ここんとこブログお休みしてました。
書く気になれなくて・・・。
仕事にお父さんに子供たちにお金・・・
いろいろあって心折れてました。
とうとう10年経ちました。
しょうたろうが産まれてから。
いろいろありました。
産まれたのは37週。
逆子だったので(しかも足が下)
帝王切開でした。
赤ちゃんの成長は
普通だったと思います。
1歳半検診ではわからず
妹いちかが産まれて
何かが変わった?
突然おかしくなったのかと
思った。
とにかくなぜかわからず
地獄だった。
昼間はずっとアンパンマンの
ビデオをエンドレスで見続け
ご飯はふりかけご飯くらい
しか食べない・・。
夜中は昼間寝続けていた
いちかが泣き続ける。
夜泣きというより
彼女は昼と夜が
逆転してて
夜起きてました。
私はほぼ24時間
起きていた気がします。
当然買い物以外は
あまり出かけた記憶が
ないです。
いちかをベビーカーに
乗せて散歩した記憶は
ほとんどないです。
唯一救われたのは
妹のしのちゃんも
いちかと同い年の
はるちゃんがいて
いつでもしのちゃんちに
行けたこと。
しょうたろうを
連れての外出は
苦痛でした。
それを奪還できたのは
しょうたろうが3歳になる前の
1月のことでした。
赤ちゃん訪問で来てくださった
保健センターの保健師さんのおかげ。
「すみません、あかちゃんは
元気ですから、お兄ちゃんを
見てください!」
母がその訪問の1ヶ月前
亡くなって心が空洞でしたし
遺言みたいに
「ことばの教室みたいな
ところに行ったら?」
「自閉症かもしれないよ」
と言っていたのを
そうではないといいのにな・・・
と思っていながら
でもやっぱりそうなのかな?と
悩む毎日でした。
実を言うと
そんなわけのわからない
しょうたろうといるのが
苦痛でほとんど育児放棄
してました。
だからこそ
その訪問は唯一
母の言う
「ことばの教室」への
入り口になるかも?と
半ば期待しました。
予想どおり
「お母さんが気になさら
ないんでしたら・・・」
と
ひまわり学園を
紹介していただきました。
3歳児。
普通なら保育園に入り
いろんなことを学ぶ年なのに
週3日、ひまわり学園に
通いました。
赤ちゃんいちかを連れての
ひまわりの指導は
つらいの一言でした。
私には
先生のご苦労にも
かかわらず
しょうたるうは
成果がとぼしかった
気がします。
私がひまわり学園に
行くのがいやだったのが
原因かもしれません。
4歳児、5歳児。
保育園のプレイルームに
入ることができました。
私も働かないと
生活もできませんでしたから
助かりました。
保育園の願書取りのこと。
希望の保育園に入りたくて
朝の5時から市役所の入り口に
並びました。
その年の1番に並ばれた方は
夜中の12時だったそうです。
数えて私は12番。
かろうじて入れそうでしたが
校区外。
後ろの人たちと話してて
みなさん行きたい保育園が
同じ・・・。
枠が補欠込みで二つ・・・。
私は思わす
その年初めて新設の保育園の
願書をもらいました。
希望ではなかったけど
今から考えると最良の選択だったと
思います。
私は保育園のそばの
老人ホームに入っている
給食会社で早朝から
働きました。
送りはお父さんに
お願いしました。
大変助かりました。
5歳になる前の
12月、双子を妊娠して
仕事をやめ
事故をして車がなかったので
電車でお迎えに行きました。
その保育園で
いろいろなことができるように
なりました。
オムツが取れたこと。
着替えられるようになったこと。
食べられるものがすこしふえたこと。
基本的生活は
できるようになったのは
働く私には助かりました。
しかし
小学校に入るとき
しょうたろうの障がいが
何なのか初めて知ることに
なりました。
情緒のクラスなんだと
思っていたら
先生に
「え?知的によろしくないですよ」
と言われました・・・。
びっくり!
そうなの?って感じでした。
ショックはないけど
お先真っ暗って思いました。
教育委員会からも
前の年まで特殊学級という
名前だったのが
この年から
「特別支援学級」と名を変え
「特別支援学級(知的)への
入級をお勧めします」
と手紙に書いてありました。
お父さんは大反対。
じいさんもおばあさんも
快く思っていません。
ここでも私はひとり。
大変でした。
なんとか説得を重ね
校区外の小学校に
入学できることに
なりました。
小学1,2年。
浅賀先生との出会いです。
小学校に入りたてのころは
先生にくっついて離れなくて
大変だったそうです。
字を書くこともおろか
字を読むことすらしない。
通常クラスに入っていたら
大変なことになっていたでしょう。
それまで大好きだった牛乳が
あるとき突然飲めなくなりました。
ぬるいですから、気持ち悪く
なったんだと思います。
あいかわらず
給食は問題でした。
保育園のころに比べると
食べたくない=いらないからのせないで
と断るようになったようです。
1,2年生は
浅賀先生に学校って楽しいところという
ことを教わりました。
喜んで学校に行ってくれました。
数々の遊びの中で
簡単な足し算や文字を
覚えることができました。
浅賀先生のボーリングの授業、
感動でした。
1年生の子には数を
しょうたろうには足し算
4年生の子には2桁の足し算
5年生の子には掛け算
6年生の子は率を
今まで見てきたプリントを
めいめいやってる
特別支援学級の姿ではなく
みんなが参加できる授業を
先生はやってくださいました。
浅賀先生にはほんとに
感謝しました。
学校に送りはお父さん。
お迎えはお母さん。
うまいこと分業できて
よかったです。
1年生の夏休み
療育手帳を初めて
取得しました。
B2でした。
2年生で更新手続き。
次は4年生です。
小学3年生。
この年の4月、引越ししました。
今まで住んでいた家が
恋しくて何度も帰りたいと
泣きました。
双子なんてけんかするたび
「お母さん、市民病院に
返してきて!」
病院からもらってきたと
思っているようです・・・。
特別支援学級の子は
年度途中の引越しに関しては
転校しなくてもよいと言う
特別な計らいで
そのまま通えることに
なりました。
学校では浅賀先生が
いなくなってさびしくて
1ヶ月、担任になられた
山田じゅん子先生のことを
話ませんでした。
しかし
じゅん子先生の深い愛で
しょうたろうは目覚しい成長
でした。
そもそも学校自体行く意味が
本人にはわからないわけですから。
なんとこの年は
1年生の算数と国語は
終了しました。
2年生の筆算もでき
名前は漢字で書けるし
(字のきれいさは論外)
1年生の漢字なら
わかるようになりました。
そして今年度、小学4年生。
特別処置で転校を免れた去年でしたが
とうとう転校になりました。
初めて歩いて学校に
通いました。
お父さんが登校班について
行ってくれまして
またまた助かりました。
この学校は初めて今年度から
特別支援学級ができました。
1年生4人に、しょうたろう、
5年生の子の6人です。
担任の村木先生は
以前通っていた小学校におられたので
先生たちと交流があるとのことで
しょうたろうの情報は
伝え聞かれたそうで
安心しました。
ベテランの先生でも
1年生4人は大変です。
しょうたろうと5年生の子は
待ってることが多かったようです。
仕方ないことでしょう。
前年度とは一変
学習のほうはゆっくりに
なってしまいました。
でも大きくなって
なぜ僕は4年生なのに
4年3組(交流学級)じゃないの?と
言うようになりました。
交流学級では
みんなの足を引っ張ることは
あまり無いよう
つとめてがんばり
運動会では上手に参加できました。
あいかわらす偏食で
給食の時間は村木先生の
ご心労が尽きないそうです。
先生、ごめんなさい。
食べれんならほっといて
いいですから・・・と
言いたいところですが
どうもうるさくて
大変なようです・・・。
すいません・・・・。
療育手帳は
B1に変わりました。
実年齢とはかなり離れました。
これからどんな成長を
遂げるのでしょうか?
これからどんな問題が
待ち受けているのでしょうか?
中学校、成年後継人問題・・・
その他いろいろあるでしょう。
その時々で全力でやってきました。
これからも全力で
行きたいと思います。
しょうたろう、
10歳の誕生日おめでとう。
書く気になれなくて・・・。
仕事にお父さんに子供たちにお金・・・
いろいろあって心折れてました。
とうとう10年経ちました。
しょうたろうが産まれてから。
いろいろありました。
産まれたのは37週。
逆子だったので(しかも足が下)
帝王切開でした。
赤ちゃんの成長は
普通だったと思います。
1歳半検診ではわからず
妹いちかが産まれて
何かが変わった?
突然おかしくなったのかと
思った。
とにかくなぜかわからず
地獄だった。
昼間はずっとアンパンマンの
ビデオをエンドレスで見続け
ご飯はふりかけご飯くらい
しか食べない・・。
夜中は昼間寝続けていた
いちかが泣き続ける。
夜泣きというより
彼女は昼と夜が
逆転してて
夜起きてました。
私はほぼ24時間
起きていた気がします。
当然買い物以外は
あまり出かけた記憶が
ないです。
いちかをベビーカーに
乗せて散歩した記憶は
ほとんどないです。
唯一救われたのは
妹のしのちゃんも
いちかと同い年の
はるちゃんがいて
いつでもしのちゃんちに
行けたこと。
しょうたろうを
連れての外出は
苦痛でした。
それを奪還できたのは
しょうたろうが3歳になる前の
1月のことでした。
赤ちゃん訪問で来てくださった
保健センターの保健師さんのおかげ。
「すみません、あかちゃんは
元気ですから、お兄ちゃんを
見てください!」
母がその訪問の1ヶ月前
亡くなって心が空洞でしたし
遺言みたいに
「ことばの教室みたいな
ところに行ったら?」
「自閉症かもしれないよ」
と言っていたのを
そうではないといいのにな・・・
と思っていながら
でもやっぱりそうなのかな?と
悩む毎日でした。
実を言うと
そんなわけのわからない
しょうたろうといるのが
苦痛でほとんど育児放棄
してました。
だからこそ
その訪問は唯一
母の言う
「ことばの教室」への
入り口になるかも?と
半ば期待しました。
予想どおり
「お母さんが気になさら
ないんでしたら・・・」
と
ひまわり学園を
紹介していただきました。
3歳児。
普通なら保育園に入り
いろんなことを学ぶ年なのに
週3日、ひまわり学園に
通いました。
赤ちゃんいちかを連れての
ひまわりの指導は
つらいの一言でした。
私には
先生のご苦労にも
かかわらず
しょうたるうは
成果がとぼしかった
気がします。
私がひまわり学園に
行くのがいやだったのが
原因かもしれません。
4歳児、5歳児。
保育園のプレイルームに
入ることができました。
私も働かないと
生活もできませんでしたから
助かりました。
保育園の願書取りのこと。
希望の保育園に入りたくて
朝の5時から市役所の入り口に
並びました。
その年の1番に並ばれた方は
夜中の12時だったそうです。
数えて私は12番。
かろうじて入れそうでしたが
校区外。
後ろの人たちと話してて
みなさん行きたい保育園が
同じ・・・。
枠が補欠込みで二つ・・・。
私は思わす
その年初めて新設の保育園の
願書をもらいました。
希望ではなかったけど
今から考えると最良の選択だったと
思います。
私は保育園のそばの
老人ホームに入っている
給食会社で早朝から
働きました。
送りはお父さんに
お願いしました。
大変助かりました。
5歳になる前の
12月、双子を妊娠して
仕事をやめ
事故をして車がなかったので
電車でお迎えに行きました。
その保育園で
いろいろなことができるように
なりました。
オムツが取れたこと。
着替えられるようになったこと。
食べられるものがすこしふえたこと。
基本的生活は
できるようになったのは
働く私には助かりました。
しかし
小学校に入るとき
しょうたろうの障がいが
何なのか初めて知ることに
なりました。
情緒のクラスなんだと
思っていたら
先生に
「え?知的によろしくないですよ」
と言われました・・・。
びっくり!
そうなの?って感じでした。
ショックはないけど
お先真っ暗って思いました。
教育委員会からも
前の年まで特殊学級という
名前だったのが
この年から
「特別支援学級」と名を変え
「特別支援学級(知的)への
入級をお勧めします」
と手紙に書いてありました。
お父さんは大反対。
じいさんもおばあさんも
快く思っていません。
ここでも私はひとり。
大変でした。
なんとか説得を重ね
校区外の小学校に
入学できることに
なりました。
小学1,2年。
浅賀先生との出会いです。
小学校に入りたてのころは
先生にくっついて離れなくて
大変だったそうです。
字を書くこともおろか
字を読むことすらしない。
通常クラスに入っていたら
大変なことになっていたでしょう。
それまで大好きだった牛乳が
あるとき突然飲めなくなりました。
ぬるいですから、気持ち悪く
なったんだと思います。
あいかわらず
給食は問題でした。
保育園のころに比べると
食べたくない=いらないからのせないで
と断るようになったようです。
1,2年生は
浅賀先生に学校って楽しいところという
ことを教わりました。
喜んで学校に行ってくれました。
数々の遊びの中で
簡単な足し算や文字を
覚えることができました。
浅賀先生のボーリングの授業、
感動でした。
1年生の子には数を
しょうたろうには足し算
4年生の子には2桁の足し算
5年生の子には掛け算
6年生の子は率を
今まで見てきたプリントを
めいめいやってる
特別支援学級の姿ではなく
みんなが参加できる授業を
先生はやってくださいました。
浅賀先生にはほんとに
感謝しました。
学校に送りはお父さん。
お迎えはお母さん。
うまいこと分業できて
よかったです。
1年生の夏休み
療育手帳を初めて
取得しました。
B2でした。
2年生で更新手続き。
次は4年生です。
小学3年生。
この年の4月、引越ししました。
今まで住んでいた家が
恋しくて何度も帰りたいと
泣きました。
双子なんてけんかするたび
「お母さん、市民病院に
返してきて!」
病院からもらってきたと
思っているようです・・・。
特別支援学級の子は
年度途中の引越しに関しては
転校しなくてもよいと言う
特別な計らいで
そのまま通えることに
なりました。
学校では浅賀先生が
いなくなってさびしくて
1ヶ月、担任になられた
山田じゅん子先生のことを
話ませんでした。
しかし
じゅん子先生の深い愛で
しょうたろうは目覚しい成長
でした。
そもそも学校自体行く意味が
本人にはわからないわけですから。
なんとこの年は
1年生の算数と国語は
終了しました。
2年生の筆算もでき
名前は漢字で書けるし
(字のきれいさは論外)
1年生の漢字なら
わかるようになりました。
そして今年度、小学4年生。
特別処置で転校を免れた去年でしたが
とうとう転校になりました。
初めて歩いて学校に
通いました。
お父さんが登校班について
行ってくれまして
またまた助かりました。
この学校は初めて今年度から
特別支援学級ができました。
1年生4人に、しょうたろう、
5年生の子の6人です。
担任の村木先生は
以前通っていた小学校におられたので
先生たちと交流があるとのことで
しょうたろうの情報は
伝え聞かれたそうで
安心しました。
ベテランの先生でも
1年生4人は大変です。
しょうたろうと5年生の子は
待ってることが多かったようです。
仕方ないことでしょう。
前年度とは一変
学習のほうはゆっくりに
なってしまいました。
でも大きくなって
なぜ僕は4年生なのに
4年3組(交流学級)じゃないの?と
言うようになりました。
交流学級では
みんなの足を引っ張ることは
あまり無いよう
つとめてがんばり
運動会では上手に参加できました。
あいかわらす偏食で
給食の時間は村木先生の
ご心労が尽きないそうです。
先生、ごめんなさい。
食べれんならほっといて
いいですから・・・と
言いたいところですが
どうもうるさくて
大変なようです・・・。
すいません・・・・。
療育手帳は
B1に変わりました。
実年齢とはかなり離れました。
これからどんな成長を
遂げるのでしょうか?
これからどんな問題が
待ち受けているのでしょうか?
中学校、成年後継人問題・・・
その他いろいろあるでしょう。
その時々で全力でやってきました。
これからも全力で
行きたいと思います。
しょうたろう、
10歳の誕生日おめでとう。