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子は、いつか親離れする。
それがいつかは個人差があるだろう。小さな頃から自立を意識していた子供は早々に親離れするだろうし、大人になってもベッタリとくっついている親子もいる。
晃は一人っ子だったこともあり、母親の方がベッタリだった。小学生の頃ならいざ知らず、中学に入る頃には親は鬱陶しい存在になっていた。ただ一人っ子というのは厄介なもので反抗期とはっきり言えるような時期はない。
母親の気持ちを考えてしまうと、つい、もういいよとなり部屋に籠もる。父親は口数が多くなかったこともあり、あまり話をすることはなかった。
大学卒業と同時に家を出て行くという話も、すんなりと受け入れられた。代わりに、一切の援助を受けられないという覚悟はあるか、と言われただけだ。
大学四年間。バイトをしている間、貯金は続けていた。いつかではなく、早く親元を離れたかったからだ。
就職先に近く、バスとトイレが別々なところ。古いことは気にならなかった。築二十年のコーポを借りられた。ここである程度、まとまった額の貯金ができたらマンションを買おうと思っている。仕事先からの住宅補助もある。一人で生きて行くことに何の不安も持っていなかった。
生活そのものは快適の一言だ。親からも何も言ってはこない。気楽な一人暮らしが五年も過ぎた頃、久しぶりに実家に戻ろうと思った。意味はない。ただ漠然と、どうしているだろうかと思っただけだ。
あんなに晃にベッタリだった母親が電話の一本もかけてこないというのは不自然だ。それだけのことに五年経つまで気づけなかった。
母の携帯に連絡を入れようと思ったが、結局はしていない。これがきっかけとなって、また電話をかけてくるようになるのを恐れたから。このままずっと距離をとっていたかった――。
初夏の昼下がりだった。
古い一戸建てだ。表札の文字は前から少し薄くなっていた。ただ一歩、門を入ると違和感が押し寄せてきた。
小さな庭だ。何があったという訳ではない。でも芝の緑が鮮やかな時期である筈だった。しかし、そこにあるのは薄茶色の枯れてしまっている芝の残骸だ。
鍵を取り出して中に入る。
ゴミ屋敷という言葉が頭に浮かんだ。
その日は日曜日。どこかに出かけているのだろうかと思いつつ待つことにした。
長くなり始めた陽が落ちようとする頃、父が帰ってきた。
「何だ、来てたのか」
まるで、少し前に会ったような感じの言葉だ。
「お母さんは。一緒じゃないの」
「知らん」
相変わらずだな。
「何時に帰ってくるんだ」
彼女はいつも自分の予定を紙に書いていた。出かけた場所は知らなくとも、帰る時間はわかるだろうと思って聞いた。
「母さんは帰ってこないよ」
え?
「何だよ、それ」
しかし父は、その言葉を聞かなかったように居間に入って行った。
「どういうことだよ。帰ってこないって、どこ行ったんだよ」
座椅子に座り、TVをつける。何の番組だろう。ちょうどCMが流れていて、女性の化粧品を宣伝している。母と同じくらいの女優が笑顔を向けた。
ふと、母親の姿を思い出す。
「もしかして出て行ったのか」
「あゝ。何処にいるのか。生きているのか死んでいるのかもわからん」
衝撃は次第に全身に広がっていく。
「いつ」
声が震えているのがわかった。でも尋ねずにはいられない。
「お前が出て行った、その日の夜だ」
父の答えはあっさりとしたものだった。
「俺が出てった日……」
父が、お茶でも淹れるかと台所に向かう。
「どうして知らせてくれなかった。すぐ教えてくれてたら」
そこで言葉が途切れた。お湯の湧く音が現実を知らせた。
「知らせて何か変わったか」
父の皮肉めいた言葉が胸に刺さる。
どうだろう。捜しただろうか。好きで遊んでいるだけだと捜すことなんかしなかったんじゃないかと思う。
自分も家を出たばかりだ。関わりたくなかった筈だ。
「いや、変わらないな」
「捜索願は出してある。でも自分の意思で出て行ったみたいだから、連絡を待ってくれと言われたよ」
確かに警察にしてみれば、単なる家出だろうな。
「それより何か用事でもあったのか。お前が帰ってくるなんて、もうないと思ってたよ」
そうだな。
「突然、思い立っただけだ。用があった訳じゃない。まさかお母さんが失踪してるとは思わなかったけれどね。それより」
この家、臭いよ。
「片付けよう。これじゃ近所迷惑だ」
もともと片付けることが嫌いな父だ。
ゴミ袋もなく、近所のスーパーに買い物に行く方が先のようだ。そう言うと食材を買いに行くと父も一緒に付いて来た。並んで歩くなんて、小学生以来じゃないだろうか。
「近所の人にはなんて言ってるんだ」
「殆んど誰にも会わないし、何も聞かれないから話してない」
そうかよ。こんな人だから母は出て行ったのかな。それとも晃が出て行ったからか。
「一人暮らしはどうだ」
荷物を両手に帰路を歩いていると、突然父が口を開く。
「困ってることはないか」
「うん。大丈夫」
寂しいのだろうか。父自身が心配して欲しいのだろうか。
そうは思っても、自分は彼に優しい言葉をかけることはない。
父の都合だけで連れ歩かされた子供の頃。何も考えていなかった時期をすぎると、気づいてしまった。父は子供が可愛いんじゃない。ちやほやされる自分が嬉しいだけだということに。
気づけば、中学高校と次第に距離をとり、大学では全く話すことはなかった。部屋を片付けていると、それなりに手を出してくる。全然役に立っていないが、何もしなかった頃よりはマシだ。
結局、大掃除して食事作って、一緒に食べて帰って来た。
泊まって行かないのかと言われたが、それは遠慮した。これ以上は無理だ。母親がいなくなっていたという事実は、ボディブローのように自分を痛めつけてきた――。
その後、月日が流れ失踪届けが死亡届に切り替えられる時期がきた。
父はどうするつもりだろう。あれから、また疎遠になった。あの人からは連絡してこない。
母はどこに行ったんだろう。何故、連絡してこないんだろう。子離れできていないと思っていたのに、自分の独立を見届けることもなくいなくなった。心配じゃなかったんだろうか。
大掃除をしながら銀行の通帳を確認した。母名義のメインで使っているものは残っていた。子供の頃から使っていると言っていたものが一通なかった。ただし、その通帳には残高が殆んどない。
何故なら、母は少しでも余裕ができると晃名義の通帳に預金をしていたから。母自身が生きていけるだけの金は持ってない。携帯も勿論解約されていた。
あの日。
家を出るというあの日。
スーツケースに身近なものを詰めていた。荷物を運び出したものの届くのは翌日で、その日から引越し先に行くつもりだったからスーツケーツは残しておいた。母はどうしていただろう。憶えていない。
玄関を出る時も、母を振り返って見ることはなかった。あの人が最後に見たのは、晃の背中だったことになる。
「何てことをしたんだ」
思わず頭を抱えこんだ。
「俺のせいかも」
お節介なわけじゃなかった。ベッタリだったとは思う。鬱陶しいと思っていたのも事実だ。ただ、本当に鬱陶しいことなんかなかったのに。
孝行のしたい時分には親はなし。さればとて石に布団は着せられず。
布団どころか、墓石に名前を刻めても納骨することができそうもない――。
【了】 著 作:紫 草

by 狼皮のスイーツマンさん
ニコッとタウン内サークル「自作小説倶楽部」2019年4月小題:スーツケース