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何故、気付くことができなかったのだろう。
君が俺の許から、去ることを考えていたなんて。
いつしか、俺だけが君の理解者だという傲慢に、知らず知らず君を傷つけ続けていた。そんなことにも気づかずに、守っていると思い込んでいた。
五月病なんて時期も過ぎてゆく。
そして梅雨の季節がくる。
憂鬱な、じめっとした独特の気候。そんななかでも、きっと晴れやかに生きることはできる…
この世のどこかに貴女を必要としてくれる人がいる。
その人に出逢うために、生きて下さい。
愚かな俺ではできなかったことを、その未知に出逢う人と叶えて下さい。
さようなら。
大鹿紀一
―――*―――
こんな手紙を最期に遺し、あっけなく逝ってしまった人――
馬鹿みたい、心の病に負けてしまうなんて。
それなのに、葬儀に参列することも許されなかった私。
息子を奪った、と。
遺書と共に投げられた、痛い言葉の数々。
それでも、この手紙を届けてくれたことに感謝する。
私は貴方がいなければ、世の中全てが灰色に見えてしまうのに…
私の方から貴方の許を、去ることなんてあり得ないのに…
追う勇気もない、私を許して。
でも忘れない。この先どんな人生が、私を待ち受けていようとも――。
―――*―――
「こんな役目は、もう二度とごめんですからね」
そんな言葉と一緒に、頭をはたかれた。
『悪かったよ。でもストーカーされるよりはいいだろ』
大学卒業と同時に就職した大鹿紀一は、就職できず家事手伝いという名目で遊びほうけていた彼女に別れを告げた。
だいたい付き合っているというのも、周りが勝手に言い始めて、いつの間にかそうなっていたというだけで、今思えば、どうしてという気持ちもある。
こんな感じだから、もともと結婚も考えたことなんかなく、学生の気安さの中での彼女だった。それが就職して一月もすると、しきりに結婚を匂わすようになった。冗談じゃない。
しかし、どんなに冷たいことを言っても、彼女はめげなかった。
ほんの少し前、ストーカーのようなことをされた友が婚約を破断にされた。原因は、元カノが相手の家に乗り込んだからだった。こうなったら自分を抹殺するしかないぞ、と彼は怒りを酒にぶつけていた。
紀一は親に泣きついた。
昨今、女絡みの事件は多い。勿論、女側が被害者になることもあるだろうが、女が加害者の方が質が悪い。何せ男が訴えても、すぐには警察は相手にしてくれないからだ。
父は、一言分かったと言っただけだった。
散々、悪口を並べたところで、
「貴男、死になさい」
と言ったのは母だ。
言葉と顔色を失ったのは、紀一だけではない。父と、その場にいた祖母も同様だ。
『何、言ってるの』
誰も何も言ってくれないから、自分で聞いた。
「死んでしまえば、ストーカーなんてならないでしょ」
『俺、自殺するの。それともおふくろが俺を殺すの』
あまりのことに思考をなくした。何故か、普通に聞いてしまった。すると母は、遺書書いて投函すればいいでしょうと。
あ、そういうことか。凄く納得した。それ、いいかもしれない。
ところが、父が反論する。
「無理だろう。そんな女なら、お前が届けなさい」
今度は言われた母の方が、絶句していた。
結局、紀一は偽遺書を書き、心の病気ってことにして母がそれを突きつけた。
どうせ実家が何処にあるのかも知らないのだ。学生時代から住んでいる、今の住まいも引っ越そう。
紀一には平和な時間が戻ってくる。そう思っていた――。
―――*―――
(え? 今の、のり?)
高本紀薫は、かつて見慣れた後姿を仕事帰りに見つけた。
まさかね。だって彼は死んでしまったんだもの。おかあさんの届けてくれた遺書は、今もちゃんと残ってる。
あれから二年。紀薫は誰かとつきあおうとしても、無意識に紀一と比べてしまって上手くいくことはなく、ここ数ヶ月は男の話もしなかった。
(幻?)
夢のような話を、と自分自身を笑ってはみても、つい似ていると思ったその人の後を追ってしまった――。
―――*―――
「紀一に何をしたかった。振られたという事実を理解しなさい」
父の言葉は辛辣だった。
あれから三年。いつの間にか、紀一の居場所を突き止めた彼女は、完全に狂っていたのだろう。
偶然が紀一を救った。
普段、息子のマンションになど来ることのなかった父が、偶々会社の出張がマンションの近くだからと泊りにきていた。
気付いたら、マンション前で救急車を待っている状態だった。
(刺されたのか)
そんな簡単なことも分からないほど、意識を失っていたらしい。
父の言葉に漸く反応した。
仕事から帰って、そのまま父と一緒に食事に出る約束になっていたっけ。
「大丈夫だ。彼女は警察が連れていくだろう」
何かを伝えようと思ったが、上手く言葉が発せられない。
「何も言わなくていい」
その言葉と、額に当てられた掌の温もりに安堵し、再び暗闇に引き込まれていった――。
―――*―――
「人を騙すことは、やっちゃいけませんな」
病室で刑事から、そんな言葉を聞かされた。
確かにそうだ。どんなに大変でも、ちゃんと別れればよかったんだ。
ただ付きまとわれたことのないヤツに、説教をされたくはない。あの時は最善だと思ってしたことだ。
偶然は紀一を救ったが、逆にいえば偶然が彼女に紀一と遭遇する機会を与えた。就職先のなかった彼女が家賃に困り実家に戻り、その隣町に紀一が転勤で越してきた。
人と人は気まずくとも、ちゃんと話し合いで解決しなければならない。そんなことは分かっている。
しかし、その常識を持ちあわせていない奴とは、どうしても相容れない。
現在、紀薫はその類の病院にいるらしい。裁判はなかった。
彼女の両親が謝罪に来たことで、一応は解決した形になっている。父が、彼女の居場所を常に明らかにすることを条件に、それを確約した書類を向こうの親は残したから。
若いから遊んでいい、なんてことを軽はずみに考えるべきではなかった。それに関しては反省しているし、友達にも悪いことをした。
学生時代を共に過ごした仲間だ。事件を知って集まってくれた彼らが、頭を下げてくれたのだから、もう終わったことだと言える。本当に彼女の言葉を信じ切っていたのだと、異口同音に言っていた。
でも、いつまた彼女が現れるかと思うと、恐怖が常に身近にある。
この先、長い人生をこの恐怖を抱えながら過ごすのか。
そう思うと、狂ってしまった紀薫の気持ちが分からないでもない。本末転倒な話だが。
狂気と正気の境界は、果たして誰が判断を下すのか。
いつ狂い始めても誰も気づくことはない。すでに、俺は狂い始めている――。
【了】 著 作:紫 草