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瑠璃が再び巻物を手に帰宅したのは、深夜になってからだった。
「これ」
そう言って、巻物を差し出す。
「ごめん。親父に何か言われた?」
すると、小さく頷いた。
「大丈夫。俺は蔵に取り込まれたりしない。ずっと瑠璃のそばに居る」
「ほんと!?」
不安げな瞳は少しだけ潤んでいて、でも決して涙をこぼすことはなかった。
「母ちゃん、何か言ってた」
「うん。自分で蔵を出ることを決めたから、この巻物はもう要らないんだって。伯父さんが、この巻物を蔵に返して開かずの間にするって」
そっか、と俺は巻物を抱き締めた。
「瑠璃。俺、声聞いた。あれ蔵に居つく、魔物だったのかも」
「魔物!?」
そう、魔物だ。
「母ちゃんが蔵を出なかったのは、蔵のせいじゃない。きっと親父が来るのを待ってた。そう思ってる方が気持ちが優しくなるから、ふたりの恋愛を静かに見ていたい」
きっと、あの魔物も親父になら譲ってもいいと思ってくれたんじゃないかな。
そんな風に言ってしまうと、瑠璃も諦めたように頷いた。
「二度と蔵には入らないで」
ただ今度ばかりは、指切りつきで約束させられた。
やがて日常が戻ってきた。
親父は、瑠璃に話した通り、巻物を金庫に入れて蔵を封印した。
蔵そのものを燃やそうという話も出たけど、それはお袋が嫌がった。せめて自分が死んでからにしてくれと言うお袋に、親父が従った。
あれから数年。
俺は、相変わらず自分の事業をやり繰りしながら形式ばかりのマネージャーを続けている。
滅多に家から出ないマネージャーでもいいのだと、瑠璃が言うから。それに自分のことは殆んど自分でやっているらしい。経費節減だと言って事務所の社長を苦笑いさせているものの、それで済んでしまうなら確かにもう一人の現場用のマネージャーは要らないだろう。
「テレビ、見ていい?」
わざわざ、断わる必要などないのに。否、いつもなら、そんなこと言うことなく勝手に見てるのに、何かあるんだろうかと思った。
「もしかして、出る」
ちょっとね、と瑠璃が背中を向けたまま答えた。
暫くすると、ドラマの中で男女の別れ話が始まった。
あ。
女に別れを告げた男が振り返ると、瑠璃が立っていた。
鎖骨のくっきりと出てしまう襟の開いた服。そこには誰が見ても分かってしまう、赤い痕…
「何考えてんの」
ファンデーションでも白粉でも隠せるだろうに。
「この女の人から男を奪った役なの。でも彼女のなかには、怖くて立っていられない気持ちがある。もしかしたら男は土壇場で元カノの許に戻っていくんじゃないか、ってそんな恐怖と闘うためにあの痕を残したって設定なの。監督が見つけて、ちょうどいいからってそのまま使った。監督を除けば、メイクさんだけが本物って知ってる」
そう言って瑠璃は笑った。
テレビを消す、まだ半分が終わったところだったけれど。
リモコンを置いた手を、そのまま瑠璃に伸ばし頤を捉える。
「この後、どんなシーン」
「奪った男が、別れた女に見せつけるように私を抱き締めてキスするの」
そのキスシーンでエンドだと、瑠璃は言う。
「じゃ。今のこの唇に最后に触れたのは、誰」
頤を捉えていた指を、唇に移し親指を添える。
「あの痕の夜から、ご無沙汰だからね。この俳優さんが最后」
そう言うと瑠璃が腕を廻してきた。
連続ドラマは撮影からOAまで間がないからか。
「今度からキスシーンがあったら教えて。その日のうちに上書きしてやるから」
私はゲームか、と笑った瑠璃が、ふざけないで近づく俺の頬に触れる。
綺麗に彩られたマニキュアが似合っていて、その指が今度は俺の唇を辿ってゆく。
息がかかるほどに近づいた唇は、互いの指を挟んで暫く触れないままでいた。
「キスして。瑠璃から」
指を外し、ゆっくりと触れ合った場所が熱くなるのを感じながら、俺は瑠璃を抱き締めた。そして…、囁く。
「誰も知らない、ふたりだけのキスをしよう」
と――。
Act 3 fin.
【了】
著作:紫草
瑠璃が再び巻物を手に帰宅したのは、深夜になってからだった。
「これ」
そう言って、巻物を差し出す。
「ごめん。親父に何か言われた?」
すると、小さく頷いた。
「大丈夫。俺は蔵に取り込まれたりしない。ずっと瑠璃のそばに居る」
「ほんと!?」
不安げな瞳は少しだけ潤んでいて、でも決して涙をこぼすことはなかった。
「母ちゃん、何か言ってた」
「うん。自分で蔵を出ることを決めたから、この巻物はもう要らないんだって。伯父さんが、この巻物を蔵に返して開かずの間にするって」
そっか、と俺は巻物を抱き締めた。
「瑠璃。俺、声聞いた。あれ蔵に居つく、魔物だったのかも」
「魔物!?」
そう、魔物だ。
「母ちゃんが蔵を出なかったのは、蔵のせいじゃない。きっと親父が来るのを待ってた。そう思ってる方が気持ちが優しくなるから、ふたりの恋愛を静かに見ていたい」
きっと、あの魔物も親父になら譲ってもいいと思ってくれたんじゃないかな。
そんな風に言ってしまうと、瑠璃も諦めたように頷いた。
「二度と蔵には入らないで」
ただ今度ばかりは、指切りつきで約束させられた。
やがて日常が戻ってきた。
親父は、瑠璃に話した通り、巻物を金庫に入れて蔵を封印した。
蔵そのものを燃やそうという話も出たけど、それはお袋が嫌がった。せめて自分が死んでからにしてくれと言うお袋に、親父が従った。
あれから数年。
俺は、相変わらず自分の事業をやり繰りしながら形式ばかりのマネージャーを続けている。
滅多に家から出ないマネージャーでもいいのだと、瑠璃が言うから。それに自分のことは殆んど自分でやっているらしい。経費節減だと言って事務所の社長を苦笑いさせているものの、それで済んでしまうなら確かにもう一人の現場用のマネージャーは要らないだろう。
「テレビ、見ていい?」
わざわざ、断わる必要などないのに。否、いつもなら、そんなこと言うことなく勝手に見てるのに、何かあるんだろうかと思った。
「もしかして、出る」
ちょっとね、と瑠璃が背中を向けたまま答えた。
暫くすると、ドラマの中で男女の別れ話が始まった。
あ。
女に別れを告げた男が振り返ると、瑠璃が立っていた。
鎖骨のくっきりと出てしまう襟の開いた服。そこには誰が見ても分かってしまう、赤い痕…
「何考えてんの」
ファンデーションでも白粉でも隠せるだろうに。
「この女の人から男を奪った役なの。でも彼女のなかには、怖くて立っていられない気持ちがある。もしかしたら男は土壇場で元カノの許に戻っていくんじゃないか、ってそんな恐怖と闘うためにあの痕を残したって設定なの。監督が見つけて、ちょうどいいからってそのまま使った。監督を除けば、メイクさんだけが本物って知ってる」
そう言って瑠璃は笑った。
テレビを消す、まだ半分が終わったところだったけれど。
リモコンを置いた手を、そのまま瑠璃に伸ばし頤を捉える。
「この後、どんなシーン」
「奪った男が、別れた女に見せつけるように私を抱き締めてキスするの」
そのキスシーンでエンドだと、瑠璃は言う。
「じゃ。今のこの唇に最后に触れたのは、誰」
頤を捉えていた指を、唇に移し親指を添える。
「あの痕の夜から、ご無沙汰だからね。この俳優さんが最后」
そう言うと瑠璃が腕を廻してきた。
連続ドラマは撮影からOAまで間がないからか。
「今度からキスシーンがあったら教えて。その日のうちに上書きしてやるから」
私はゲームか、と笑った瑠璃が、ふざけないで近づく俺の頬に触れる。
綺麗に彩られたマニキュアが似合っていて、その指が今度は俺の唇を辿ってゆく。
息がかかるほどに近づいた唇は、互いの指を挟んで暫く触れないままでいた。
「キスして。瑠璃から」
指を外し、ゆっくりと触れ合った場所が熱くなるのを感じながら、俺は瑠璃を抱き締めた。そして…、囁く。
「誰も知らない、ふたりだけのキスをしよう」
と――。
Act 3 fin.
【了】
著作:紫草