YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

海の様な大蜃気楼を見る~ シルクロードの旅その2(パキスタンバスの旅)

2022-01-23 13:43:07 | 「YOSHIの果てしない旅」 第9章 イラン・パキスタンの旅
・昭和44年1月25日(土)晴れ(海の様な大蜃気楼を見る)
 朝食は又々ナンとチャイであった。飽きた。テヘランを発ってからこればかりであった。何か食べ物がこの他に無いのか。砂漠の島には無かった。栄養が摂れない、腹も満たされない、充分な水分も摂れなかった。お陰で一昨日、昨日、そして今日と、オシッコもウンコも出なかった。それもその筈、水分、食料を余り取っていないから、出ないのも無理なかった。
 今日も天(空)と地(砂漠)だけの旅が始まった。砂漠には、ルート(砂)砂漠とカヴィール(塩)砂漠がある。この見渡す限りの茫洋たる砂漠は、砂砂漠の様であった。今日もこの砂漠と灰褐色の世界が相変わらず続いた。
 窓はきっちりと閉まらないオンボロ・マイクロバスの為、砂埃で車内も我々も既に真っ白、そして終に口の中までジャリジャリして来た。砂漠と道の区別がつかないそんな道で、ただ轍を頼りに砂塵を巻き上げながらバスはひたすら走った。砂嵐で轍が消え、砂漠と道の区別が出来なくなり、方向が分らなくなったらどうするのであろうか。大海原で羅針盤が故障したのと同じだ。しかし、運転手は砂漠生まれの砂漠育ちだ。彼等の感と経験で、道が判然としない場合でも、〝決まった道〟(ルート)の上を運転できるのだ。  
 所で、パキスタンに入ったらイランと比べて何よりも違うのは、まれにラクダが見られる様になった事だ。昨日、夕日を浴びて明暗をくっきりと浮かび上がらせている砂丘の彼方から、ラクダが揺ら揺らと首を振りながら出て来るのを見た。『あぁ、ここはシルクロード、砂漠を旅しているのだ』と、ひしひしと感じた。
 パキスタンに入ってから、行き交うトラックや自家用車は、全く無かった。このルートでの両国の物資の流通、人の往来は殆んど無い状態であった。ヨーロッパの様に素晴らしい道路で結ばれれば、お互いに経済的にも大きな発展、繁栄が見られるであろうに。であるが、イラン、パキスタンのみならずアジア諸国は、分岐点から国境までお互いに隣国に猜疑心を持っている為か、極めてどの道も悪い様であった。私はシルクロードの復活計画を望んでいるが、隣国諸国の疑心暗鬼、セクショナリズムや政治・軍事事情からこの計画は、前途多難で現実的に厳しい感じがした。
 バスは、尚も走り続けた。暫らくすると進行右側、遥か彼方に海が見えて来た。地図の上から言っても、このルートはアラビア海よりずっと内陸部にあるのだ。海が見える訳がなかった。
「ロン、あれはなんだ。海か。」と私。
「あれはミラージ(蜃気楼)だ。」とロン。
「海の様に見えるね。」と私。
「ヤー」とロン。
逃げ水なら何度も見たが、まるで海か大きな湖の様に見える『大蜃気楼』を初めて見た。これも砂漠を旅したお陰、又1つの体験が出来た。    
砂漠の中で水が欠乏した時、旅人達は本当にそこにオアシスが存在するかの様に見える、その蜃気楼に悩ませられた事であろう。 
 バスがクエッタに近づくにつれて、周辺の状態と言うのか光景は、砂漠から砂礫と岩肌の山々に変わって来た。
 車窓から外を眺めていると、ある地点で岩の上に白い髭の老人がポツンと座っていた。日差しにさらされてたった1人、杖を手に岩と化したあの老人は、この荒涼とした大砂漠の中で、いったい何を待っていたのであろうか。タバコをふかしながら、単調で何の変化も無い光景を見ている内に、いつしか私は形容しえない憂鬱な物思いに浸っていた。夢にまで描いたシルクロードの旅を5日間して来た。砂漠の旅をもっと喜ぶべき、もっと楽しむべきであるはずであったのに、私はそれが出来なかった。心の片隅を過ぎったこの陰りは、いったい何であったのだろう。私は砂漠の旅の疲れと、一抹の哀愁を感じた。 
 マイクロバスはBolan Pass(ボーラン峠と書いてあった道標を見た)を駆け下り、午後4時頃やっと、そして無事に大オアシスの町・クエッタに到着した。我々皆、安堵の思いで1ルピー(76円)の安ホテル(不潔、汚い感じがしたが、それでもベッドと毛布はあった)に泊まる事になった。イラン、パキスタンやこれから訪れるインドで、私が泊まったホテルはホテルと言っても自分専用の部屋でなく、大・中部屋に複数のベッドがあり、その1つを借りるスタイルであった。この「ドミトリー形式」が一番安く、貧乏な旅人にとって手頃な宿泊施設でした。
 夕方、我々は久し振りに食堂でしっかり食事を取った。クエッタは活気のある町でなかったが、やっと町らしい町に来たと言う感じであった。散策中、我々は印刷屋の前に来た。店の中を覗いていたら、そこの若者が「中に入ってチャイでも飲んで行きな」と声を掛けて来た。その店に入って彼等と雑談していたら、5~6人の若者達も集まって来た。話がイスラエルについての話題になった。彼等はイスラエルの事を余り良く知らないし又、疑心暗鬼を持っていた。「パキスタンはイスラムの国」と言う、ただそれだけで彼等はイスラエルを嫌がっていた。
 そう言えば今日、私がバス車内でタバコを吸っていたら、左側に座っていたおじさんが、タバコを吸いたそうにしていたので、彼に1本差し出した。彼は嬉しそうにそのタバコをシミジミと見て、タバコを後で吸うのか大事そうにしまい込んだ。少し経ってからそのおじさんが、「何処の国のタバコか」と聞いて来た。
「イスラエルのタバコです。」と私は答えた。
 彼は、「イスラエル?イスラエルはノーグッド。」と言って、そのタバコを私に返して来た。タバコを吸いたそうな顔をしていたから、1本だけど差し上げたのに、「イスラエル」の言葉を聞いただけで、彼は躊躇なく返してきたのであった。パキスタン人はイスラエルのタバコを吸うだけで、『イスラムの魂を失う事になる』と感じているのであろうか。彼等のイスラエル嫌いは相当なものの様で、その一端を私は垣間見た。
 所で、タバコを20箱ぐらいキブツから貰って来たが、仲間のロン、ジェーン、ミシェル、カトリーヌやテヘランで会った日本人旅人に1箱ずつ配ってしまい、残りは半分以下になっていた。



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