YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

スチュワーデスとの出逢い~テヘランの旅

2022-01-11 16:12:08 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・昭和44年(1969年)1月17日(金)晴れ(スチュワーデスとの出逢い)               
*参考=イランの1リアルは、4.8円(10ディナールは、48銭)
 
 住み良い国?イスラエルを去る日が来た。今朝、キブツ・フレンド・ホステルにキブツ仲間のアメリカ娘のジョアンがバートと共に尋ねて来た。再びキブツの仲間に逢えた事は嬉しかった。ジョアンとバートに再び出逢えた記念に、日本の絵葉書を2枚プレゼントした。
 ジョアン、バート、そして私の3人は、例のフランス風のレストランへお茶を飲みに行った。我々はお互いに何ヶ月も遠い故郷を離れ、旅愁を感じていたのか、余り語らなかった。否、何も語らずとも胸の内はお互い分っていた。我々はハッゼリム・キブツで共に農作業をしたり、楽しいパーティをしたり、相撲をとったり、ボクシングをしたり、そして楽しい食事したりして共に1ヶ月間過ごしたのだ。その様な楽しい日々を思い出すと、いざ現実に30分後、10分後に別れるとなると、何を話したら良いのか分らなかった。事実、旅はいつも別れの切なさ、寂しさが漂い、私は辛かった。我々は別々に別れ、そして新たな旅をする事になる。キブツでは寝る所も食べる事も、何ら心配が無かったが、これから再び旅が始まり、色々な事が待っている。
 そして11時頃、我々は別れた。「ヨシ、日本に着いたら手紙を書いて下さい。それでは元気で旅を続けて」と言ってジョアンは私にキッスをして来た。
「有り難う、ジョアン。必ず書きますから」と言ったが、一瞬シーラと別れた時の事を思い出した。ジョアンのお別れキッスも何故か切なかった。
 「バート、グッドラック」、私とバートは握手して別れた。そして彼はエイラト(アカバ湾の港町)へ旅発った。急に私の周りから皆、居なくなった感じがして、寂しさが込み上げて来た。しかしこれはジョアンのキッスの温もりを頬に感じながら、新たな旅の始まりであり、そして又、新たな人との出逢いでもあった。
 昼食を取りに行ったレストランで、「満州で生まれた」と言う、ある日本人女性と出逢った。彼女は日本に住んだ事がない所為か、日本語を殆んど忘れていて、我々は英語で話した。『人それぞれ色々な人生航路があるものだ』と思った。 
 リックをホステルに置いて来たので、一端ホステルへ戻った。その後、乗合バスでELAL(イスラエル・エアーライン)の送迎バス発着場へ行き、そこから有料で1ポンドとチョッのそのバスでテルアビブロッド空港へ向かった。
 Tehran(テヘラン)行きの航空券は、アテネでテルアビブ行きの航空券購入の時に合わせて購入したので、この日どうしてもイスラエルを去らねばならなかった。そしてイラン入国の為の査証は、既に昨年の11月6日にロンドンで取得済みであった。
 所で、私はイスラム諸国やインドの諸事情を余り知らなかった。努力しない限り、それらの国々の色々な事、社会情勢等ついて情報が伝わって来ない、情報が無いと言うのが日本の現実でした。その反面アメリカやヨーロッパの事は映画、テレビ、或は新聞等で自然と伝わって来ているので、それらの国についてはある程度のイメージが出来ていた。そう言う意味で、これから訪れようとするイスラム諸国は、未知の世界であった。従って最近、旅に慣れて来た私であったが、不安があった。こちらに来てから色々な国の旅人からの話を端的に要約すると、『イスラム諸国の旅は、決して楽しい旅ではなかった。寧ろ厳しい旅であった』と言う人が多かった。インド、パキスタン、アフガニスタン、中央アジア諸国、そして中近東諸国の私の漠然としたイメージは、アジアとヨーロッパを結ぶシルク・ロードであった。そして何が楽しくないのか、何が厳しいのか、それらを一つでも体験する事が今回の旅の基本的な考え方でもあった。従って『今度の旅は、厳しくなるであろう』と漠然と想像が出来たし、同時にある反面、不安と楽しみが交差している心境であった。
 午後4時、バスはロッド空港に到着した。空港待合室で日本人と思い話し掛けたら、中国人(華僑)であった。彼は中共(正当な中国は台湾の中華民国)へ行った事ないし、今は行けないと言っていた。彼は日本人に似ていたので間違えた。
 エールフランスの飛行機に搭乗。午後7時に離陸して、イスラエルを去った。乗客は定員の半分程であった。墜落の事を考えると飛行機はどうも怖かった。スチュワーデスの中に美人の日本人が1人搭乗していたので、何となく落ち着く事が出来た。彼女がお茶や夕食を配ってくれた時、こんな綺麗な女性と話をした事が無かったから、機内であったが二言三言、話が出来ただけで私は嬉しくなってしまった。彼女も余り乗客が居ない所為か、或はエ-ルフランス機だと日本人の乗客に会えたのが珍しいのか、いずれにしろ若者同士で話し易かったのであろう。
 午後9時頃に搭乗機は、テヘランのメヘラバード空港に到着した。2時間位の飛行時間であったが、彼女ともっと話したい気分の私であった。あえてタラップを降りる際、私は最後になり又、彼女に話し掛けた。少しの間であったが、会話は盛りあがった。私の旅の事も少し話して、降りようとしたら、「もっと貴方の旅の話しを聞きたかったわ」と彼女は言って、ちょっぴり残念な様子であった。
私が入国手続きの為に並んでいたら、今度は彼女の方から遣って来て、又話をした。もし彼女が私を嫌であったら、自分の方から遣って来ないと思った。彼女の名前は「Mさん」と言って、今夜と明日、彼女がテヘランで宿泊する事を聞き出した。そして「明日は休みで、暇です」と言う含みある言葉を残して、彼女は立ち去って行った。
 両替をしてから待合室を出た。同じ飛行機に乗っていた乗客はいつの間にか散り散りになり、見当たらなくなっていた。テヘラン市内へ行くバスの便が無かったので、仕方なくタクシーで行く事にした。午後9時30分を過ぎていたが、それにしても国際空港前は閑散としていて、寂しさがあった。キブツ仲間のエンディから、「テヘランへ行った時は、安くて比較的清潔なAmir Kabir Hotel(アミル・カビル・ホテル)が良い」と教えて貰ったので、そこへ行く事にした。タクシー運転手にホテル名と住所を見せたら、「OK」と言うので乗った。
 街路灯の光が黄色に放ち、良く整備された道路をタクシーは一路テヘランへ向かった。行き交う車は全く無かった。テヘランに近づくにしたがい、交差点に交通信号機があったが、運転手は何度も赤信号を無視して突っ走った。私が「停止信号だ。止まれ」と言っても、運転手は「ノープロブレム」とか言って、信号を無視した。まるで過っての東京の神風タクシーの様だが、交通量が無いので怖くなかった。  
  運転手はアミルカビルホテル前に、迷う事なく到着した。タクシー料金は100リアル(480円)で高いと思った。でもかなり長い距離を深夜、ここまで無事に運んでくれたのだ。料金とチップ代を入れて、スンナリと言われた額を運転手に渡した。『値引き交渉が面倒であった』と言うより、私は着いたばかりで、この国の物価、お金の価値が分らなかったのだ。後から調べたら、空港から市内中心地まで約10キロ程であろうから、タクシー料金は37リアル+アルファーで良かったのだ。ヤラレタ、悔しい!! 
 アミルカビルホテルは午後の11時頃であったが開いていた。遅いにも拘らずベッドの空きがあり、運良く泊まる事が出来た。宿泊料金は、食事なしの1泊50リアル(240円)であった。このホテルはアメリカやカナダで若者向けの旅の本に広く紹介されているので、この宿泊料金は信用出来ると思った。マスターに案内されて部屋に入った。ベッドが2つあり、その1つに南アフリカ人(白人)が既に寝ていた。私も遅いので着いた途端であったが、リックを下ろしベッドに潜った。横になってからもあのスチュワーデスのMさんの事が気になり、と言うか頭から離れず寝付かれなかった。



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