YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

イスラム教の話~テヘランの旅

2022-01-16 09:42:20 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・イスラム教の話                                                 
 所で、私はイスラムの国に来たと言うのに、恥ずかしながらイスラム教について殆んど知らなかった。それではいけないので、又この日記(イラン・パキスタンの旅)を纏める為にも、『イスラム教とはこんな感じ』と言うアバウトでも良いから知る必要があり、少し記述する事にした。 
 
 [イスラム教の人々を「ムスリム」と言う。ムスリムはイスラムの教えであるイスラムの戒律(へジャブ)の中で生活している。そのヘジャブの基本的な信条として、①唯一の神アッラー(アラー)とムハンマド(マホメット)のみを信じる事。これを『シャハーダ』と言う。但しイランのシーア派は異なり、イマーム(聖人)を信じている。②礼拝の義務(サラート)。③3月の断食の義務(サウム)。④メッカ巡礼の義務(ハッジ)。⑤喜び、快楽を捨てる義務(ザカート)、の5行があります。
 その他に守らなければならない教えとして、①豚肉を食べてはいけない。②死んだ獣の肉を食べてはいけない。③酒(アルコール類)を飲んではいけない、販売もしてはならない。④女性は男性の前で肌を露出してはいけない。⑤賭け事をしてはならない等があります。
 話を続けます。ムスリムのスンニー派は1日5回(日の出前、正午、3時頃、日没時、就寝前)の礼拝を行う、イランのシーア派は1日3回(日の出前、正午、日没時)の拝礼の義務がある。ムスリムは礼拝時にコーラン(イスラム教聖典)を唱える。コーランはあくまでもアラビア語で読まなくてはならないもので、世界のイスラム諸国で流れるコーランは言語が異なっても、全てアラビア語である。][ ]内は、蔵前仁一書の「ゴーゴーインド」を参考
 
 いずれにせよ晩酌を楽しむ日本人、或は水の替わりにワインやビールを飲んでいるヨーロッパ人にとって、戒律の厳しいイスラム諸国は誠に住み辛い国なのだ。又、男性の道楽、楽しみである『飲む・打つ・買う』(酒・賭博や賭け事・女)は御法度なので、イスラム諸国の男達は何を楽しみに生きているのであろうか。
 所で、イスラム教にはスンニー派とシーア派があり、イランの人々はシーア派に属している。両派の違いは何処から来るのか、如何違うのか、もう少し述べてみる。
 
 [シーア派の聖地は、Com(コム、テヘランの南方)とマシュハドにある。そのマシュハドにはイマーム・レザー廟の寺院があり、第8代聖人・レザーが安置されている。本来、イスラム教は唯一絶対の神であるアッラーしか認めていないはずであるが、シーア派の人々はイマーム(聖人)を慕い、信じ、イマームに願をかけている。世界に広まるイスラム教は、実はその大半がスンニー派である。シーア派は少数派なのだ。だが、イランでは国民の9割以上がこのシーア派教徒である。
 シーアとスンニーの基本的な違いは、預言者・ムハンマドがイスラム教を興した後、イスラム信仰共同体の指導権を誰が継承したと考えるかによる。スンニー派は指導権が〝カリフ〟(ムハンマドの後継者で回教国の王、回教国主)に継承されたと見るに対し、シーア派はムハンマドの血族に引継がれたと考える。そしてこの指導権を持った人達を〝イマーム〟(聖人又は指導者)と呼んでいます。 
 シーア派の中にも様々な派があるが、イランの主流は12イマーム派である。つまり、イマームが12代まで続いたと見るのだ。イマーム・レザーもこの12代続いたイマームの中の1人である。シーア派はこのイマームを深く崇拝しています。従ってスンニー派がムハンマドを絶対視し、カリフと云えども政治的な指導者に留まり、宗教上の権威とは成り得ないとの対照的である。 
そしてシーア派で特徴的なのは、イスラム教として良い事と、してはいけない事の判断(「イジュテハード」と言う)を、イスラム法学者が行う事が認められている事です。つまり、インジュテハードの権限を持ったイスラム法学者が信徒の信仰、生活のみならず、その社会や国の内外政策まで左右し得るのです。]
[ ]内はNHKアジア・ハイウェ・プロジェクト著者「アジア・ハイウェ③コーランが聞こえる道」を参考。

 イランはこの様に保守的、イスラム教世界の風土の中で、パーレビ国王の〝欧米化・近代化政策〟(白色革命)が1963年から断行されている。そして私の帰国後に『チャルド禁止令』も出されたのです。しかしその後、ホメイニ師の法学者等はイスラム革命を断行→パーレビ国王は海外へ脱出→白色革命破綻→保守的なイスラム化社会へ→宗教家が権力を掌握。
 私が訪れたこの時期は、少しずつ欧米化の波が浸透しつつ、街を歩いているとチャルドを身に付けない女性を何人か見掛けたが、それはまだほんの極少数派であった。地方では100%真っ黒なチャルドを纏っていた。
  余談であるが、チャルドは貧しい女性達にとって極めて便利な「隠れ蓑(みの)」と言えるのだ。又、夏の光線や風の激しい中近東での砂嵐には実際これを着ると、大変便利な物の様である。いずれにしても現在(1969年)のイランは、イスラムの伝統とイスラム教シーア派対パーレビ国王の白色革命の狭間で揺れている状態である、と言えるであろう。 


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