくらいまで近づいてきて、私の足を止める。
「先生、いつもの場所で待ってる」
耳元に囁かれた、その声音。高校生と呼ぶには、余りにも艶やかな音色。
「行かないから」
すれ違いざま、言い捨てる。
「来るまで待ってる、先生」
そう残して、彼は去った。
許されない。
こんなことは許されない――
大学生活最后の夏に、バイト先で知り合った。
てっきり同じ大学生だと思い込んだ。
好きって言われて嬉しかった。付き合い始めて、楽しかった。なのに…
春、赴任先の高校で制服姿の彼と遇った。
その時の声にならない、私の叫び。単なる驚きを遥かに通り越した、驚駭(きょうがい)。
どうして…
そう言った私の瞳を見つけると、彼は笑った。整った、その綺麗な顔で。
逃げている。
それから私は逃げている。
別れ話をすることもなく、学年が違うのをいいことに、彼から逃げている。
いつもの場所、と誘われても行ったことはない。
本当に来ているのか。待っているのか。どのくらい、待ち続けているのか。何も分からない。
もう何度誘いを無視しているだろう。あんなに好きだったのに… ううん、今でもこんなに好きなのに…
ふと気付くと、彼の視線を感じる。
はっきりと視線で犯されている感じ。視姦…
もう何もかもが、どうでもよくなって、このまま欲望のまま突っ走ってしまいたい。
それを留めているものは、何だろう。
いつか、この誘いがなくなったら…
行けないくせに、言われなくなるのが怖い。
職員室には入れそうにない。
もと来た廊下を引き返すため、振り返った。
!
「もらい」
そう言った言葉の直後、彼は私の唇に触れた。
とっくにいないと思ってたのに。
久し振りの、その感触…
こんなところで何をするのだと、教師に向かって何をするのだと、頭の中の文章は言葉にならない。
待ち続けた温もりに、我を忘れた。
大急ぎで階段を駆け上がる。
誰かに見られたかもしれない。
いっそ見られてしまった方が、諦めがつくかもしれない。
免職になるならなるで、それでもいいような気がしてきた。
混乱した頭は、どんどん脳内温度が上がってゆく。
屋上に出る扉は危険区域として鍵がかけられている。だから、その扉の手前で立ち尽くす。
「沙織」
背中に声を聞く。
懐かしい、その名前。いつしか私は、自分の名前も忘れてしまっていたみたい。
肩に手を置かれる。
「誰もいなかったから。見られてないから」
ごめん、と謝りながら彼は言う。
違う違う。そんなことを聞きたいわけじゃない。
では、何を聞きたいというのだろう。
二人きりで逢う時間を拒んできたのは、私なのに。
「則之。私…」
そこで振り向いた。堕ちるなら、一緒がいい。
もう、理性のかけらも残っていない。
「抱いて」
にやりと笑う、その目元は以前にも増して艶っぽい。
「喜んで」
そう囁いた彼の声音は、早くも欲望を滲ませている――。
【了】
著作:紫草
夏休み直前の、慌しい昼下がり。
職員室前に立つ、その生徒に気付いた。
どこにでもある県立高校の、当たり前の風景。男子生徒がそこにいても、何の問題もない。
でも…、私は違う。今度こそ、それを自覚した。
「何か、用か?」
数学の男性教師が生徒に声をかけている。
階段を下りての場所からでは、何を言っているのかは聞こえない。
でも確かに、その男性教師の肩越しに、彼と視線がかみ合った。
二言三言話して、その教師は職員室へと消えた。
仕方なく、再び歩を進める。
そこに在り続ける彼。
そして今度は肩が触れそうなくらいまで近づいてきて、私の足を止める。
「先生、いつもの場所で待ってる」
耳元に囁かれた、その声音。高校生と呼ぶには、余りにも艶やかな音色。
「行かないから」
すれ違いざま、言い捨てる。
「来るまで待ってる、先生」
そう残して、彼は去った。
許されない。
こんなことは許されない――
大学生活最后の夏に、バイト先で知り合った。
てっきり同じ大学生だと思い込んだ。
好きって言われて嬉しかった。付き合い始めて、楽しかった。なのに…
春、赴任先の高校で制服姿の彼と遇った。
その時の声にならない、私の叫び。単なる驚きを遥かに通り越した、驚駭(きょうがい)。
どうして…
そう言った私の瞳を見つけると、彼は笑った。整った、その綺麗な顔で。
逃げている。
それから私は逃げている。
別れ話をすることもなく、学年が違うのをいいことに、彼から逃げている。
いつもの場所、と誘われても行ったことはない。
本当に来ているのか。待っているのか。どのくらい、待ち続けているのか。何も分からない。
もう何度誘いを無視しているだろう。あんなに好きだったのに… ううん、今でもこんなに好きなのに…
ふと気付くと、彼の視線を感じる。
はっきりと視線で犯されている感じ。視姦…
もう何もかもが、どうでもよくなって、このまま欲望のまま突っ走ってしまいたい。
それを留めているものは、何だろう。
いつか、この誘いがなくなったら…
行けないくせに、言われなくなるのが怖い。
職員室には入れそうにない。
もと来た廊下を引き返すため、振り返った。
!
「もらい」
そう言った言葉の直後、彼は私の唇に触れた。
とっくにいないと思ってたのに。
久し振りの、その感触…
こんなところで何をするのだと、教師に向かって何をするのだと、頭の中の文章は言葉にならない。
待ち続けた温もりに、我を忘れた。
大急ぎで階段を駆け上がる。
誰かに見られたかもしれない。
いっそ見られてしまった方が、諦めがつくかもしれない。
免職になるならなるで、それでもいいような気がしてきた。
混乱した頭は、どんどん脳内温度が上がってゆく。
屋上に出る扉は危険区域として鍵がかけられている。だから、その扉の手前で立ち尽くす。
「沙織」
背中に声を聞く。
懐かしい、その名前。いつしか私は、自分の名前も忘れてしまっていたみたい。
肩に手を置かれる。
「誰もいなかったから。見られてないから」
ごめん、と謝りながら彼は言う。
違う違う。そんなことを聞きたいわけじゃない。
では、何を聞きたいというのだろう。
二人きりで逢う時間を拒んできたのは、私なのに。
「則之。私…」
そこで振り向いた。堕ちるなら、一緒がいい。
もう、理性のかけらも残っていない。
「抱いて」
にやりと笑う、その目元は以前にも増して艶っぽい。
「喜んで」
そう囁いた彼の声音は、早くも欲望を滲ませている――。
【了】
著作:紫草