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6月自作/『恋した』
梅雨の晴れ間の昼下がり。
カーテンを持ち上げ入りこんでくる風は、優しかった――。
小松香澄は今、一人の男性のことを考えている。
大学の先輩を訪ねてきた人。背はそんなに高くない。痩せていてイメージは理学部って思った。
でも先輩は、小説家だと紹介してくれた。
思わずペンネームは何かと訊ねた。聞かされた名前は、どこかで見たような気もするが本のタイトルは浮かばない。本として刊行されていないのだろうか、という思いが顔に出たのだろう。先輩が新書や文庫本が出ていると教えてくれた。
小説を書く人は大勢知っているけれど、プロの作家さんに会ったのは初めてだった。部屋の奥に折り畳み椅子を移動させて話し始めた二人を意識しながらPCに向かう。
教えてもらったタイトルを検索してみる。クリックすると表紙が現れた。
見覚えはなかった。運命はないらしい。
ちらりと視線を送る。すると目が合った。慌てて逸らすが、すぐに気になって見てしまった。今度は横顔だった。先輩と向かい合って楽しそうに話してる。
小さくため息。何をやっているんだか。
「香澄。この後、予定あるか」
先輩が聞いてきた。
「何もありません」
何だか、怒ったようになってしまった。見ると作家が笑ってる。
「じゃ、ご飯食べに行こう」
こうして憧れの匂坂辰哉先輩と、作家さん、そして香澄は近所の居酒屋へ行くことになったのだった――。
今思えば、楽しい食事会だった。
作家さんはそれほど無口でなく、かといって、おしゃべりすぎということもなく、三人で程よくお喋りして飲んで食べてお開きとなった。
話題は豊富な二人だった。どんなタイミングで何の話をしても、ちゃんと受け止めてくれる。こんな気持ちのいい飲み会はない。二次会に流れることもない。時間丸ごと楽しい会だった。
「何を笑ってるんだ?」
研究室でPCに向かっていると、入ってきた先輩にそう声をかけられた。
「作家さんのことを思い出して」
何も考えず、そのまま素直に答える。
「それは妬ける」
「…… …!」
奥の自分の机に向かう背中を睨んだ。
「先輩。そういう間違った言葉の使い方、止めて下さい」
この人はこんな人。結構かっこいいのに、先輩や後輩や同級生の女の子が誤解をするのを何人も見ている。
いい加減な人ではない。でも、ここぞって時の言葉が恋人にかけるようなものになってしまってる。事情を話すと苦笑いをされ、いつか刺されるんじゃないかと思う時もある。ただ憎めない。たとえ結婚を約束した人がいると教えても、みんな先輩と楽しく話して去ってゆく。
「香澄が言うと、また日本語間違ってるかって思うけれど、もう一年も経てば覚えたよ」
「それじゃ、もっと駄目じゃないですか」
先輩は帰国子女だ。会話にも読み書きにも全然困っていない。ただ、ほんの少しニュアンスが違ってる。
「三年振りに現れた友だちに、気になってる子の関心をごそっともっていかれたらヤキモチも焼くさ」
あれ、本当だ。
使い方、合ってる。
って、そこじゃない!
「先輩、何言ってるんですか」
「香澄を口説いてる」
憧れの先輩だった。
歯磨き粉が口の端についてても、髪がぴんぴんはねてても、シャツを前後ろ反対に着ていても、憧れは変わらなかった。
「先輩は、いつから、私を他の人と区別して見ていたんですか」
「いつって、隣に住んでた頃から、かな」
「え」
「えっ、じゃないだろ。十歳までお隣さんだったのに忘れたのか」
香澄は大きく首を横に振る。
「先輩こそ忘れてると思ってた。アメリカに婚約者がいるって聞いたし」
すると今度は先輩の方が、目が点になっている。
「婚約者って誰」
「私が知る筈ないでしょう」
香澄がまだ小学二年で、男の子を好きになることもよく分からない頃に、いきなり引っ越していっちゃったんだから。
でも、それだけなら憧れなんて抱かない。
先輩は……
「あんな手紙を送ってきたきり、何の音沙汰もなかったじゃないですか!」
先輩は悪いと言うと、こちらに戻ってきた。
「俺、誰とも婚約なんてしてないよ。だいたいアメリカじゃ日本に好きな子がいるって言ってたし」
彼は近づいてきて、頭の上に手を置いた。
手紙、書いてたよと彼は言う。ただ、小学校を卒業する頃には英語での言語がメインになっていた。日本語でなければ読めないなんてことは、最近になっておばさんから聞いたんだと。
「母と何処で遇ったんですか」
「大学にいらしたよ。お財布を忘れていったけれど、携帯が繋がらないと言って」
……あの日か。
じゃ、あのGW明けの日から何もかもご存知で?
「香澄のお母さんがさ。時々、ビデオレター送ってくれてたんだよ。そこにいる香澄が本当に可愛かった。だから日本に戻ってきたんだ」
すぐに香澄の母親だと分かったので声をかけ、そのままお昼ご飯を食べに学食へ行き、そして香澄を待ってたけれどその日は現れなかったという。
当たり前よね。お財布忘れたんだから、あの日はお昼抜きだったわよ。
「アドレスとか交換して、何かあると報告してたよ」
思わず先輩のお腹に頭突きをしてしまった。
王子様のお話を読むのではなく母は自分で作って遊ばせ、香澄もそのオリジナルを喜ぶような子どもだった。そのお話の中に、あることないこと吹き込んで、香澄が隣のたっちゃんを忘れないようにした。
「ないことは言ってないだろ」
思わずジロリと睨んでおく。
「婚約してるって聞いて、私は人魚姫になろうと思って、いつか結婚式に呼んで下さいって言えるようになるまで頑張ろうと思って――」
知らないうちに涙が出てきた。
「人魚姫って何」
「王子様のお話は、どれもがハッピーエンドではないんです」
「つまりアンハッピーエンドになるって思ってた?」
そりゃそうか。婚約者の話って何だろうなと先輩も不思議がっている。
噂はどんな形でも現れる。昔とは違う。拡散は着火剤にはうってつけだ。そして当事者は概ね何も知らないと相場は決まっている。
小学生のうちは仲良しのお兄ちゃんだった。中学に上がる頃、写真が送られてきた。お兄ちゃんは、かっこいいお兄さんになっていた。高校になった頃、大学は帰国するらしいと母から聞いた。母たちはずっと連絡を取り合っているから。
そして猛勉強して同じ大学に進学した。今、思うと母の口車に乗せられたのかな。
でも、恋をした。写真の中のたっちゃんに。再会したたっちゃんに。ただ、その恋心を気付かれてはいけないと思ってた。
この日から香澄と辰哉は恋人同士となった。それから二ヶ月後、作家さんが再びやってきて、また三人で飲みに行った。
今度、本が出版される時はサイン本を贈ってくれると言う。
「楽しみにしています」
大喜びでこう言うと、ちゃんと読んでねと言われてしまった。
「当然です。感想文をお送りしますか」
そう言ったら、是非と返された。
「原稿用紙二枚くらいなら余裕です」
ブイサイン付きで応えると、少ね~ と二人に笑われた――。
届けられた本は、それまでと違ってサスペンスの中にも純愛が在った。
遠距離恋愛の自覚なく恋愛する二人には、静かに見守っている人がいた。その人を知ることなく二人は結ばれるものの、知らない所でその人は死んでいった。
謎解きもない。犯人当てもない。一人の死と、二人の華燭で幕は閉じた――。
【了】 著 作:紫 草