YEAR3210

風に転がる迷走日記

天国への階段

2011-03-30 20:33:11 | 日記
水道から水が出ない生活が長くなっている。あの時からだ。
震災の翌日から会社は二週間の罹災休暇となった。しかし立場的に
壊れた設備の復旧作業のため会社に行っている。早朝に家を出て
深夜に帰宅の毎日だ。会社では脳梗塞の時に使う点滴用の注射剤を
作っている。その薬の供給が途切れたら大変なことになってしまうので
不眠不休の毎日である。やっていることは原発の復旧作業とかなり似ていて
やれ、温度だの、圧力だの、命懸けな部分も多々ある。
このような時にやはり頼りになるのは頭の切れる人である。
知識、知恵、判断力に優れる人である。
日付はもとより曜日さえわからない毎日が続いている。ゴミ捨て場に置かれている不燃、可燃
ごみを見て曜日を区別するような毎日である。水の無い生活。これにはある程度なれてしまった。まさしく川へ洗濯(コインランドリー)山へ水汲み(給水所)という
行動をとっている。一番困るのはやはり風呂だ。これまでどれだけ贅沢な生活を
送ってきたのか。改めて思い知らされるのだ。人間一人が一日生き延びるのに
きちんと塩素消毒された水をどれだけ使ってきたのだろうか。
幸いに家の風呂は追い焚き機能がついているので水さえ汲んでくれば風呂に入れる。
しかし、消毒されていない風呂は二日目になるとぬめり、臭いがすぐさま現れる。
200リットルの水を車で運ぶ作業、これは相当きつい。しかもお湯の追加が出来ないので
浴槽のお湯はあっという間になくなってしまう。風呂オケ一杯の水で体を洗い、同じく
頭も洗う。歯磨き、洗顔はコップ二杯の水で済ませる。
いつだったか、アフリカのどこかの国でその国は水は貴重な資源で、その国の少年が
コップ一杯の水でうがいをし、その水を自分の両手で受け止めて顔を洗う映像を
見たことを思い出した。まさしく今、自分がその状況下にある。
日本は世界で最高の上水道設備の整った国である。日本の国土全体に細かに網の目のごとく
上水道が張り巡らされている。これはすばらしいことだ。戦後の日本の復旧に尽力
した方々、先人の努力に感謝したい。しかしその反面、今もってなおアメリカの統治下
にあるような気がしてならない。というよりも統治、コントロール、されているのだ。
トモダチ作戦は素直に受け止めてよいのだろうか。
テレビでは、「日本はひとつです」だとか「日本はひとつのチームなのです」とか
「国民一体になって」とか散々言うが、沢山の避難難民がいる今、時期尚早ではなかろうか。
「みんなでこの難局を乗り越えましょう」「日本国民が一体となって」
これはある意味、「天皇陛下万歳」につながるのではないでしょうかね。
どこかの誰かが書いたSF小説「YEAR3210」は物語りは巨大地震から始まります。
地球の歴史をもっと長い尺で見たらあの本と同じようなことがいつかきっと起きるような気がしてならない。原発の情報に関しては国民がパニックになら無いことを大前提とした
情報のみ流されている。最悪の事態になった場合のことはテレビでは絶対に言わない。
民衆がパニックになることを恐れているからなのでしょうね。
最初にこのニュースを聞いた時、もうこれで東日本は終わりなんだなと思ったしね。
今もその状況下にあることは事実だと思うし。少なくとも事態が好転したとしても
あのあたりは今後数十年は有刺鉄線が張られて荒廃した危険な、そして人の決して
立ち入ることの出来ない場所になることは言わずとも知れていることでしょう。
もしも自分に2億円の預金があってそのうちの1億円を災害募金として寄付するかと
問われたら少し戸惑う。5億円あったら1億円寄付はなんら抵抗は無く困った方々を
救えるのであれば寄付できるでしょう。そうなると大金を寄付した方々の資産は
いったいどれぐらいなんでしょう。おそらくその十倍はあるのでしょうかね。
許せないのはこの災害に便乗した詐欺的犯罪が増えていること。テレビに法務大臣が
登場し、この災害に関する犯罪行為は重罪に処するとう超法規てきなる一時的な
法律を決めなくてはいけないと思いますね、その前にそのやからは絶対にいい市に方はしないだろうし死んでからも永遠に地獄の中で苦しむことになると思いますが。
そういった意味では「日本はひとつのチームなんだから」って言う表現は時期尚早
だと思うし何かが違うと思います。
でもこのような激甚災害でも日本は乱れることなく統治されているので日本に生まれて
よかったと思うのも事実なんですけどね。
アメリカは自国の経済を潤滑に循環させるためには日本存在は不可欠なので、手を差し伸べてきているのは人道的な部分を含めて明確であり、ロシアはこのさなか、わざと戦闘機を
領空内に送り込んで復興に忙しく国防に手薄になった自衛隊の防御力を試しているらしいし、いったい、この地球とは、人間とはなんなんだ、という気分になりますね。
この先、日本は大不景気になることは間違いの無いことだし、・・・
新宿のホームレスが被災地の避難所に移動していると言う話も聞いた。
新宿よりも安心して暮らせて食事に困らないからだそうです。
この国はとっくの昔に何かが狂い始めているのですね。

YARE'2011

2011-03-19 13:41:54 | 日記
 以前のここにも書いたけどこの週末、気仙沼へ出かけることになっていた…。

 石原都知事がこの未曾有の災害に関し暴言的なことを言ったが確かにその
とおりだと思う。被災者の心情、現在置かれている避難所などでの生活の実
態を思えば、当然、批判されるだろう。しかしこの十年を振り返ってみると、
人はコンピューターに支配され、パソコンだのプリンターだの、日本の住宅
事情にそぐわない大型テレビだの挙句の果てには3Dテレビだの、そして携帯
電話にしがみつき、街に出れば何の理由も無く包丁を振り回す人がいきなり
現れ、何のわけも無く家から出なくなりいい年をした人が親の援助で暮らし
ていたり、どうみても世の中が狂っていたことは言うまでも無い。この辺は
みんな薄々気がついていたはずだ。
 昔、鉄腕アトムなどでは例えば携帯電話のような夢物語が描かれていた。
その夢はかなったかのように見える。しかしその頃、その夢に対して例えば
携帯電話だったら、基本料金、何とかプランなどがあるってことはその頃は
夢にさえ思わなかったはずである。
 本当に夢がかなったといえるのはすべて無料になった時ではなかろうか。
 今回の大震災、これはある意味ひとつの大きな節目ではなかろうか。
この震災を1000年に一回の大災害だと専門家は言う。だからもう死ぬまでこ
のような災害に見舞われることは無い、というのは大きな間違いだとTAIGA
は言う。
 その理由を聞いた。そして納得した。
 0年から1000年までの1000年間でこの災害が1000年目だとする。1001年目から
2000年の間、1000年に一回の大災害が1001年に起きたとしてもそれも1000年
に一回の発生確率の災害である。だから人は一生の間に1000年に一回の大災
害に遭遇することは二回あり得るのだ。なるほどでありますね。同じ理論で
言えば一億年に一回の確率で起こる大災害も一生の中で二回経験することも
あり得る事だ。なるほどである。
 テレビでは連日、学者、専門家、有識者、にわか評論家が出てきていろん
なことを言う。それぞれが自信ありげの持論を言うのだがみんな、どこか内
容的なことを含めて言うことが違う。我々はテレビの中のオッサンが言うこ
との傍観者でしかない。しかし、自然の驚異はものすごい。アメリカのCGを
駆使したパニック映画の映像、ありえないと笑いながら見ていたがその映像
が実際に起きてしまった。自然の力はまさに想像を絶するのだ。原発ではホ
ースで水をかけている。たかがホースで放水である。現代の科学技術のカタ
マリである原発の暴走を食い止めるための最後の手段が放水である。コンピュ
ーターなどは何の意味も成さない。天気予報ではダムの付近で少し大目の雨
が降ったので発電量が増し、電力が少しまかなえると言っている。
 水力発電はもっとも原始的な発電方法と思えるのだが、ここでも自然の力、
たかだか雨、水である。この事実を重たく受け止めなけばいけない。
 先日、水を片っ端から集めて一週間ぶりに風呂に入った。追い炊きのでき
る浴槽でよかったとしみじみ思うが風呂に入ってからお湯を追加できないか
ら風呂オケ一杯のお湯でカラダを洗い同じように頭も洗う。それだけでもお
湯はみるみる減ってゆく。今までは、ほぼシャワーは出しっぱなし、そんな
入浴の仕方だった。
 人の体は不思議なもので三日目あたりからもう風呂に入らないでもいいな、
という気持ちになってくる。生涯、風呂に入らなくてもいいな、と言う気分
になった。人の体は勝手に順応化する能力を持っているのだ。風呂は無くと
も必要なものは「水」である。
水は無い。アルミホイルでこしらえた皿、割り箸は使わずあえて竹を裂いた
箸で食事をする。これがある意味、冒険的だ。生活スタイルが昭和のはじめ
ごろに一部戻っている。
 当分、こんな毎日が続くという。瞬時に津波に足元さえすくわれなければ、
建物の下敷きにならなければ、健康を大前提として食料と寒さをしのげる衣類、
毛布、水さえあれば瓦礫で小屋を作り、生きていける。その途中、同じよう
な境遇の野良犬と家族になり、ともに生きていける。来るなら来てみろ大災害
という感じである。しかし、生きていけない。それはなぜか?そういう状況に
なると間違ってもビールは無いであろうからである。
 この場を借りて救援してくれている、励ましてくれている友達の方々にひとま
ずお礼を申し上げます。どうもありがとう。さて、庭に水でも撒いてシャワー
でも浴びて、車でも洗いに行くかな。
そんな当たり前が既に間違っていた。

五十肩

2011-03-10 20:52:16 | コブクロ
その昔、といっても最近も続いているけど、テニスに夢中だった
時期がおよそ20年ぐらい続きましたかね。ゲホゲホ。その晩年、
右肘にものすごい痛みが走りましてね、医者に行ったら骨が少しだけ
かけて肘の関節の中で遊んでいるってユウんですよ。その骨のかけらがね、
シンケーに触ると激痛が走るというんですわ。
確かに医者が言うとおりでね、シンケー方面に骨の欠片が散歩に行って
シンケーをいたぶるとね、箸さえ持てなくなるんですよ。
それはもう慣れてしまってその時は左手を使えばいいって感じで左手を使って
ますね。そういう時、不思議なもんで、箸を使うと激痛が走る。箸を使わないと
痛みは走らないってことに気がついたんですよ。もともと人間は箸なんかつかわんかった
はずでっしゃろ。手づかみでものを食うと一味もふた味の違うってことに気がつきましたわ。人間、食うために手があるんですね。その骨の欠片はいわゆる「ねずみ」ってやつで
レントゲンにもはっきり映りますね。最近はその痛みが無くなったんだけど、
思うにその骨は体液に溶けてしまったんですね、そう思います。
それはそれとして去年の夏ごろから首の後ろから右肩、そして指先まで
痛みがありましてね、結構なペースで、日本式マッサージに行ってたんです。
接骨院に行ってレントゲンとって結局、シップだけもらうという対処療法もしたり
してましてね。
痛み止めの薬は麻薬のようなもので時間限定での効果だしね。
日本式マッサージは受けているときはそりゃあもう気持ちいいでっせ。
そんなのは誰でも知ってるでしょうけどね。でも日本式マッサージの効果は一時的なものでね、首、肩の痛みは取れないんですね。そんな時知ったのがとある場所の中国式マッサージでしたのよ。まあ、晩酌の前に行ってみようといったわけですね。
細かく書くのはメンドクサイので書きませんが、なんとあれだけの首、肩そして腰の痛みがきれいサッパリ取れてしまったのですね。しかも最近は階段を走って上がる自分に
気がついたわけですの。
首の後ろ側には人体を司るすべての神経が走っている。結局はバランスの問題で
中国式マッサージはそれを矯正するみたいなんです。
腰の痛み、首の痛み、腕の痛みがすっかり取れてしまった。
恐るべし中国式マッサージ。週末にまた行くんだもんね。

コブクロ

2011-03-08 20:53:44 | コブクロ
コブクロといっても歌手のコブクロではない。インスタントラーメンや
納豆、そのほかの食べ物に付録としてついているコブクロのことです。
コブクロは全面的にすきではない。特に納豆の場合は誰でも知っているように
タレおよびカラシがコブクロではいっているけで特にあの小さすぎるカラシ。
ミミカキ3杯分ぐらいの超コブクロ。納豆をあけるときに既に指はベトついているから
なかなか開かない。コブクロには切り口がついているタイプとこちら側からどこからでも
切れますタイプがあるけどベトベトの指ではどっちみち開かない。
結局、開かなくてイトキリバであけようとするけどそれでも開かない。仕方なく
あきらめてはさみを持ち出すことになるのですね。やっと開いたと思っても
今度は小さすぎてカラシが袋から落ちない。しょうがないからマダム・イセザワふうに
かくと納豆にカラシをナスグルってことになるんです。
ラーメンのスープのコブクロを開けるときほぼ100%の確率で袋をがさがと振るんですね。
言わずともわかる遠心力の法則を人間は使いますね。ラーメンによってはほんのわずかな
胡椒のコブクロがついていますがたったあれだけの胡椒がなんの役に立つんでしょう。
胡椒ぐらい、どこの家にでもあるから好きにさせて欲しいです。
ギョーザについているラー油のコブクロ。話になりませんね。絶対量が絶対たりない。
社長の方針、サービスかもしれませんがあれはある意味、資源の無駄遣い、メーワク
ではないだろうか。
ウナギを買うとタレとサンショがつながって一体化したコブクロがついている。
どっちから開ければいいかわからない。タレだけ先に使うけどそのタレはコブクロ
にくっついて食べる前にかけるサンショの部分が指が滑って開けられない。
安物のウナギを買うとウナギの上に直接、コブクロが乗せてあって最初からベトベト
だったりする。ショーシシャは唸るしかないですね。
温泉たまごのコブクロなんかは三連結コブクロなんてのがあって切り離そうとすると
切り口から開いてしまって無駄な時間、労力を使うなんてこともありますね。
休日に仕事に行って昼飯としてコンビニで値段を気にしないでカップラーメンを買った。
そのラーメンの中には5種類のコブクロ。粉スープ、液体スープ、調味油、乾燥野菜、
チャーシュー風チャーシュー・・・順序がわからない。B5ぐらいの紙に14ポイントぐらいの文字で、「さあ、作ってみようおいしいラーメン」から始まってstep1.まず外装フィルムを剥ぎ取りましょう、step2,さあ、上ブタを半分ほどはがしましょう、step3…なんて取り扱い説明書が欲しいぐらいだ。カップの横に書いてある基本的なツクリカタは字が小さすぎて読めない。そして値段は300円近くもする。買って初めて気がついたんだけど。これらすべてを
取りまとめてふやかすお湯はえらいなと思うと同時に、そこらのラーメン屋で
食べたほうが話は早いなと思いましたね。

落陽

2011-03-04 20:38:19 | 日記
ある意味大変なことが知らないところで起きている。
その12才の少年は父親の影響でおおよそ40年近くも前の
吉田拓郎の「落陽」という曲をいつの間にか覚えてしまっていた。
その少年は数ヶ月前から急にギターに夢中になってしまった。
最近の子供だから当然、最近の歌を聞く。誰でも聞くハヤリの
曲を聴く。アラシとか、いきものがかりとか、ファンキーモンキーベイビーズとか
である。
最近の曲でギター譜が載っっている楽譜を買ってあげた。
それを見ながらギターを弾く。しかしそれはすぐ飽きてしまい
唐突に「落陽」を弾き始めた。その曲のギター演奏を教えた記憶は
全く無いし、無理強いしたことも無い。理由を訪ねると今の歌より
「落陽」のほうが弾いていて断然、面白いという。コード、コード進行等は
ごく普通なのになぜそう感じるのだろう。その昔、みんな
ギターを手に入れたら殆どのフォーク好きの人は70年代中頃、
「落陽」を弾いて。そして歌ったはずだ。
なんでそんなに気になるのかと訪ねたら、歌詞がいいと言う。
子供心に、人間、人生を感じているのだろう。そして
今の歌は歌詞がみんな同じで何を言っているのかわからないと言う。
やはり、たかだか12才といえども君が君が僕が僕が風が空が窓が、では面白くないと
感じているのだ。
落陽の「サイコロ」がいいと言う。時代は変われどいいものはいいってことでしょう。
話はそこまでではない。驚くのはここからです。
今春、小学校を卒業するその少年は、卒業式が終わった後の全生徒と全先生たちの
最後の記念食事会で驚く無かれ、「落陽」を弾き語りして歌うというのだ。おおおお。
しかも同学年全員が、毎日毎日、無理やり
落陽を聞かされるものだからすっかり気に入ってしまい
そして覚えてしまい、その日、その学校の体育館で「落陽」を全員で大合唱をすることになったらしい。吉田さんに教えてあげたいくらいだ。
それはもちろん先生の理解の賜物でしょう。しかし、そうなってしまったすべての原因、
発端、きっかけはオレである。先生とは殆ど話したこともない。
平成10年生まれの子供たちが親の世代の大昔の40年近くも昔の曲を大合唱する。
これはその少年はもとより同級生たちの生涯の思い出になるはずだ。

これは個人的には「快挙」「革命」「奇跡」だとコジン的に今夜も酔いながら
そう思っている。子供たちには「遥かな空に」「新しい世界」が待っている。