YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

イランとパキスタンの国境の様子~ シルク・ロードの旅その2(パキスタン・バスの旅)

2022-01-19 09:37:05 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・昭和44年1月23日(木)晴れ(イランとパキスタンの国境の様子)
*参考=パキスタンの1ルピーは約76円(1パイサは約76銭)。
  
 かなり南下して来たので、今朝は寒くなかった。我々5人はザーヘダーンから国境までのマイクロバス(料金イランのお金で80リアル、10人乗り)に乗り込んだ。それから直にある場所から日本人旅人(仮称「竹谷さん」と言う学生。以下敬称省略)が乗り込んで来た。我々仲間は6人となり、共に旅をする事になった。
 国境まで約80キロから90キロ先であるのに、街外れに出入国管理事務所(事務所と言っても小屋であった)があった。我々はイランを出なくても、出国手続きを済ませた。事務所まで舗装されていたが、此処から先は未舗装の砂漠の道で、バスはひたすら走った。そしてイランの国境に着いたのか、我々は2階建て鉄筋コンクリートの建物前で降ろされ、バスは来た方向へ戻って行ってしまった。
 建設して間もないと思われるその2階建て建物は、何も無い、何も見当たらない砂漠の中にドカーンと建っていた。その玄関前に『Health Of Center』と書いてあった。こんな砂漠の中に如何してこんな立派な建物があるのか、誰の為にあるのか、判断しかねた。私は中を覗いたが、誰も居なかった。玄関ドアは鍵が掛かっていた。それにも拘らず建物近くにある国旗掲揚台のその掲揚柱に、イランの国旗が高々とはためいていた。私はイランの国旗を下ろし、テヘランのアミルカビルホテルで大西さんから貰った日本の国旗を掲揚しようと一瞬思った。しかしそんな事をして、もしイランの役人に見つかれば、下手をすれば問題若しくは犯罪になるのではと直ぐ思い直し、日本国旗を揚げるのを止めた。如何してそんな馬鹿な事を思ったのかと言いますと、茫洋たる砂漠の中に日本国旗がはためいている、その情景が見たかったのであった。
  所で、この先のバスの便、宿泊施設、パキスタンへの入国方法は、全く分らなかった。砂漠の中に我々は、取り残されてしまった。
「誰も居ない、何にも無いこんな所に我々は降ろされてしまった。パキスタンへどうやって行くのだ。」誰かが困惑な声を放った。しかし誰も分らなかった。我々はこの建物前で野宿する覚悟を決めていた。6人もいるが、何だか心細さが漂って来た。ザーヘダーンで誰かが、「バスは明日出る」と言っていたが、あえて個人のマイクロバスをチャターして来てしまった。
我々はどうしようかと暗中模索の状況で、建物の周りをウロウロしていた。それから間もなく、「遠くに家らしき物が見えるぞ。」とロンが叫んだ。どれどれと言って皆、ロンが指差す方を見た。確かに家らしき影が数軒、見える様な感じがした。「おー」と我々は喜び、そしてそこまで歩き難い砂漠の中を歩いて行った。茫洋たる砂漠の中、まるっきり距離感(2km程か、歩いて40分位?)が分らなかった。
  8~9軒程の貧弱な民家があった。民家と言ってもそれは、1人か2人用の犬小屋の様な小さな家であった。家への出入りは腰・頭を屈まねばならないし、小さいので家の中は歩く事も、立つ事も出来ない、そんな感じの家であった。そんな訳で家が小さすぎて、遠距離でなかったにもかかわらず、あの建物から此方の民家の存在が分からなかったのだ。
家の中を覗きこんだら、横になれる程のスペースに、湯沸し用の鍋だけであった。とにかく『物』が無かった。我々と砂漠の民との生活必需品が違うのだ。彼等は砂嵐を避け、横になるスペース、そして水とナンがあれば生きて行ける、そんな感じであった。私にはここで暮らすどころか、3日居る事も出来ないであろう、と思った。でも水の供給はどうしているのであろうか。カナート(地下水脈)から水を確保する井戸やポンプが周辺にある様には見うけられなかった。そして、ここは見渡す限りの砂漠で草木も生えていなかった。彼等は燃料の確保をどうしているのであろうか。こんな所であってもブラックマーケット(闇の両替屋)、或は粗末な、そしてほんの僅かな食料品を売っているも食料店(犬小屋の様な小さい狭い店で、しかも品数が極端に少なく、賞味期限切れの物ばかり)や、チャイやナンを旅人に売っている店もあった。
我々はそのブラックマーケットで両替し、お昼が過ぎて腹が減っていた私は、その貧弱・粗末な小さな極端に狭い店でジュースの缶詰1個2ルピーとビスケット1袋1ルピーで買った。ジュースの缶詰は錆びていて大丈夫か心配であったが、飲んでしまった。叉ビスケットもいつ製造されたか、賞味期限も分らない様な古い感じがしたが、食べてしまった。後に分ったのであるが、ここのジュースやビスケットの値段は、2倍以上も高かった。
 小さな小屋の前で男が座り、チャイ用に湯を沸かし、ナンをその灰の中に入れて焼いていた。その男の手は何ヶ月も手を洗っていない様で、垢と汚れで真っ黒、その手で灰の中から取り出したナンを両手で、パンパンと叩いて灰を落とし、我々に出してくれた。チャイも注文したが、その男はその手で、ゴミが浮き、ヒビがはいった非衛生的なカップでチャイを出してくれた。そのチャイは、紅茶の味が全くしない、ただの砂糖湯であった。しかもこれが1ルピー(70円)した。ここは全てに於いて物価が非常に高かった。大体に於いてパキスタンの経済、生活レベルから1ルピーは、500円位の価値があるのだ。嫌なら買わなければ良いのだが、飢えと喉の渇きで我々は我慢できなかった。
  旅人の情報やキブツの友・エンディも言っていたが、中近東(パキスタン含む)やインドはトイレにトイレットペーパーが無いのでこの地域を旅する時、ペーパーを用意した方が良いと言われていた。だから私はキブツからロール用トイレットペーパーを3個、持って来ていた。貴重な水で手を洗う、そんな事に使う水は、ここには一滴も無かった。そしてこの地域に於いて紙は、非常に貴重であった。砂漠の生活はトイレットペーパーを含め紙が無い、水は非常に貴重であった。
それで彼等は『うんこ』をした後、何を使って拭くのか、手で拭くのだ。その手を砂漠の砂で擦り合わせ、くっ付いたうんこを落とし、パンパンと両手を叩いて砂を落とし、こうして手に付いたウンコを拭うのであった。彼等はそんな手でナンやチャイを出してくれたのだ。我々は『非衛生、汚過ぎる』と思うが、こんな事では砂漠の中で生活出来ないし、勿論我々も砂漠の旅は出来なかった。テヘランのアミルカビルホテルでさえ、トイレに紙が置いてなかった。何で尻を拭くのかと言うと、水と水差しがあり左手を使って洗うのだが、私は自分のトイレットペーパーを使用していた。 
 テヘランを出発して既に3日間、以来食事回数は1日2回、内容もまともな食事をしてなかった。そんな訳で食べられる時は、何か食べなければならなかった。寧ろ「食べる」と言うよりは、「何か腹の中へ入れねば・・・。」とそんな感じであった。我々は「汚い、不味い」と文句を言いつつ、ナンを砂糖湯で胃の中に流し込んだのであった。
 こんな所であっても我等旅人にとっては、オアシスなのだ。『オアシスは、砂漠の海原に浮かぶ島』なのだ。従って我々は、『バスと言う船』に乗って、島から島へと渡り行く、そんな旅をしているのであった。
ここは既にパキスタン領であった。我々はイラン領から歩いて来たが、境界線は全く無かった。両国とも査証又は通行許可書が必要であるが、この辺は往来が自由に出来た。何故ならば、パキスタンの出入国管理事務所はここから200キロ程先のNok Kundi(ノク・クンディ)であった。
我々は幸いにもここの彼等から「夕方、ノク・クンディ行きのバスがある」との情報を得た。我々皆は、『助かった』と言う思いであった。それまでの間、我々はあのセンターの建物に行って、その軒下に寝そべって身体を休めたり、又この部落に戻ったり、要するにイランとパキスタンの間を行ったり来たりしてバスの発車時間を待った。僅かな距離であるが、両国を自由に出入り出来る国境は、この地帯だけかも知れません。
 アミル・カビルのホテルで会ったある旅人(カナダ人)の話で、彼はトルコからイランに入国した際、トルコ出入国管理事務所にカメラの忘れ物をした事をイラン管理事務所で気が付いたので、係官に「取りに行きたい」と申し出したのだと。そうしたら係官が、「取りに行っても良いが、再度イランに入る場合は、査証を取り直して下さい。」と言われたそうだ。彼は「目と鼻の先の忘れ物を取りに、如何して行けないのか。」と憤慨したが結局、諦めたそうだ。「国境」とは、出入りが厳しい所なのだ。 
 夕方、中型バスは午後7時30分に発車した(イラン時刻は9時。イランとパキスタンは1時間30分の時差があった)。国境から国境の町ノク・クンディ間(距離は約200キロ?)のバス運賃は、10ルピー(760円)であった。乗客は我々6人、他に現地のパキスタン人10人程であった。このバスはオンボロ、座席は木製、窓は閉めても振動で直ぐ半開きになってしまった。それに道路は未舗装の為、砂塵を巻き上げ走るので、車内はその砂塵で真っ白、我々の体中も真っ白になり、しんどいバスの旅になった。
  午後11時を大分過ぎて、バスはノク・クンディに到着した。我々はバスから降りたが、闇夜で一寸先が見えないので、辺りの様子が全く分らなかった。我々はどちらに向かって行けばよいのか迷っていたら、誰かが懐中電灯を照らし、家のある方へ誘導してくれた。闇夜で、周りの様子は全く分らないが、食べ物を売っている屋台があった。
 屋台の男は商売の為に、バスから降りて来た旅人を待っていた様であった。お陰で我々はその屋台で食にあり付けた。その食事内容は、ナン2枚、それにひびや少し割れてある汚いティーカップにゴミが浮いたチャイで、味も全く無かった。普通なら到底喰えない、飲めない代物であったが、今日もろくな物しか食べておらず、空腹で且つ喉も渇いていたので、食べて飲んでしまった。純粋な水の補給は全く無く、この様に飲むチャイだけが、水分補給であった。
  我々が泊まる所を心配していたら屋台の男が、「前の建物がホテルで、無料だ。」と教えてくれた。我々はそこに行った。確かに建物の壁にペンキで、「Hotel」と英語で書いてあるのが、わずかな屋台の光で判明出来た。そのホテル(翌朝、分ったのであるが、この辺りの民家と同じであった)の中に入った。真っ暗で、中の様子は分らなかった。ただ分った事は、部屋もベッドも何の設備も無い、と言う事であった。我々は家の中の地面に、そのままの格好で横になった。寒くはなかった。  
今回の旅で後にも先にも、ともかく「ホテル」と書いてある宿に無料で、しかも直に地面にそのまま寝たのは、これ1回であった。


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