YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

アボリジニ(原住民)と相部屋になる~ダーウィンの旅

2022-03-11 09:33:07 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年3月8日(土)晴れ(アボリジニ(原住民)と相部屋になる)
 昨夜は一昨夜より蚊の来襲が酷く、あちこちと喰われ寝られなかった。2日連続、まともに寝ていないので参った。
 私の妹は1年前にサウス・オーストラリア州(S・A)の『Miss. Christine Nutt』と言う高校生と文通をしていて、彼女のお父さんは農業を営んでいるとの事でした。私は農場も大きく仕事があると自分勝手に思い、住所は分かっていたのでS・Aへヒッチで行こうと思い付いた。ダーウィン郊外に出て、車の来るのを待った。ここは亜熱帯地域、そしてS・Aへ行く道路は木々が生い茂り、密林(ジャングル)の中を一直線に密林の彼方へまで伸びていた。まさに無限の大地、と言った光景であった。
シーンと静まり返ったジャングルからライオンやヒョウが出現してもおかしくない、そんな自然界の中で私1人がポツンと居るのは、とても怖い感じがした。しかも30分経っても、1時間経っても車は一台も通らなかった。降り注ぐ太陽で暑く、蚊の来襲を受けながらの2日連続の寝不足の野宿で疲れ気味の体、そして昨日の朝から食事をしていないので腹が減って、私は完全にギブアップになってしまった。この様な状況下に於いて、しかもよく考えてみれば相手の了承無しで突然行くのは、余りにも失礼であると思い、『今日は行くのを止めよう』と言う事になって街へ引き返した。歩きながら、自分のやっている事は『何かオカシイ』と本当に思った。
 手提げカバンを持ち、リュックを背負って、土曜日で誰も歩いていない街の中をトボトボ歩いていたら、フランス人から英語で声を掛けられた(彼の発音で分かった)。事情を話すと、彼はあるゲスト・ハウスに私を案内してくれた。運良くベッドは空いていた。このゲスト・ハウスの家主の奥さんは、1階の一番手前の左部屋に案内してくれた。8畳程の部屋にベッドが2つあり、部屋を入って左のベッドを使用する事になった。
「マダム、部屋の壁板があちこち(3箇所)と割れているが、如何したのですか。」と私は彼女に尋ねた。
「隣のベッドは〝アボリジニ〟(オーストラリア原住民)が使っているのです。彼がこの前、酒に酔って暴れ壊してしまったのですよ。宿泊代を少し安くしておきますから。」とマダムは言って部屋から出て行った。それでも部屋代週10ドルとは高いと感じた。
『原住民と一緒の部屋かよ、参ったなぁ。大丈夫かなぁ、何か心配だぁ』と私の独り言。人種偏見は良くないが、それでも原住民と一緒の部屋になりたくなかった。しかし文句を言うと、又断られると思い我慢した。それに疲れていたので、少し眠りたかった。
一眠りした後、原住民が帰って来た。
「ハロー。私は日本人で名前はYoshiと言います。一緒の部屋に住む事になりましたから、宜しく。」
「私はアボリジニのアボ(仮称、本当の彼の名前は忘れた)と言います。」と彼。
「アボさんは先日、壁板を壊してしまったのだって。」と私。
「私は酔っ払うと、何をしたのか分らなくなってしまうのです。」と彼。
「アボさん、余り飲まない方が良いよ。」と私。
「イエス。私、これから余り飲みません。大丈夫、大丈夫。」と彼。
本当に大丈夫なのか、不安でならなかった。そして彼の顔を見ているだけで、怖い感じがした。彼の顔は、真っ黒、目の堀は深く、眼光は鋭く、鼻は低いが大きく、唇は分厚かった。こんな言い方は失礼であるが、まるでニューギニアの『人食い土人』の様に似ていた。彼がダーウィンで何の仕事をしているのか、歳は幾つなのか、私は何にも知らないし、聞く事もしなかった。それにしても先住民のアボリジニと同じ部屋とは、恐れ入った。しかし『これも経験かな』と思った。
 土・日曜日は、パブやストア含め全ての店が閉まり、食事が取れず腹が減り、そして二日間、蚊の攻撃に悩まされての野宿で寝不足、そしてオーストラリア滞在で一番苦しい時期であった。


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