そろそろ死が近づいてきたためか、死に関するものについて書くことが多くなってきたように思う。
三橋被告が無罪にならなくてほっとしている。
というのは、三橋被告の夫が暴力を振るっていたかどうかは分からず、仮に暴力を振るっていたとしても、殺してばらばらにするほどの暴力だったかどうかは誰にも分からない。
そこで、殺された夫の両親にしてみれば殺され損となってしまうのである。
鑑定医は、「被告は朦朧とした状態で幻覚や幻聴が起きていた」としているが、被告の友人によると、被告は心神喪失とは感じられなかったらしい。
殺した後、ばらばらにしたり、隠蔽工作をしたりしているものを、どうして心神喪失で無罪にすることが出来ようか。
そこでさかのぼって考えると、精神病などで、自分をコントロールできない人を罰することが出来ないというところから問題にする必要があるように思えてくる。
結果責任というか、犯人のそのときの状況がどうあれ、殺人を犯したものに対しては、それ相応の罰を与えるのが妥当ではないだろうか。
鑑定も裁判も人がすることであり、間違いがないともいえないのだから、客観的に分かりやすい基準で裁くべきではないだろうか。
そうすると、心神喪失者が不利になるという人が居るかもしれないが、そのような人に対しては罪を犯さないように何らかの方策を講ずることが出来ないだろうか。
三橋被告が無罪にならなくてほっとしている。
というのは、三橋被告の夫が暴力を振るっていたかどうかは分からず、仮に暴力を振るっていたとしても、殺してばらばらにするほどの暴力だったかどうかは誰にも分からない。
そこで、殺された夫の両親にしてみれば殺され損となってしまうのである。
鑑定医は、「被告は朦朧とした状態で幻覚や幻聴が起きていた」としているが、被告の友人によると、被告は心神喪失とは感じられなかったらしい。
殺した後、ばらばらにしたり、隠蔽工作をしたりしているものを、どうして心神喪失で無罪にすることが出来ようか。
そこでさかのぼって考えると、精神病などで、自分をコントロールできない人を罰することが出来ないというところから問題にする必要があるように思えてくる。
結果責任というか、犯人のそのときの状況がどうあれ、殺人を犯したものに対しては、それ相応の罰を与えるのが妥当ではないだろうか。
鑑定も裁判も人がすることであり、間違いがないともいえないのだから、客観的に分かりやすい基準で裁くべきではないだろうか。
そうすると、心神喪失者が不利になるという人が居るかもしれないが、そのような人に対しては罪を犯さないように何らかの方策を講ずることが出来ないだろうか。