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明治三二年。
日清戦争と呼ばれることとなった勝利から、日本という国が少しずつ変わり始めた頃の、どこにでもいる恋し合う二人の物語である――。
東京の一角。華族としての爵位を守るため、養子をとった朝倉公爵家が在った。歴史のある家に嫡子に恵まれず、当時は当たり前ともされる養子縁組の話に、愚かにも身元確認を怠りそのまま流されるように悪用されてしまった朝倉家である。
その後、改めて姉小路侯爵家から養子として入り朝倉と名を替えた孝哉。自らの実家の養女花音を嫁に迎え、日々穏やかに暮らしている。二人の関係には過去か ら複雑なものがあるのだが、今、二人が静かに生きていてくれればいいと当主は孝哉に家督を譲るべく申請を出し家を出ていった。
朝倉孝哉、三一歳、花音二六歳。もう何年も花音の声を聞いてない孝哉である。
彼女は心を病んでいた…。
姉小路家から最初に朝倉家にやってきたのは、実は孝哉ではなく花音だった。まだ一三歳の彼女が嫁いだ当時、朝倉は件の養子をもらったばかりで姉小路家とのつながりを望んでしまった、と後に義父から聞かされた。
望んでもらった嫁である筈だった。蝶よ花よと大事にされたというならば、まだよかった。
しかし花音は、人形のようにただ置物にされたのだ。西洋の絵画に似せた庭のテラスで、何もすることなくただ時を過ごす。その結果、心がこの世になくなってしまったと医師から宣告された。医師によっては、精神異常と云った者もあったという。
今から思えば、もっと違う生き方が花音にはあったのだと分かる。
大人たちから隠れ育んだ恋心を、素直に表に出す環境になかった彼女は引き取ってもらった姉小路のために心を閉ざしたのだろう。
その恋の相手であった孝哉もまた、誰にもこのことを打ち明けなかった。親の決めた縁談が進めば、華族は大臣に許可をもらう。そうなってしまっては、もう逃げることはできないと花音なりに考えたのだろう。
そんな花音の秘めた恋が思いがけず話題に上ったのは、孝哉が戦地で彼女の父親だという人物を見つけたからだった。
花音への恋心を押し殺したのは、孝哉も同じである。逃げたと云われてもいいと、日清戦争に加わる軍人として大陸に渡ったのだ。運命の悪戯か、どうやら花音 の父親らしいと判明した男を連れ帰国した孝哉は、彼女が朝倉家で幸せに暮らしているものと信じていた。でなければ婚礼前夜、逃げようと誘惑したにもかかわ らず振られた自分の立場がない。しかし現実は違ったのだ。
母の言葉を借りれば、花音は孝哉に気持ちを残したまま、朝倉家で生きていた。何の希望もなく、生きているともいえない状態のなかで、ただ孝哉との思い出だけを胸に秘めそこに在った。
今となっては、もう本心を聞くことはできないかもしれない。それでも母が悪かったと頭を下げてくれた時に、母のためにも花音と話したいと思ったのだった。
発病したという花音と共に、行方の分からなくなってしまった朝倉公爵一家を捜しだしたのは、帰国後、あちらこちら情報を求めて全国を歩き回った孝哉だった。
そして心を失くしたとはいえ、無事に花音を取り戻し姉小路の父の許しを得て朝倉家に移ってきた。先に孝哉が養子として入り、花音を改めて嫁として迎える。 やがてその表情には微かながらも喜怒哀楽にも似たものが浮かぶようになっていった。視線は確実に孝哉を追い、彼を捜し捉えるように足を運ぶ。ただ言葉は四 年経った今も戻ってはいない…。
そんな二人は毎年決まって軽井沢の、とある湖畔を訪れる。
そこは行方不明だった花音を見つけ出した場所であり、再会した場所でもあった。
何か用があるわけではない。ただ湖畔を逍遥する。初夏というにはまだ肌寒い北の地で、その湖は明鏡止水を思わせる澄んだ水を湛えている。
孝哉の話す言葉に、花音は静かに耳を傾けているように見える。願望がそう見せているだけかもしれないが、それでもよかった。二人で歩くことに意味があるのだからと、今年も此処へやってきた…。
「花音。今年は、夏が早いのかも。湖畔の緑が濃いように見えるよ」
そう言って繋ぐ手をそのまま頭上に持ち上げ、自分の人差し指だけを挙げた。そして彼女の顔を見る。
すると――。
「あり、がとう。私… 嬉しい」
瞳から溢れた泪は、そのまま孝哉の心まで温かく沁みこんでゆくようだ。思わず花音を引き寄せ抱きしめた。
いつしか孝哉の瞳も濡れた。
今度は孝哉の方が言葉を忘れてしまったかのように、何度も頷くだけである。そして腕のなかに在る花音の体温を本当に愛おしく感じ、その存在を確かめるように強く抱き続けていた――
【了】 著 作:紫 草
孝哉と花音が登場するお話は、こちらにあります。
『人形遣い』その壱