カテゴリー;Novel
このお話は「大人の都合」の続編です。
父親は、居なかった。
血の繋がる、という意味だ。
しかし育ての父は居る。ただ何処かに本当の父親が在るのも真実だ――。
家庭の哀しい崩壊は、神崎穂花高校三年の秋だった。あの年のハロウィンはニュースになる程華やかだった筈だが、自分には辛いだけのイベントになった。
母が出て行った翌日から、穂花は本当に忙しくなった。
食事を作ること、洗濯をすること、掃除をすること、それだけならできる。
父方の祖父母がやって来たのだ。始めは、三人が不憫だから手伝いに来たと言ったのに、手伝うどころか何もせず部屋にこもってしまった二人だった。そこで祖父の様子がおかしいことに、父が気づいた。
穂花や弟の俊介には分からなかった。
自分はともかく彼は早く帰ってもらおうよ、と父に話していたくらいで、気遣うという感情はなかったから。
きっかけは、祖母の不自然な態度だったらしい。手伝うと言って来てるのに、全てを穂花に任せたままで何をしているんだと父が責めた。すると祖母は祖父から目を離せないから帰ると言い出したのだ。
しかし祖父はうんとは言わない。母親を無くした子供たちが不憫だという祖父は普通に見えるが、暫くすると同じ言葉を繰り返した。
それまでも変だと感じたことはあったように思う。祖父母がずっと年上の人たちだということはわかっていたし、世の中のニュースで認知症を取り上げることが増えていると知っていても、それが祖父母に繋がる内容だとは思わなかった。
父が祖父を病院に連れて行った。
治ることのない病は、穂花から普通の高校生という生活を奪った。もう認めるしかなかった――。
あれから十二年が過ぎた。
今も祖父母の介護と家のことをやりながら、近所の工場の事務員として働いている。結婚はしていない。するつもりもない。弟も就職した。
介護は大変でも最近は認知症の家族を家で看る場合も多いので、色々なサービスが受けられるようになった。
父も穂花のしていることを認めてくれているから、少しくらい寝不足になっても作った料理を誰も全く食べてくれなくても、頑張れた。
父と弟の心遣いに支えてられてきた十二年間、十二支一回りの時の流れだ。血の繋がりの有無を考える余裕など穂花の日常には、これっぽっちもなかった。
それが、たった一本の電話で激動する。
出ていったまま、何の連絡も寄越さなかった母親からのものだった――。
『一緒に暮らしましょう』
突然の電話は、そんな無責任な一言から始まった。
この身勝手な母親がまた戻ってきたくて連絡してきたのかと思った。怒りと落胆と呆れ。様々な感情が瞬時に自身の裡に沸き起こり、そしてすり抜けた。
何も言わずに切った。
それから彼女は毎日、何故か穂花がいる時間に電話をかけてくるようになった。
誰にも話さなかった。しかし毎日の電話のコールに祖母が気づいた。たぶん父に話したのだろう。
ある日。
夕食の席で父から尋ねられた。
お母さん、とは言えなかった。
「あの人から電話があるだけ」
穂花の気持ちを悟ったのだろう。父もお母さんとは呼ばず、名前を告げた。黙って首肯する。
何の用だよ、と弟は言い放った。
「一緒に暮らしたいって始まって、最近はご飯を食べに行かないかって言ってるかな。いつも何も言わずに切るから会話にはならない」
父が向こうに連絡してみるという。電話は留守設定にして出なくてもいいということになった。祖父が時々ショートステイをするホームに入る時も、父の携帯に連絡してもらうようにする。電話はコール音が鳴らないように設定した。
暫くは何事もなく穏やかな日々が戻ったと思っていた。
次は職場の前で待ち伏せされ、強引にファミレスに連れて行かれた――。
そこには知らない男の人が待っていた。
今の男か。そのくらいの気持ちしかなかった。痩せ型の、少し白髪混じりの中年の人。
無理やり座らされ、好きなものを頼めと言う。穂花は帰って食事を作るから必要ないと断ると、勝手にグラタンを注文された。
相変わらず勝手な人だ。
祖母が心配するから帰ると言ったら、折り入って話があるという。
「誰があなたの話を聞くと思いますか。ふざけないで下さい」
席を立った。
向かいに座るあの人が穂花に手を伸ばそうした時、隣の男が止めた。
「悪かったね。今日はありがとう。気をつけて帰って下さい」
男の言葉に穂花は少しだけ頭を下げ、従う形になった。
後ろであの人が、どうして止めないのかと責めている声がする。
「私には関係ない」
振り返らないまま扉を開けた。今度こそ終わると思った。
しかし、そんな簡単な話じゃなかった――。
「穂花。少し話してもいいか」
珍しく家族の揃っている日曜の昼下がりだった。ノックした父の声が強張っているように感じ顔を出す。
「何」
「ちょっとリビングに来て欲しい」
父の表情から予感がした。この話は聞かない方がいい。でも行かない理由がない。
「わかった」
返事をしたものの、リビングに向かったのは、たっぷり三十分が経った後だった――。
「人助けの話をしたいと思う」
リビングには、父と弟と祖母がいた。そして父の話は道徳の授業のように始まった。
「人助け?」
俊介が怪訝そうな顔をする。
「俊介の仕事はまさに人助けだ。そうだろう」
確かにそうだ。彼は医師になった。
「お父さん。回りくどいのは嫌い。誰を助けるの」
穂花の言葉に父が頷く。
「穂花の本当のお父さんだ」
刹那。
部屋中の空気が凍りついた――。
「お母さんからの連絡が私の所にも来たよ」
父は極力、感情というものを忘れたように話した。
俊介は色々確認するように話を遮っていたが、次第に言葉を挟まなくなった。祖母は最初から傍観している。もしかしたら理解できていないのかもしれない。
そして穂花はというと、もう何を言っても決まってしまっているのだろうと諦めにも似た感情だけがざわざわと波打っていた。
父にとっては、穂花の父親というだけでなく、自らを裏切った友という間柄ではなかったのか。その人を助ける。
この人は、一体どれだけ心が広いのだろう。
思わずため息をついてしまった。
仕方がないなあ。
「私は何をすればいいの」
「まずは血液検査だ。骨髄移植には細かい型があって適合しなければ移植はできない」
父に代わって俊介が教えてくれた。
「分かった。仕事を休みたくないんだけど土日でもできるの」
「俺が頼んでやらせてもらうよ」
俊介、まだペーペーのお医者さんなのに何か頼もしいね。
穂花は、よろしくと残し部屋に戻った。
ベッドにうつ伏せに倒れこむと涙が溢れてくるのが分かった。
誰の為に泣いているのだろう。
本当の父親が病人だと聞いたからか。
父が、母の頼みを聞いたからか。
骨髄移植の必要な病気とは何かを知らされないまま、検査を受けることを頼まれたからか。
暫く泣いて起き上がる。
違う。
全部、違う。
穂花は、自分の為に泣いたんだと思うことにした。
産んだ、という事実はどこまでも穂花を追い詰める。
自分勝手な母親。ただ、あの人が出て行ったあと、一緒にいたのは自分の父親だったのかと思うとまた別の感情が湧いてきた。
どうして、その男と結婚しなかったのか。何故、穂花が産まれたのか。
答えは出ない。
分かるのは、人助けをするということだけだ。
二ヶ月後。
あの日、ファミレスで会った彼に病室で頭を下げられた。
こんなことをしなくていいと、断ってくれと。
その姿を見て、覚悟を決めた。骨髄バンクに登録していたと思います、そう言った。
「バンクに登録していた人と型が合うなんて、魔法みたいなものじゃないですか。ラッキーでしたね」
そして笑えた。彼は笑わなかったけれど少し困った顔をした。
その時、自分の顔はこの人に一番似ていたのだと初めて気づいた――。
【了】 著 作:紫 草
ニコッとタウン内サークル「自作小説倶楽部」2018年11月小題:魔法
続編「大人の決断」完結篇