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その弐
「もうすぐ夜が明けるよ」
彼女は店内に入り奥の席に陣取ったまま、何も話さず時を過ごした。
そして店内に流れる有線を聞いているように目を閉じていた。
葛城も、また黙ったままだった。消した煙草は十本を超え、さすがに箱が空になる。
去った女は合コンで知り合ったとはいえ、まあ気に入ってはいた。
まだ数回しか会っていない。
振られる理由を見つけるには、短すぎるつきあいだった。否、つきあっているという実感さえ、まだなかった。今時の女にはない穏やかな雰囲気に好感をもった、あっさり振られたけれど。
それに比べて、この少女は何かが違った。顔立ちもはっきりしていて、ずっと可愛い。
華奢な体は、まだ中学生といっても通るだろう。もしかしたら本当に中学生かもしれない。
どうして声なんか掛けたんだろうな。
小さく囁くように話す。それでいて、はっきりと聞こえるアルトの声。
朝まで一緒に、と言った意味は何だったのだろう。
「おじさん、ありがと」
少女は、そう言って席を立とうとする。
「ちょっと待てよ。名前くらい言っていけ」
思わず細い手首を掴んだ。すると、その左手を彼女はじっと見ていた。
「何?」
「ううん。ハンドルネームでもいい?」
ハンドルネームって。
この現実も彼女にとっちゃバーチャルなのか。
「できたら人の名を名乗って欲しいな。俺は葛城水帆。めったに教えない本名だよ」
少女は隣に座り直すと少し躊躇った後に、
「真帆。私も、滅多に教えない本名です」
そう言って、はにかんだ。
「真帆ちゃんか。もういいよ。家にお帰り」
「かつらぎ……、さん? みずほって、どんな字書くの?」
そのまますぐに帰るのかと思いきや、どういう訳か、真帆はそんな質問をした。
別に隠す必要はない。グラスの下に敷いてあるコースターを取って、名を書いた。
「葛城水帆さん、水帆って呼んでいい?」
一回り以上も違うだろう少女に、呼び捨てられた。ただそれだけなのに、小さなスキャンダルでも抱えた気になった。
みずほ……
いつもは祐樹と名乗っている。所謂通り名だ。戸籍の名が必要でなければ、充分これで通用する。
二度と会うことはない、と思ったからだろうか。どうして本名を言う気になったのか。そう考えると、自分自身に驚いた。
「いいよ」
その返答に真帆は微笑んだ。
「じゃ、またね。水帆」
今度こそ、少女は軽やかに店を出ていった。
また、と残して。
また、なんて二度とない。
全く変わった奴だったな。
改めてコーヒーを一杯オーダーし、飲み干すと店を出る。
明るい日差し。もしかしたら違う朝を迎えたかもしれなかった。
でも今は別れたともいえないような女より、真帆との時間の方が楽しかった。
「真帆」
小さく呟くと、胸の奥でその名が心地良く響いた。
To be continued. 著 作:紫 草
HP【孤悲物語り】内 『溺れゆく』表紙