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その竜
昨夜の穴埋めに二時間残業して帰路につく。
葛城の自転車を漕ぐ足は、いつもの三倍は力が入っていただろう。通常二十分以上の道のりを七分で到着する。止まった途端に汗が吹き出した。
午後八時、見上げた窓に灯りはなかった。
「また消えたか」
思わず言葉になった。
気持ちを落ち着け、自転車を置く。そして小窓から管理人に声をかける。お帰りなさい、という言葉を言いながら、顔を出してくれる。
「先生。またあの女、来ましたよ」
その言葉に衝撃が走る。
「悪いと思ったんですが、通報しました」
住人の方との約束があるのでねと言い、咎めることもしたくないからとも言う。
「連れて行ってもらいましたよ。今日は黙ってついて行きましたが、気味悪いですね」
「どうもすみません」
「先生が悪いわけじゃないよ」
そう言って、見送ってくれる。
今度問題を起こしたら処罰が下る。瑞穂も、それは分かっているのだろう。
管理人の山下に会釈を残しエレベーターに乗った。
真っ暗な部屋は虚しかった。
自分の部屋なのにな。
壁にあるスイッチを押すと灯りが点り、目映い白さに照らされる。テーブルに置いた現金はなくなっていた。
真帆……
葛城の目頭が熱くなる。刹那。
カタン、と音がして寝室の扉が開きそこに真帆が現れた。
言葉もなく、彼女のもとに駆け寄る。そして黙って抱きしめた。
優しく慎重に、この腕の中で壊してしまわないように。
「水帆」
「真帆。ここにいてよ。ずっと居て欲しい。何も言わないし聞かない。こんな思い、二度も三度もしたくない」
ソファまで連れてきて座らせ、自分は隣に座り込む。
「学校のことや家のこともある。今度、真帆の親に会って俺が預かるという話をしてこよう」
彼女の言葉を聞くことなく一気に話した。それは宣言に近いものだったかもしれない。
でも、その言葉にも真帆は何の反応も示さなかった。
「あず、さ」
「えっ?」
消え入るような囁きは、すぐには届いてこなかった。
「何」
「梓沙が来た」
真帆は確かにそう言った。アズサとは誰だ。誰か真帆の知り合いが訪ねてきたとでもいうのだろうか。
否、そんな筈はない。どう答えていいものか、逡巡していると改めて真帆が言う。
「梓沙…… ううん、瑞穂が来た」
と。
「ミズホ?」
管理人に今日も来ていたと聞いた。あの、瑞穂か。
まさか、という思いが過る。真帆が何故瑞穂を知ってるんだ。
何より、瑞穂をアズサと呼ぶのは何故だ。どうして真帆の言葉には躊躇いがない。
どうして……
「俺をからかってる?」
心の声が思わず口をついて出た。
「違う!」
そこで初めて真帆は感情の籠った言葉を吐いた。
「違う。私は知らなかった。二人がつき合っていたことも別れたことも、梓沙がストーカーみたいなことをしているのも、何も知らなかった……」
真帆の叫びは心の発露だったろう。言葉は途切れることなく続き、そして確信的なことを口にする。
「私たちが兄妹だということも」
キョウダイ……
真帆は確かにそう言った。それは何を意味するんだ。
「瑞穂が姉だというのか」
「そうじゃない。私たちが姉妹だというのは知ってる。キョウダイとは水帆が兄で私たちが妹だということよ」
告げられた言葉は、世界を止めた――。
To be continued. 著作:紫 草
HP【孤悲物語り】内 『溺れゆく』表紙