海外旅行・写真日記タイ・カンボジア編 by neuman

タイとカンボジアの海外旅行写真日記 バンコク、コラート、アンコールワット、プノンペン、アユタヤ、カオサンの安宿

セーン・セブ運河ボートの乗務員さんも合羽とヘルメットで完全装備

2005年06月28日 23時42分45秒 | 2005年タイ旅行その1バンコク
船が立てる波の跳ね返りが凄い。
運河脇の歩道は水がかからない様になっているが、時々フェイントでかかる時がある。
そうなると、全身がドブの臭いになって最低である。

この狭い運河をよくこのスピードでと思う速さで運河ボートは疾走する

2005年06月28日 23時31分57秒 | 2005年タイ旅行その1バンコク
はっきり言って無茶なスピードで走っています。

さて、最初ジム・トンプソンが、イスラム教徒からタイシルクの製法を習った時、それらは、はっきり言って、プリミティブな代物だったらしい。
彼がそれを非常に洗練された形に仕上げた結果、タイシルクは爆発的に売れ、そして彼は大きな財産を築いた。
その後、彼は1967年に休暇で訪れていた滞在先で、失踪。
このミステリーは結局解決されることの無いまま今日に至っている。

緑の少ないバンコクの街で運河沿いは以外に緑が多く残っている

2005年06月28日 23時21分33秒 | 2005年タイ旅行その1バンコク
この運河を走るボートに乗ってプラトゥナームまで行った時、小さな森かと思うほど木が繁っているところがあり以外だった。

写真にも写っているが、そろそろ火炎樹の花が咲く季節のようだ。
木が燃え上がっているかと思うほど真っ赤になったのを一度見てみたいと思っているのだが。

橋のたもとにあった、地元の人向けの屋台の食堂街が取り壊されていた

2005年06月28日 23時15分17秒 | 2005年タイ旅行その1バンコク
ここもアソークと同じように、空き地に勝手にバラックの店を作ったという感じの食堂だった。
タイも、こういった不法占拠みたいなものに厳しくなっているのだろうか。
なんでもあり、といった感じだったタイ社会が、どんどん先進国化していくのを今回感じることが多かった。

すっかり立派になったセーン・セブ運河に架かる橋

2005年06月28日 23時09分11秒 | 2005年タイ旅行その1バンコク
昔は明らかに、運河がイスラム教徒の居住区を、隔離している感じがあった。
この地域は、むしろスラムと呼んだほうがいいような、貧しい地域である。
この地域の住民のために、橋を架ける予算が付いたということは、タイ社会の変化と考えていいのだろうか。
細い路地を歩いてみたが、この地域は前回とは何の変化も無かった。

ジム・トンプソンは運河の対岸のイスラム教徒からタイシルクの製法を学んだ

2005年06月28日 23時01分14秒 | 2005年タイ旅行その1バンコク
この写真の橋は、最近出来たもの。
去年までは、木の杭と、粗末な板で出来た、手作りの小さな橋があるだけだった。

ジム・トンプソンの家そのものが、アユタヤから、この運河を使って運ばれてきたという。
この写真の右手がイスラム教徒の居住区。
かれは、ここのイスラム教徒から、タイシルクの技法を習ったそうだ。
小さなモスクが、トンプソンの家からも見える。
彼の家の本来の正門は、運河に向かって開かれていた。
昔は、(といっても1950年代の終わりごろまで)この運河で、染色したタイシルクを洗っていたそうだ。
「今はご覧のとうりのどぶ川ですが。」とガイドさんも言っていた。

バンコクはスクンビット通りの裏側にあるセーン・セブ運河の物語

2005年06月28日 22時46分42秒 | 2005年タイ旅行その1バンコク
ジム・トンプソンの家の前をそのまま通り過ぎると、このセーン・セブ運河に出る。
裏道を探索してると、不意に運河に出る、といった感じが面白い。
この運河に興味を持ったのは、ジム・トンプソンの家を見学に行った際の、ガイドの説明だった。
彼の家は、まさにこの運河に面して建てられ、それはタイシルクで財をなした彼の人生と不可分のものだったからだ。