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「大将、熱燗一本ね」
言いながら、古い暖簾をくぐる――。
もう何年も使われた暖簾は、客の皆が手を副えるので擦り切れてしまっていた。
しかし彼は、この古い暖簾を新しいものに替える気はさらさらない。
何故ならこの無くなった部分は、これまでのお客様の処にあるからだという。
大将がこの店を父親から受け継いだ時、何も教えてもらうことはなかった。後ろ姿を見て真似て体で覚えた、仕入れも仕込みも、そして料理も。
ただ、この暖簾は父の祖父が屋台を引き始めた時から使っていると言われただけだと聞いた。
その大将の常連になって早十数年――。
今夜は冷えますね。
大将の奥さんが、そう言っておしぼりとお通しを持ってきてくれる。礼を言いながら受け取った、おしぼりの温もりが、凍えたようだった両手に血を通わせるようだ。
地デジになった今も変えていない、古びたテレビがニュースを流していた。
『――木枯らし一号を観測したと発表しました』
という気象予報士の言葉が流れた。
木枯らし…
どうりで強く冷たい風が吹いた筈だ。
「大将、あったかいもの何がある?」
そう言った自分に向け、待っていたぞという顔をして大将は鉢を差し出す。
あったかい…
受け取った、その鉢がまず温かかった。
そして中には、大根がいい色で湯気を立てている。
時を擱かず、徳利と猪口が目の前に並べられた。
すると奥さんがやってきて、いつものように最初の一杯を注いでくれる。猪口を差し出しながら、思わず笑みを浮かべてしまう瞬間。
やっぱり赤ちょうちんは、こうでなきゃ。
木枯らしが吹き荒れた寒い夜を、体も心も温かく変えてくれる、行きつけの赤ちょうちん。
その暖簾の欠片を持ち帰る一人として、今はこのひと時を有難く過ごそう。
【了】 著 作:紫 草