
仙台の駅から東北本線に乗り換え名取市へ向かう。快速で一駅、僅かな時間。乗り換える前に駅の正面入口から外に出る。エントランスは高い場所にあり駅前が見下ろせる。相変わらずの大都会である。でも山側に少し足を延ばせば作並あたりの森林地帯、海側なら自然海岸のウニ、牡蠣、海鞘の生息する松島をはじめとする明媚な地帯。いつか必ず住もうと企んでいる街だ。その街の海側は巨大津波に壊されてしまった地域。なぜなんの縁もゆかりも無い名取へ向かったのか、それにはそれなりの小さなわけがあった。他愛のないわけだからここには書かないが
去年の震災のあと、心の中に大きく名取と言う文字が張り付いてしまったわけなのであった。
名取市内の海岸近くもかなり内陸部まで巨大津波に流されてしまった地域である。仙台空港もその範囲にある施設施設であることはご存知のとおりだと思います。オレは実際にその地域を自分の目で確かめたかった。興味本位、野次馬根性、迷惑者、なんて罵倒されても反論のしようがない。行く前でから行くべきか行かないべきか、現地の大地に立った時もその光景を見て来てよかったのか来ない方がよかったのか、帰ってきてからも行ってよかったのか行かないほうがよかったのか、全てにおいていまだに迷っている。仙台の駅でもまだ迷っていた。このまま東京に向かった方がいいのかも知れないと考えていた、が、オレは心してその地域に向かったのだ。名取の駅に着いたら荷物を全部預けてタクシーに飛び込んだ。街なかを過ぎると道路沿いに流されてきた漁船があった。広大な土地の中に船があった。その時点で緊張した。そして大きな誤解があった。その広大な敷地は街の郊外の田畑だと思い込んでいた。タクシーの運転手さんとの会話の中、そこは住宅地だったことを伝えられた
。街ごと、一部を残して全てが流されてしまったのだ。
震災前、港があった場所の前に日和山公園と言う小高い丘があった。タクシーを降りるとすぐにその丘に駆け上った。走り去るタクシー、その姿がどんどん小さくなっていった。空は澄んだ青空、周囲は全て地平線、水平線に囲まれている。山側、地平線の向こうに


白い山並みが見える。すぐ近くに川の堤防、名取川の河口である。壊滅的被害を受けた学校も見える。足がすくんだ。腰から下の力が消える。愕然とするとはこのことだ。その丘の上には仮設の慰霊碑があった。捧げた花が潮風に乾いて揺れている。酒が捧げられている。灰皿が置いてある。買っておいた煙草を風に飛ばされないように捧げた。そして手を合わせた。
昔、あちこちの山々を訪ねていた頃、その感動的な景色で涙したことはいくらでもある。しかしそのような惨状を見て涙が止まらなくなってしまったのは無論、初めてのことだった。今、オレが住んでいる所はいつ津波に流されてもおかしくない海岸沿いの街。

教えられたこと、それは地震もさることながら、津波も含めて、例えば家具を固定する、非常持ち出し袋を用意しておく、家の耐震性を上げる、そんな行為が巨大津波に対していかに無意味なこと、ということだ。高台に引っ越すか、その時に逃げるしか手だてはない。現実的には引っ越すことはできない。その時、家族がみんな逃げられる状態で家にいる保証もない。真冬の真夜中だったら凍え死んでしまうだろう。
幸せの基準は3LDK、4LDK?幸せの基準は健康で生きていること、それだけ、そんなことを今さらながら思い知らされた。
その丘を降りてかつて保育園があり、アパートがあり病院があり、子供たちが走り回った路地があった街を歩いた。瓦礫は重機で撤去したのだろう、家々の境界のコンクリートブロックの基礎だけが残っている。その地面には回収しきれない子どもたちの玩具、衣類、食器類。二次元のテレビでは伝えきれない光景。悲しすぎる、ただそれだけだ。路肩に子どものおもちゃのピアノ。その前の土地の形から判断して子供部屋と思わせる場所にそれを移した。たかだかそれぐらいしかできない。だけどそうしないと気がすまなかった。


向こう側にずっとひとつだけ大きな建築物が荒野の中にポツンと残っていた。ゆっくりその方向に向かう。そこは墓地だった。残されている建築物はそのお寺の本堂だった。本堂の強度が強かったのか、不思議な力が働いたのか、撤去を避けたのか定かではない、きっと不思議な力が働いたのだ。そう思わざるを得ない。それは外観は見た限り大きく傷んでいなかったからだ。付近はなにもない、墓石も全部倒れていたからだ。
砂に紛れて瀬戸物の招き猫が海の方向に向かって倒れていた。オレはそれの泥をおとして起こした。南の空に向けて庭石の風の


内陸に向かってゆっくり歩き中学校にたどり着いた。校庭には壊れた漁船。部活のカバンはその日のまま置き去りになっていた。悲しすぎる現実。人の住むことの出来ない家々が点在している。名取川の堤防は耐えたが所々傾いている。カモメが舞っている。そこだけ切り取れば見慣れた風景である。車は地面に突き刺さっている。頑丈な門柱は倒れている。計り知れない波の力。自然界の地球の力なのだろう。人は非力以外、なにものでもない。ボブディランの名曲、ブルーにこんがらがって、まさしくその言葉のような状態になった。

地元音楽仲間、正確に書くと大酒飲み不良中年仲間と随分前から常に酒絡みの音楽活動をしている。オリジナルの魅力に魅了されたオレたちは妖しく怪しく夜な夜な這っている。去年の夏、オレはそんな名取の名取川に向けておこがましくも支援楽曲の歌詞を書いた。
書いた直後、友達が素晴らしい曲を付け、取り急ぎ仮録音をした。それをインターネットラジオで流した。名取のFMラジオ放送局にも提供した。その曲に共感したヨロズ楽器演奏人のマーボーはその曲の編曲を一手に引き受けると誠に頼もしいことを言った。足し算のアレンジから引き算のアレンジを行うと言う。感謝。
被災地の悲劇的風景はその地に限らず三陸海岸線沿いに果てしなく続いている。
素晴らしいリアス式海岸は日本の歴史年表にその一行を加えてしまった。しかも降り続くどうしようもない放射能。人生80年とするとその間、自然災害、戦争、テロなどに直接被害を受ける、受けないは別として確実になんかあることは間違いない。委ねるのは運命以外なにものでもない。その昔、昭和40年代から公害と言う言葉はあったが少子高齢化、年金問題、介護問題などという言葉が流れ出したのは最近のことである。昭和の時代、そんなことを唱えた学者、政治家はいることはいたのだろうがきっと相手にされなかったのでしょうね。あの頃から国の経済の仕組み、税金の仕組み、高齢者対応を考えて対策を立て具現化しておけば今の状況より少なからずましだったのかも知れない。だから十人十色プラス例外の、例外者の意見も尊重することが大事なのではと思う。勤勉国家、日本の旧態依然は既に美学でしかない。日本では何か独特のことをすると、変わり者と揶揄される。欧米では、素晴らしいと祝福される。この違いは大きい。ワンパターンのラブソングでは何も
伝わらない。
花の種類は山ほどあるが、例えばチューリップ、スイートピー、ひまわり、薔薇、カーネーションなどキッパリと存在感を見せつける花が好きである。名取は東北一、国内有数のカーネーションの産地だった。出荷の近いカーネーションは誰かの胸に抱かれることなく流されてしまった。
泣くかな名取川
作詞 水野和彦
作曲 大八木行雄
編曲 増田 勝
仙台行きの夜行バスは色んな思いを運んでる
茜色の膝掛けで眠る子どもは祈り顔
街の灯り 一つひとつ
今では月より星より重い
時にすべてを委ねても あの日は消えない
泣くかな名取川
名残雪 今は似合わない
移ろう季節よ
みんな みんな春を待つ
置き去りのカーネーション
いろんな空を見ている
赤すぎて眩しくて床しい花が咲く
待ちくたびれて抱かれたくて
もどかしくつらい淋しさに耐えて
ゆりあげの海に明日もまた朝日が登る
泣くかな名取川
名残雪 今は似合わない
移ろう季節よ
みんな みんな春を待つ
泣くかな名取川
名残雪 今は似合わない
移ろう季節よ
みんな みんな春を待つ
今、こんな曲を組み立てている。
主だった関わる人々は
関谷公吉
大八木行雄
平木 海
加藤祐一
宮内遊人
増田 勝
伊勢岐代子
山口加奈子
土佐直子
取り巻き業師として
高橋クニ
高橋道江
マイクアンダーソン
イトーチャン
ザクロクン
ナユキハルキ
ナガシマユーキチ
そのほかヨクワカラナイ人々がいる。
完成が待ち遠しい。
話がそれたが命あってこそ。
被災地では数万単位での悲劇が発生してしまった。
今更ながらではありますがこの場で改めて心からお見舞いを申し上げます。
内陸部まで歩いた。タクシー会社がうまい具合にあった。少し待つとのことで事務所の中に招かれ暖かな事務所で待たせて頂いた。配車係の方はそのカーテンの上まで波がきたと言う。ほぼ完全水没ではあるまいか。感覚的には海から2キロ以上離れている。それでその高さまで。これは津波というより陸地が一時的に海になってしまった、そんな感覚。
常々、地球と言う星は生きていて内部は蠢いており人間はその薄皮の上で危なっかしく生きているにすぎないのですね。だから少し変化が起こると人間と言う民、衆はあっけない。いつ命を失ってもいいようになるべく身軽にしておくべきなのだろうか。
新幹線が整備されひっきりなしにいったりきたり、最速、東京から二時間以内。かつてのように仙台は遠い場所と言う感覚はなくなってしまった。しかしそれは何事もなく新幹線も道路も健全での話。それらが遮断されたら仙台は異国の地だ。
仙台は容赦なく遠い都なのである。

あっという間に東京に着いたら「しおさい」のホームに子分1号がいた。
オレはそれを無視して街の灯りを眺めながらこの二日間を思い出していた。
喰う、寝る、飲む、喰う、見る、出すの濃密な二日間を思い出していた。
しかし何も思い出せない。思い出せるのは名取の荒涼とした悲しすぎる現実だけだった。
家について缶ビールを開けながらテレビをつけると、福島で震度5、ただいま新幹線の東北本線は止まっていますと
報道されている。もう少し向こうでゆっくりしていたらオレは動かぬ電車の中の人だった。
旅の無事帰還の一人打ち上げをしていると友人から福島の玉子湯、駅から30分で極楽雪見露天風呂だ、来月どうだ?どうだ?と連絡があった。
オレは受話器を持ったまま身を乗り出し「おおお、それは素晴らしい」とうなずいた。
