今夜は2006年に女優、小川由美さんによってラジオ朗読され
好評を博した作品、「薄荷」をお届けしましょう。
ゆっくりと情景をイメージしながらオタノシミください。
薄 荷
私が北見の街を訪れたのは実に二十七年ぶりのことだった。
二十七年という長い月日はあらゆるもの全てを変えてしまっ
ていた。私の記憶の中にある北見の街の風景は豊かさには程
遠い寒々とした白い風景ばかりであったが、二十七年ぶりに
見る北見の街の中心部だけに限っていえば、洒落た近代的な
風景の立ち並ぶ現代の地方都市にと変革を成し遂げていた。
今から約三十年前のことだ。中学を終えた私は、集団就職
で北見の街を離れ、札幌市の郊外にある大手電気メーカーの
子会社に就職した。その当時の電気部品を作る工場は今ほど
自動化が進んではなく、細かな仕事は女性の手先の仕事とい
うものが主流だった。各役割を分別した仕事、ライン作業、
流れ作業というものだった。仕事はきっちり朝八時から夕方
五時まででベルトコンベアーの上を流れてくる私にはよくわ
からない電気部品に半田ごてでリード線という部品を焼き付
けるものだった
私は午後五時の終業の音楽が流れるまで、いったい何回、壁
にかけられている大きな時計を見ていたのだろうか。その頃
の私の一番の楽しみは、やはり土曜の夜だった。土曜日、仕
事を終えると私は急いで寮に戻り、服を着替え、おぼえたて
の化粧をして、バスに乗り、電車に乗り札幌の夜の街に出た。
札幌市内には自分と同じように中学の同級生が何人か出てき
ており、電話で連絡を取り合
いながら再会を楽しんでいた。私たちは十六歳という年齢を
化粧と服装でごまかしながらなにくわぬ顔をして居酒屋に入
り少しのお酒や食べ物を楽しんでいた。
私がまだ小さい頃、私の家は母親が小さな居酒屋を営んでい
た。その店は私が小学生の中学年ぐらいに事情があって閉め
てしまったのが、私の中に酒を介した大人の世界が記憶の断
片に刻み込まれていた。だから、札幌でそんな店に入る恐怖
感はあまり無く、私が率先して友達を引き込んでいた。私は
土曜の夜ごとにそれを繰り返していた。私たちの行動が居酒
屋から当時、流行の兆しを見せ始めていたディスコという場
所に紛れ込むまでそれほどの時間を要しはしなかった。白い
三角巾をかぶりコンベアーの前で時間だけをやり過ごす自分
と派手な服を着込み、化粧をして大音量のフロアーにいる二
人の自分の姿があった。
その工場をやめてしまったのは私が十六のときだった。私は
すすき野のスナックで働くことになった。そこまで自分を思
い切らせたのはやはりお金だった。工場で一ヶ月きっちりと
働いて得るお金と、スナックで得るお金には倍、あるいはそ
れ以上の差があった。それはともかくとして、私自身、スナ
ックで働くということに対して何の抵抗もなく不向きなタイ
プでもなかったからだ。私が会社をやめると上司に申し出た
とき、上司は表向きの態度として今辞められてしまっては困
るとか、考え直せないのかなどということを事務的に言って
きたのだがそれらの言葉の裏側の本心を私はたやすく見抜い
ていた。上司は私のはっきりとした意志を確認すると、まる
で用意してあったかのように退職に際するための書類一式を
持ってきて私の前に並べた。
すすき野の店で働き始めておよそ半年後。私の唯一の肉親だ
った母親が急逝した。死因は心筋梗塞、パート先の薄荷工場
で仕事中に倒れそのまま帰らぬ人となった。母は四十五歳と
いう若さだった。連絡を受けた私はあわてて電車に飛び乗り、
北見に急いだが結局、突発的な急性の心筋梗塞だったため死
に目には会えず、私が北見に帰る頃には病院から自宅まで搬
送が終えており、奥の座敷に白い布をかけられた思いも寄ら
ぬほど小さな母が眠っていた。その傍らには、私の唯一の親
類といえる母の妹が無き濡れており、数名の仕事仲間と近所
の人たちが母を囲んでいた。母一人に育てられた私は大いに
取り乱し、泣き叫んだ。その時の記憶が断片的であるぐらい
私は取り乱していた。ごく小さな葬儀をあげたのちに母の遺
骨は母の妹が住む標津の墓に納骨することになった。もとも
と母の実家方の墓で母の両親もそこに眠っていたからだった。
母の身辺整理、借家だった家の解約の手続きなど母の妹に手
を焼いてもらいその整理のために私は半月ほど北見に滞在し
ていた。そして私は再び、すすき野に戻った。
私がすすき野の店の経営者の紹介で東京に出たのは、私が十九
の時だった。私にその道の商売の筋があると見込んだ店の経営
者が東京でそのような商売を営む友人に取り次いでくれたのだ
った。私は北海道を離れ内地に渡るということに対して何の抵
抗や恐怖感も無く、むしろ、新しい何かが始まるといった期待
感に胸を膨らませていたのだ。最初は上野の雑居ビルに中にあ
る小さな店だった。客は誰一人として私を二十歳前だというこ
とを思いもせずに私はあっという間に自分の客というものを作
り上げた。店側にしてみれば雇っている女の子目当てに客が来
るということはこの上ないことで待遇、収入、あらゆる面で私
はその店にいた女の子の中であっという間にトップになった。
ナンバーワンというやつである。
様々な人のつながりで、その後、私は何件か店を代え、新宿に
小さいながら自分の店を持ったのは私が三十歳の時だった。私
は店の中で客や使っているの女の子の前では派手な化粧をして
生活もそれなりという態度を見せてはいたが、実際には生活に
対しては、つつましくそして堅実にお金をためていた。独立は
その努力のなせる業だった。私の母親がそうだったのだ。それ
が私の体にも染み付いていたのだ。母が死んで残したいくらか
の現金は母の妹が葬儀の費用や墓の管理費に当てるといってあ
らかたも持っていってしまった。まだ十六歳の私にはよくわか
らなかったが、それがかなりの額だったのだろうとその頃にな
って私は知った。
でも私はそのお金が惜しいとか返してほしいとか思わなかった。
私は十五、六から一人で生きてきているという自負があったか
らだ。私の母親も私が生まれた直後に離婚してからそうだった
のである。
北見の駅前でタクシーに乗った私は運転手に清水新町の薄荷
工場までと告げた。北見は玉葱と薄荷の産地で特に薄荷に関し
ては国内有数の産地で、薄荷畑で取れた薄荷を加工する日本で
最大の工場があった。母はそこで働いていたのである。
「あそこも昔はいっぱい人がいたけど、なんていうの、ほら、
機械化?オートメーション?何でもかんでも機械がやるよう
になってずいぶん人が減っちゃっいましたね」
タクシーの運転手はルームミラーで私の顔をちらちら見なが
らそう言った。タクシーが街の中心部を過ぎ、郊外を走るよ
うになると確実に私の見覚えのある風景が見えてきていた。
「工場関係の方かね」運転手はそう私に聞いた。
「いえ、違います。近所に少しだけ用事があって」
私は窓の外を見ながらその質問に答えた。
秋の午後の日差しは眩しく、西日が車内の温度を上げた。
「少し窓を開けてもいいですか?」
私はそう言った。
「暑いですか?エアコンかけましょうかね」運転手はそれほど
暑くはないけどなという言い方で私に言った。
「いえ、いいです。風を少し入れたいのです」私はそう答えた。
「どうぞ」運転手がそう答えるのとほぼ同時に私は窓を少しだ
け開けた。窓から懐かしい風が吹き込んできた。気温はさほど
低くはないが。どこかにしんとした冷たさをはらんでいる北海
道独特の風だった。吹き付ける風の出所はオホーツク海であり、
シベリアである。私はその風にとてつもない懐かしさを感じて
いた。子供の頃に私を過ぎていった風だった。そしてその風の
中にほのかに薄荷の香りがあった。それは気のせいだったのか
もしれない。でも確かに私は薄荷の寒々しい香りを感じたので
ある。
私がなぜ急に北見を訪れようかと思ったのは私自身が母の年
齢を超えたからだった。そして今まで背負っていた重たい何か
が急速に溶けて、体が軽くなったと不思議に思ったからである。
窓の外には薄い青色の花を咲かせた玉葱畑が果てしなく広が
っている。所々に今となっては、色あせてしまっているかのよ
うに見える薄荷畑が見えていた。
その向こう側に大きな薄荷工場が見えていた。
「あの、車、本事務所の方でいいんですかね」
運転手は私にそう聞いた。
「い、いえ、あの、申し訳ありませんが、このまま女満別の空
港までよろしいでしょうか?」私は唐突に思ってもいなかった
ことを口に出してしまった。と言うよりも、もうその風景を見
ただけで私は充分だったのだ。そこで降ろされて私はどうする
といった現実問題が私の中にはっきりとあった。ましてこんな
場所である。タクシーを拾うなんていうことは不可能である。
私は今言ったことが正しいと思い、同じようにもう一度言った。
運転手は怪訝そうな顔をして今度はミラー越しではなく直接、
私を見たが少し首をひねって車を大きく旋回させていった。
私はその時取るべき行動が東京へ戻ると言うことしかなかっ
たのだ。
女満別空港を飛び立った東京行きの最終便は上昇しながら大き
く旋回してその機首を東京に向けた。窓から北見山地が見えそ
の間を縫うように天塩川が流れていた。私が子供の頃に戯れた
川だった。そして山々に囲まれた北見の街が小さく見えていた。
これまでの自分の人生の中のほんの三分の一しか過ごさなか
った北見の街が見えていた。その寂しさの漂う大地に孤立した
ような街は、これから厳しい冬を迎えるにしてはあまりにも
無防備に見えて仕方が無かった。もうすぐシベリアから、
そしてオホーツクから冷たい空気が流れてくるのであろう。
そしてせっかく咲いている薄荷畑や玉葱の花を雪で覆いつ
くしてしまうのであろう。