新・南大東島・沖縄の旅情・離島での生活・絶海の孤島では 2023年

2023年、11年振りに南大東島を再訪しました。その間、島の社会・生活がどのように変わっていったかを観察しました。

月桃ムーンピーチ(2)

2023-07-20 18:40:40 | 旅行

  「月桃ムーンピーチ」は簡易旅館に分類されれる宿屋ですが、設備は一応揃っています。一段目の写真は、共同台所にある流し台と調理台で、流し台は食器を洗うのと洗顔、歯磨きにも利用するようです。二段目の写真は調理台で、加熱器具はカセットコンロでした。このコンロなら移動させることができるので、庭先でBBQをするには便利でしょう。ボンベは宿泊者が持参するようです。三段目の写真は共同で使用するトイレとシャワーです。トイレは水洗ですが、温水洗浄便座は使えません。これは島のホテルに共通していることなので仕方ないでしょう。四段目の写真はシャワー室です。或るブログには、窓に目隠しのカーテンが無いので外から丸見えでした、という投稿がありました。現在は解消されているでしょう。

 


島一番のスーパー、Aコープ

2023-07-18 15:17:27 | 旅行

 島に住む人達に食料品を供給する唯一のスーパーは、JAおきなわが運営する「Aコープ南大東店」である。在所集落の南のはずれに位置し、住宅街からは少し離れているので不便であるが、生鮮食料品の品数が多いのはここしかない。在所集落にある3軒の雑貨店でも食料品を販売しているが、弁当、菓子類、飲料水が主で有り、生鮮食品は僅かしか扱っていない。ただ、Aコープは午後7時で閉店するが、雑貨店は午後11時まで営業しているので、夜間などに足らない食料品を購入する場合に利用されているようだ。
 一段目の写真はAコープが入居している建物で、平屋の右半分はJAおきなわの事務所に利用されている。Aコープ南大東店は、イオングループが運営するスーパー「まいばすけっと」の大きめの店舗と同じくらい広さであった。二段目の写真は店内の陳列棚で、各商品の数量は少ないが、種類は意外と思えるほど多かった。多品種少量販売といったところでしょう。Aコープの反対側には巨大な石造りの倉庫があり、相当の量の食料品が備蓄されているため、品切れになることはない。ただ、台風や強風により定期船が到着しなくなると、生鮮野菜の棚が真先に空っぽになり、煙草が品切れになるとのことです。
 三段目の写真は野菜の棚で、本州から搬送されてきたものが主流で、中には北海道、東北で収穫された野菜も多く見かけられた。島の農地で野菜を栽培できるのではないかと考えるが、年中熱帯のような気候のため高原野菜などは栽培できない。島で栽培している野菜はカボチャ程度なのです。もしかしたら、少量ではあるがキュウリ、トマトなどを栽培している農家もあると思われるが、自家消費程度ではなかろうか。
 四段目の写真は精肉を販売するショーケースで、ほとんどが冷凍肉のようです。那覇から食肉のブロックを仕入れ、奥の部屋で小分けにして販売していると思われた。島では食肉牛を2百頭(2021年)飼育しているが、屠殺場が無いため島内での消費には回っていないのです。養豚している農家は皆無のようなので、豚肉は全量島外から搬入していると考えられる。山羊は66頭、ニワトリ500羽(2021年)が飼育されているため、山羊肉と鶏肉は島内で流通しているようです。特に、山羊肉については島の飲食店ではヤギ汁とか焼き肉などに料理されているので、観光客には珍しがられている。
 このように、食料品の殆どを島外に頼っているため、商品の価格には運送費が上乗せされる。北海道、長野などで生産された食料品は一旦東京などに出荷され、東京、大阪あたりからフェリーで那覇にまで搬送され、さらに南大東島まで船で搬送されている。これでは食料品の価格が本州に比べて割高になるのは避けられず、離島の宿命と言える。島に住んでいる人達からは「物価が高くて困ってしまう」という愚痴をしばしば耳にした。観光で短時間だけ滞在する旅行者にとって島の物価には関心が無いが、日常的に食料品を消費する居住者には大変な問題である。
 Aコープでメモしてきた食料品の価格を一覧にしてみた。いずれも2023年9月24日の税抜き価格である。
 野菜
  長野産白菜 1/4カット    120円
  長野産キャベツ   1玉    330円
  北海道産玉ねぎ   2個    250円
  メキシコ産アボガド 1個    230円
  ゼスプリのキウイ  1個    178円
 調味料の元
  日本ハム 回鍋肉の元      398円
  日本ハム 八宝の元       424円
  日本ハム エビチリの元     307円
  ミマヤ かつおぶし顆粒 1Kg 693円
  キューピー シザースサラダドレッシング  480円
 缶詰類
  デルモンテ カットトマト 400g  146円
  キッコーマン 濃い口醤油 500ml 257円
  キャンベルスープ     300g  193円
  雪印 北海道バター    200g  566円
  クノール カップスープ コーンクリーム 3袋  249円
 飲料水
  ペプシコーラ    600ml 110円
  ファンタオレンジ  500ml 128円
  コカコーラ     350ml  93円

 それぞれの価格は馬鹿高くはないが、少しずつ高いのである。しかし、それぞれが積もり積もれば生活を圧迫してくる。離島であるからといっても、ノンビリとした生活が送れるとは限らないのである。
 なお、Aコープでは鮮魚はあまり扱っていなかったが、南大東村漁業組合では不定期にとれたての鮮魚を直売しているらしい。島の周囲ではマグロ、サワラ、ナワキリの恰好の漁場であり、島の飲食店では生のマグロを食べられることで有名である。

 


Aコープの備蓄倉庫

2023-07-16 19:32:51 | 旅行

 Aコープの道路を挟んで反対側には石造りの巨大な倉庫がある。これはAコープで販売する商品の保管倉庫である。定期便は週一回の入港のため、次の入港があるまでに販売する分量の商品を保管しておかなければならないためこのような倉庫が必要となった。壁を石組みで造り上げた頑丈な倉庫は、強烈な台風による被害を防ぐためである。内地のコンビニエンスストアでは毎日3回程度のトラックによる配送があるため、バックヤードは狭い。このように大きな倉庫を必要としているのは離島の宿命と言える。二段目の写真は倉庫の内部であり、実際に貯留されている商品はこの写真の数倍以上はあるようだ。
 定期便が予定通りに入港していれば問題は無いが、台風などで運行が遅れ、一ケ月も運休すると忽ち品切れになる。Aコープの商品棚からは商品が消えてしまうという。真先にに売れ切れるのは生鮮食料品で、煙草は買い占められるらしい。
 この石造りの倉庫は、戦前に島で製糖業をしていた東洋製糖が大正時代に建設したらしい。「らしい」という表現をしたのは、この建物は不動産としては未登記物件なのであるからだ。建物の構築方法が西港にあるボイラー小屋(国指定登録文化財)と良く似ていることから、ボイラー小屋が建設された1924年前後に建築されたと推定される。すると、この頃の島の所有者であった東洋製糖が建設したようだ。
 現在、この倉庫の固定資産税はJAおきなわが支払っているので、所有者はハッキリしているが、JAおきなわの所有物になった経過には複雑な事情がある。戦前の南大東島全域は私有地であり、最初は開拓者の玉置半右衛門が支配する玉置商会の所有であった。1918年に東洋製糖へ売却され、さらに、1927年に東洋製糖は大日本製糖に吸収合併された。終戦時には島の全部は大日本製糖の所有物であったが、1946年6月になると米軍による軍政府により全財産が接収された。つまり、民間人の持つ家屋や私財を除いて、島全体が米軍の管理下に置かれたことになった。この頃は沖縄本島との定期便も無く、砂糖きびを育成して粗糖を生産しても販売する手段が無く、農家はさつまいも等を栽培してそぼそぼと自活生活していたらしい。翌1947年1月になると農業協同組合が設立され、本格的な戦後の復興が始まった。さらに、1950年9月には現在の大東糖業が設立され、製糖設備などを農協から引き継ぎ、戦災で破壊された工場の再建が始まった。
 と、ここまでは「南大東村志」に記録されているのだが、農協が設立されて大日本製糖が所有していた倉庫がどのように軍政府から農協に引き渡されたのかは記録されていない。また、農協より後に設立された大東糖業は、大日本製糖の所有物であった倉庫の所有権をなぜ主張しなかったのであろうか。このあたりが曖昧なのである。何れも戦後のどさくさに紛れて資料が逸散したのか、契約などなしに馴れ合いで資産が譲渡、移転されたのではないかと推測される。実は、大東糖業が設立されてから農地の所有権の問題が発生し、長年の問題が解決したのは1964年になってからであった。こうした戦後のどさくさと土地所有権の問題があったことから、この頃の資料をわざと残さなかったのか廃棄したのではなかろうか。
 いずれにせよ、倉庫の登記簿が無いため真相は不明である。

 


島の小中学校

2023-07-14 18:44:50 | 旅行

 南大東島には村立の南大東小学校、南大東中学校があり、併設された南大東幼稚園もある。校舎は池之沢集落の外れにあり、1923年からこの場所で学校教育が継続されてきた(学校教育はそれよりも前に別の場所で行われていた)。島内には高等学校が設置されていないため、中学校を卒業するとほぼ全員が那覇の高等学校に進学している。少年少女が勉学のため故郷を離れ、新天地で生活するのは切ない思いがある。このような故郷を離れなければならない少女の心情を描いた「旅立ちの島唄~十五の春」という映画が制作された。監督は吉田康弘で、2013年に公開された。船便しかなく、通信手段は内地と違って大幅に到着が遅れる手紙しかなかった時代では、さぞかし心細かったのではなかろうか。しかし、昨今では空路が日常的に利用でき、電話、インターネットなどの情報伝達方法が発達したため、島を離れても昔ほど大きな感慨を持つことはないであろう。
 一段目の写真は正門であり、幼稚園に3歳から通うとなれば12年間はこの正門を通過することになる。正門の前の道路には島唯一の交通信号機が設置してあり、離島の信号機は珍しいので、旅行記やブログなどでは必ず紹介されている。
 二段目の写真は小学校の校舎であり、写ってはいないが左側には中学校の校舎がある。南大東小学校の全生徒は87名、南大東中学校の全生徒は36名であり、合計123名が在学している(2022年度)。
 三段目の写真は小中学校共通の屋内運動場で、2021年に竣工したので私が訪問した時はピカピカの新しい建物であった。手前が運動場であるが、生徒数に比べて遙に広い。これだけ広いのには歴史的な理由がある。南大東村誌から拾った、各年代における学校の敷地面積と生徒数は次のようになる。

          敷地面積               生徒数
  1903年  寺子屋式の私塾の開始          32名
  1909年                     149名
  1915年                     346名
  1916年                     358名
  1925年  13596平米
        (運動場は10296平米)
  1927年                     600名
  1932年  20348平米
        (運動場を6752平米拡張する)
  1933年                     738名
  1944年                     725名
  1945年                     247名
  1973年                     536名(小中)
  1985年  33948平米            233名(小中)
  2023年  42171平米            123名(小中)
  (戦前の生徒数は尋常科のみか高等科も含めたのか不明、戦後は小中学生)

 1915年から1973年の間は尋常小学校、中学校の卒業生数しか統計が無く、この間の在籍生徒数は不明である。1985年以降は在籍生徒数の記録が残っているが、1945年から1984年の間で記録が残っているのは1973年だけである。1973年の在籍生徒数は536名であったが、この数値が戦後最大の在籍生徒数であったとは思われず、実際にはもっと多い時期があったと考えれる。
 村の人口が最大であった年度は1960年で、3513人を記録している。1973年の人口は1879人に減少している。全生徒の数が全住民の人数と比例すると仮定するなら、1960年の在籍生徒数は1973年に比べて86%も多かったことになり、1千人を越えるマンモス校であったことになる。これだけ多人数の生徒を収容するためには、この広さの運動場が必要であった。現在の運動場が全生徒数に比べて広大なのは、島が砂糖産業が好況で、島には生徒が多く居住していた時代の名残なのである。
 なお、2023年に役場が発表した村勢要覧によれば、学校の敷地面積が増加している。数年前、今後の教育施設の拡張のため、三段目の写真にある屋内運動場の左側の砂糖きび畑を買収したからである。
 四段目の写真は小学校の脇に併設された南大東幼稚園であり、2022年度で4歳児、5歳児合わせて32人を預かっている。2023年度からは2歳児も預かる、と告知している。また、幼稚園の他に、村役場のそばには保育園があり、こちらでは1歳半児から預かっていて、2022年度は35名の園児が在籍している。都会で問題となっている待機児童はおらず、育児については島では至れり尽くせりである。

 


教育の歴史と出世した人達

2023-07-12 13:45:06 | 旅行

 日本国内で義務教育が開始された年度は何時であるか、については議論があるが、「小学校令」が公布された1886年ではないかと言われている。しかし、南大東島での教育は本州から遅れていた。その原因は複数あり、第一の理由は「生徒がいなかった」ことである。開拓が始まったのは1899年であり、翌年に子供7名が上陸し、年々子供の人数は増えていったが小学校を設立するまでには至らなかった。また、島全体が私有地であることから行政機関が無く、小学校令による学校の設立義務が及ばなかった。島に村制が施行され、自治行政による教育が始ったのは戦後の1946年からであった。
 開拓初期には医師などの知識人が寺子屋式の私塾を開き、少人数の生徒を教育していたが、片手間の業務であったため長続きしなかった。もっとも、この頃は内地であっても地方では教育に熱心ではなく、就学率も低かった。島に教育機関が無く、児童が教育を受けられないという実情に開拓者の玉置半右衛門は憂い、1908年に同じ出身地の八丈島から沖山岩作を招聘して校長にあたらせた。この時は校舎は無く、民家を利用しており、生徒数は78名であった。この年に玉置が教育施設を設置したのは、前年の1907年に公布された第5次小学校令に関連しているのではないかと推測される。第5次小学校令では、義務教育期間が6年に定められ、教育の義務化が強化されるようになった。さらに、内地での就学率が90%を越えることになり、南大東島でも内地と同じ教育レベルを維持しなければならない風潮になったからであろう。
 その後、生徒数も増加し、校舎を建て増しして教育機関としての体制が整ったため、1915年になって校名を「私立南大東島玉置尋常小学校」として認可された。当時、離島の小学校が私立というのは珍しいことであった。玉置とは当時の島の所有者であった玉置商会から命名された。島の所有者が玉置商会から東洋製糖に移管された後では、校長以下教員一同は東洋製糖の職員として雇用され、授業料は免除されていた。その後、島の土地が東洋製糖から大日本製糖に譲渡されてからも同じように、小学校は製糖会社の支援により運営されていた。私立であって民間企業が運営する小学校は極めて特異なものであった。
 一段目の写真は、小学校校舎前に置かれた初代小学校校長の沖山岩作の胸像である。沖山は1908年に八丈島から赴任し、苦労して小学校の創設したが1913年に急逝された。胸像は小学校創設期における沖山の尽力を顕著して建てられたものであった。
 南大東村の教育方針は「教育立村」であり、「人材をもって資源となす」が村是となっている。二段目の写真は玉置公園にある石碑で、村制50周年を記念して1996年に建立された。教育により優れた人材を育成し、島を繁栄させよう、という理念は正しいものであり、役場では「子育て支援事業計画」を実施している。ただし、ネットで「教育立村」と検索すると、結構な数の村が同じ村是を定めているので、全国の他の村でも同じような理想を掲げているようだ。南大東島の教育で問題になるのは、島内に書店と図書館が無いことである。書籍に触れなければ向学心や探究心は育たない。1970年代には節子書店という書店があったが、人口の減少に伴い閉店した。人口1千人強の南大東島では、全国の過疎地と同様に書店経営は成り立たたない。このため、沖縄県立図書館では「空飛ぶ図書館」と称して移動図書館を実施しているが、島に巡ってくるのは年一回である。のんびりした風土もあって、教育環境は厳しいようである。
 三段目の写真は校門の坂を登って運動場に入る手前に建てられた石碑で「夢に向かえ」という文字が刻まれている。これは小学校創立90周年、中学校創立50周年を記念して1998年に建立されたものである。生徒達は登校の際にこの標語を見て、毎日激励されているのであろう。全国の小中学校にも生徒を励ますような石碑は存在するが、それらは「夢に向かって」とか「夢に向かう」といった表現が多い。本校のように強い調子の標語は珍しいのではなかろうか。
 離島の小さな小中学校であるが、全国的に出世した人物もみられる。日本書家として国際芸術文化賞を受賞された「城間茂松」、オペラ演出家で芸術選奨文部大臣賞を受賞した「粟國(あぐに)安彦」は功労者として南大東島のホームページに掲載されている。その外にも、文教大学教授になられた「佐々木渡」、世田谷区役所助役になられた「笹木功」がいる。一高、東大法学部を卒業して弁護士になられ、昭和電工事件等の有名事件を扱われ、後に東京第一弁護士会会長となった「浅沼澄次」も小学校に在籍していた。浅沼は八丈島の生まれで、父親の転勤に伴い南大東島に居住し、小学校に入学した。ただ、この時期は県が認可した正式の小学校ではなく、玉置が開設した私塾のような形態の学校であったらしい。また、浅沼は短期間で島を去り、卒業したのは四ツ谷小学校であった。