被災地支援 -できることをやろう- から -ひとつなぎ- へ   NPO法人ねおす

『三陸ひとつなぎ自然学校』の釜石市を中心とした活動を応援しています。

お知らせ

★【2015年12月23日エルプラザ】「5年目の今、未来への挑戦」の報告会があります

4  断てなかった絆 

2012年02月04日 | 地域社会起業育成支援

都留文科大学・高田教授の報告【其の五】


3  断てなかった絆 

 津波に巻き込まれ、死亡もしくは行方不明になった人々の多くが、家屋の中で被災している。その中でも搬出できなかった高齢者とその介護にあたっていた人が共に、津波が来ることを解っていながら被災した事例が聞かれた。Aさんの妻(56才)も早い時点で一旦は義父を置いて高台に避難するが、やはり寝たきりの義父が心配になって再び自宅に戻る家を出たり入ったりしていたところを隣人に「危ないから上にあがって。」と声をかけられている。津波は1階天井まで浸入。遺体になって玄関前の瓦礫の下から12日になって発見される。義父は辛うじて生きて発見されるが12日の夜半に死亡。意識はほとんどなく、話しかけた時に目が動く状態であったが、Aさんから嫁が亡くなったことを伝えられると涙を流した。このように高齢者と嫁の組み合わせで両者とも亡くなった事例が4所帯で聞かれた 。[i] 

 親子で亡くなった事例としては、70代の母親と40代の息子が国道沿いの家で亡くなっている。また家に居たが天井まで水位が上がり、母親(80代)を娘が裏山に救出したが、山中で低体温となり亡くなっている。この地区では高齢者だけが家に居て亡くなったという事例を聞くことはなかった。「てんでんこ」とは知りつつも断ちきれなかった現実がいくつもある。 



[i]4班に集中しており、義父(80)嫁(60)/義母(80)嫁(60)娘(30)/義父(80)嫁(50)年齢は話者による推定年代


3 断たれた緊急情報

2012年02月04日 | 地域社会起業育成支援

都留文科大学・高田教授の報告【其の四】


3 断たれた緊急情報

 拡声器のある防災屯所から最も北に位置する7班の上部場所までは距離が約430mあり、津波が来るという拡声器の情報は聞こえてない。地震による停電によって情報は遮断され、大きな長い揺れからの個々の判断、他所にいた身内からの携帯電話等による情報、消防団の人など、人づての情報に頼って避難が行われた。

 消防団OBであったDさん(64才男性)の場合、地震時は国道の側の防災屯所近くにいた。屯所のシャッターをすぐに開けて待機し、消防団員が一人来たのですぐに消防車を動かして2人で水門の閉鎖に向かう。2日前の3月9日注3に起こった地震でも津波警報が出ており、水門を閉めに行ったが、その時はたいしたこともなかったので、その時点では「今回もその程度かと、判断」してしまっていたという。 サイレンを鳴らして走ったので、防災無線は聞こえず、その後は停電で防災無線が動かなくなったので情報は全く受けていない。Dさんはその後、避難場所に戻った後、再び国道近くまで降り、そこで砂埃が上がるのと遭遇して初めて津波が来ることを実感し、引き返している。

 35分という時間に、十分な情報が住民に伝わらなかったことで、一旦避難場所に避難したものの、またそこから離れたパターンが多い。 


 


2 35分のタイムラグ

2012年02月04日 | 地域社会起業育成支援

都留文科大学・高田教授の報告【其の三】


2 35分のタイムラグ

 今回の津波は地震から波の到着まで約35分の時間差があり、この間に地震に対してどのような情報を得たのか、また情報がない状態でも、これまでの経験からどのような判断下したかによって、退避行動に大きな差が生じている。

 地震発生当時自宅周辺にいた住民の多くは、防災計画で指定された町内5カ所の津波被害1次避難所へ移動している。この1次避難場所はいずれも海抜20mほどある高台が指定されている。

 海岸沿いの平地部にあった釜石自動車学校の教習生、職員、三菱自動車のディーラーなど事業所の職員は組織的に道地沢団地や片岸稲荷神社の避難所に避難している。

 釜石市内に居た住民も、この時間差を使って車で自宅に戻る時間があった。消防団に所属するAさん(59才男性)の場合、釜石の職場から片岸に帰り、防波堤の水門が先に来た地区消防団員によって閉じられたのを確認後、地区の自宅の上にある避難所、片岸公葬地(墓地)に移動している。釜石に買い物に出ていたBさん(64才女性)は一緒に出ていた女性(両石,室浜在住)と乗り合わせて帰宅。途中両石港を経由時に海水が引き始めているのを確認。室浜へ帰るのは不可能と判断し、両名は同じく片岸公葬地に避難して無事であった。

 地震発生時、室浜方面へのウオーキングから帰宅後間もなく地震に遭遇したCさん(74才女性)は、自家用車で一旦避難場所に移動するが、再び毛布を自宅に取りに戻って津波に遭遇する。自宅は片岸でも最も水門近くに位置する。消防団によっていち早く閉められた水門からは既に水が溢れ出ていた。隣に住む義理の弟が「来たあ、来たあ。」と叫びながら走って来たので、慌ててJRの線路上まで斜面を駆け上る。「波が跳ねて真っ黒い水がやってきた。」という。Cさんは目前に自宅が流れ行くのを見て、一目散に線路上を水に追われ、枕木に足を取られながら逃げている。(波で線路は完全に消失している。)

 釜石における津波の経験は1896年(明治29)明治三陸津波:死者6687,1993年(昭和8)昭和三陸津波:死者183人/行方不明224,1960年(昭和35)チリ地震津波:被害総額6億3千万円。これが語り継がれる3つの津波の経験である。1896年の後に堤防が建設され、最終的には昭和三陸津波の水位を基準に嵩上げされていたが、引き波の力で最も弱かった箇所が崩壊している。[i]この堤防の高さと、これまでの水没地点が人々の物差しであった。十分な対策がなされているという安心感が心の隅にあった。携帯電話などを通じた外からの情報の有無が35分の行動を決めている。住民の制止を「大丈夫。」と振り切って自転車で海を見に行った男性(60代)は行方不明となった。また一人暮らしであった女性(推定60代)は近所付き合いがほとんどなかったために、亡くなったのかどうかの確認が遅れ、1か月後の瓦礫撤去で家屋の下から発見されている。

 普段の避難訓練に必ず出席していた人々は全て避難場所に移動して助かったという話も聞かれた。



[i]1961年にチリ津波の復旧工事に来た技術者(69才男性)は、1984年に住居を構える。その判断基準が昭和三陸津波を想定した堤防の高さにあった。情報はこの話者による。


1 被害の概要

2012年02月04日 | 地域社会起業育成支援

都留文科大学・高田教授の報告【其の弐】


1 被害の概要

 釜石市片岸町はJR釜石駅を起点として45号線を約10km、車で約20分大槌方面に進むと鵜住居川河口に達する。河口より左岸北へ約1km続く海岸に沿いの集落である。鵜住居川は河口部で大きく右に曲がり、右岸は根浜海岸に沿って対岸に達する砂州(行政地割は鵜住居町)を形成していたが、現在は消失している。

  片岸町の集落は、鵜住居河口部、高台に造成された団地、3つの沢、そして45号線に沿った平地部分にあり、自治会は10班に分かれている。

 気象庁発表によると1446分に地震が発生,震源地は 三陸沖,   マグニチュード 8.8  ,深さ約20km。釜石市は震度6強。釜石市沿岸に最大の津波が達した時刻は1521分である。[i] 片岸町町内会の死亡/行方不明者は30[ii]。片岸町のある行政区である広域の鵜住居地区は人口6630人中、死亡者/行方不明586人。釜石市全体の死亡者/行方不明者が39,996 人 中937[iii]であるから死亡者全体の約62 %が鵜住居地区に集中している。(20112月住民基本台帳) 片岸地区の家屋は標高約15mあたりの家屋まで床上浸水しており、それより下方は全壊または流失した家屋が多い。



[i]津波情報(津波観測に関する情報)平成23年 3月12日19時39分 気象庁発表http://www.jma.go.jp/jp/tsunami/observation_04_20110312193944.html2012,1,23閲覧)

[ii]片岸町自治会による調査データ

[iii]釜石市 復興まちづくり委員会第1回 資料 被災状況及び取組み状況について 

http://www.city.kamaishi.iwate.jp/index.cfm/10,17683,c,html/17683/20110830-120021.pdf2012,123閲覧)


3.11 ―釜石市片岸町の記憶,津波前後 ― 

2012年02月04日 | 地域社会起業育成支援

都留文科大学・高田教授の報告【其の壱】

3.11 釜石市片岸町の記憶,津波前後  

 

 20111218日~21,北海道のNPO法人「ねおす」栗橋ボランティアセンターの依頼により、釜石市鵜住居地区、片岸町における震災被害について聴き取り調査を実施した。調査目的は地域の共有財産として記録すること。そして北海道庁の防災対策事業の一環として、津波被害の詳細な記録を防災計画に活かすことにある。

 調査対象は、片岸町内会188所帯(室浜を除く)を7ブロックに分け、住居の被災により避難所生活をされている世帯、被災を免れて集落に残っておられた世帯を抽出し、13世帯18人に対して行った。(平地のブロックは全戸被災している)調査者は環境・コミュニティ創造専攻から田中夏子,高田研。そして専攻4年生畑中健志,北海道大学大学院に進学している専攻1期生、村木伊織の4名で実施した。

 本報告では高田の聴き取った6世帯10名からの情報を元に、津波前後の避難/被災の状況について、その概要を報告する


都留文科大学・高田教授の報告

2012年02月04日 | 地域社会起業育成支援

これから連続投稿にて、

被災地支援活動で大変お世話になっている

都留文科大学高田教授の報告をさせていただきます。


経緯は以下の通りです(2011年12月5日の当ブログの記事抜粋)

「これまでの支援活動の中で被災者からいろいろなお話をボランティアスタッフはお聞きしてきました。しかし、まとまったお話をじっくりとお聞きする機会はこれまではありませんでした。 北海道の新しい公共の活動の一環として、この冬体系的に聞き取り活動を行います。発災から2週間程度を想定して、被災地は主として、ねおすスタッフの柏崎の実家がある(あった)壊滅的な被害を受けた片岸地区、その避難者を受け入れた栗林地区、そして被災地の消防団などです。どのような状況下で人々は避難をしたのか、どのような支援があったのか、初期の被災地の様子をお聞きし、今後の災害に備える資料を作ってゆきます。」

以下、本報告の高田教授からのコメントです。

「現在,調査の詳細な報告を作成中である。本稿は本誌のために津波前後の記録を切り出してまとめたものである。調査では地震から9ヶ月,悲しみの底から立ち上がろうとされている方々から、思い出したくない当時を想起してもらうことになった。この悲しみを後世の学びとするため、報告の作成に最後まで尽力していきたい。」