新・南大東島・沖縄の旅情・離島での生活・絶海の孤島では 2023年

2023年、11年振りに南大東島を再訪しました。その間、島の社会・生活がどのように変わっていったかを観察しました。

ホテルよしざと

2023-07-10 16:51:48 | 旅行

  ホテルよしざとは島で唯一の近代的なホテルであり、観光客の大半はここに宿泊している。島内で唯一の鉄筋コンクリート4階建てで、食堂も完備している。在所集落の中心地に位置していて、歓楽街に出掛けるには便利である。前回の旅行の際にはこのホテルの別館に宿泊したが、今回は満室で宿泊できなかった。その理由は、4年ぶりに豊年祭が開催されたので、この時期に合わせて親戚を訪問する人達が予約したからであった。また、豊年祭を目的にした観光ツアーにより多数の観光客が来島したことも理由である。
 このホテルは創業者の吉里一家の家族で運営されていて、カウンターの奥にある一階が家族が居住する部屋であった。前回の旅行の時、部屋からは赤ん坊の鳴き声が聞こえてきた。今回の旅行の時には、その子は中学生になっていたはずである。
 このホテルの創業者である吉里正清は久米島の生まれで、南大東島に移住して農業に従事することになった。砂糖きび畑を耕作していたが、努力家で起業精神があったので、農業だけに飽き足らず島内で各種の新規事業を立ち上げた。NHKの本放送が始まる前の1976年に有線テレビ放送会社を起こしたり、砂糖きびからラム酒を醸造するグレイス・ラム会社の創設に参画したりし、最後は南大東商工会会長に就任した成功者であった。吉里は、島内には民宿程度の宿泊施設しかないことに目を付け、観光客誘致のために内地と同じ規格のホテルを開業することにした。それが有限会社吉里商会の保有するホテルよしざとで、競合するホテルがなかったため大当たりした。
 これがホテルよしざとの経過であるが、2023年2月になると経営者が高齢になったため法人は売却され、新しい社長には地元で建設業を営んでいた山城大輝が就任した。この売却により、本館、新館、別館の宿泊施設の全ては新しい経営陣によって運営されることになった(2023年8月3日版、沖縄タイムスによる)。地方の小さな村である南大東島で事業が丸ごと売買されるのは珍しいことではないらしい。その理由は、南大東島には島外からの移住者が多いことである。202年10月に住民登録されている居住者1184人の内、南大東村が本籍地の居住者は635人であった。つまり、半数近い居住者は島外から移住した人達なのである。本籍地が一番多いのは沖縄本島であるが、石垣島、宮古島、伊是名島などが本籍地の移住者も見られる。かって島に人口が多かった時代には、各島の出身者による同郷会が結成されていたこともあったらしい。丁度東京に仕事を求めて各地から労働者が上京し、県人会が結成されたようなもので、南大東島の居住者には東京の上京者と同じような感覚があるようだ。
 本州の田舎では、老舗とか名門と呼ばれる企業があるが、事業は代々家族が引き継ぎ売却されることは少ない。しかし、東京では人の出入りが激しく、事業は一つの経済活動と考えて日常的に売買が行われている。事業の承継については特別な感慨は無く、第三者に引き渡すことは現代的なものと割り切っている。南大東島でも人の出入りが多く、経済的な感覚は都会と同じようになっているらしい。
 このため、南大東島に移住してある程度の目標を達成したり、老齢になったりした場合、事業を売却することは東京と同じような感覚で行われているようだ。南大東島生まれで、南大東島育ちの或る古老は、島内で事業の売買が行われることをこのように説明していた。
 「南大東島は開拓が始まってから百年強で、歴史が浅い。本州のように5代、6代と長く続いた家系はなく、郷土に対する愛着が薄い。島に移住する理由の一つは、沖縄本島よりも収入が良いからで、壮年期に良く働いて資産を蓄え、老後の生活の目処が立つようになると、故郷に戻るか沖縄本島に移転する人が多い。」
 なるほど、数千年に及ぶ沖縄の歴史に比べると南大東島の歴史は極めて浅い。歴史はあるがひなびた沖縄の他の離島に比べると、南大東島は現代的な社会であると言える。或る研究者は、南大東島の社会構造を「都市化された離島」と命名されたが、なるほど穿った見解である。

 


生活福祉センター

2023-07-08 17:18:23 | 旅行

 国内では小子化により高齢化社会に入っている。高齢化率とは人口に占める65歳以上の人数の割合で、高齢化率が7%以上は高齢化社会、14%以上は高齢社会、21%以上は超高齢社会と呼ばれている。2021年における日本の高齢化率は29.1%となり、世界でも高齢者が多い国となっています。また、日本は他国に比べて急激に高齢化社会になった経緯があり、年金、介護保険などの諸問題が山積みとなっています。
 全国の地方集落では過疎化が進むと共に住人が老人ばかりとなり、社会インフラが機能しなくなる問題が発生しています。南大東島でも高齢化社会問題が発生しているのですが、意外にも高齢化率は全国平均に比べて低いのです。2021年度の人口は1191人であるのに対して65歳以上の人口は326人で、高齢化率は27.3%です。高齢化率が低いのは未成年者の人口が多いためと思われる。
 2022年9月における島の人口は1200人であり、19歳以下の人口は232人で、未成年者の割合は19.3%である。2020年度における国内総人口に対する19歳以下の人口比率は16.3%であり、全国平均に比べで南大東島における若年層の比率は3%高いことになる。島に未成年者が多い理由として、保育園、幼稚園が完備していることが推測される。乳児、幼児を擁護してくれる施設があることで、親は安心して子供を育てることができるからであろう。
 さて、島でも高齢者が多いのは現実で、2021年度における要支援1から要介護5の介護保険認定者は67名であった。介護保険認定者数は年々増加しているが、高齢者の予備軍である50代、60代の人口が多いため、これからも増加していくと予想される。
 こうしたことから、島にも介護施設が設置されている。一段目の写真は、村役場の脇に開設されている高齢者生活福祉センターである。入口に飾りが付けられた山車が置かれているが、前日に豊年祭に介護者を大東神社に参加させた名残である。二段目の写真はセンターの入口であり、この施設は社会福祉団体の福祉協議会が運営していた。
 三段目の写真はデイサービスのスケジュールを説明したポスターで、午前9時から午後5時までの間の活動が示されている。この施設で実施しているのはデイサービスと在宅高齢者への配食サービスが主で、人手不足のためショートステイは積極的ではなさそうであった。また、島での医療体制が貧弱で、医師、看護師による介護が難しいことから、要介護3以上の高齢者は介護サービスの整った那覇の介護施設に搬送しているとのことであった。
 四段目の写真では、「詐欺に注意!」の標語が貼られていた。オレオレ詐欺がワザワザこの離島までやって来るとは思われないが、警告のために一応は貼ったのではないだろうか。

 


スーパーミナミ

2023-07-06 19:32:10 | 旅行

 在所集落のほぼ中央で、村道が交差する角には雑貨店のスーパーミナミがある。空港からつながる村道とスナックなどがある歓楽街に続く村道が交差した場所であり、住民が村内を移動する際には必ず通過する交差点である。東京で言えば、銀座4丁目の和光のようなものである(比較の対象が違い過ぎるが)。村で商売をするには絶好の場所である。
 1970年の地図では、この場所には喜久盛商店という雑貨店があったらしい。前回の旅行の時には「大盛商店」という屋号であったが、今回は「スーパーミナミ」に変わっていた。店舗の外観は変わっていないが、経営者が変わったのである。大盛商店を運営していた有限会社大盛は2016年に店舗を丸ごと売り渡し、株式会社大詠の所有になり、店名は「大詠商店」となった。その後、法人は売却され経営者が変わり、2020年に店名が現在の「スーパーミナミ」となった。
 7年間で経営者が3人も目まぐるしく変わったが、交通の要所であるため商売するには魅力のある立地と判断されたのであろう。地方のどの町村でも、顧客が必ず集まってくる場所(盛業地と言うらしい)があり、そのような場所は明治の昔から同じ商店が根を張っていていて動かないものである。何らかの事情で盛業地が空いたなら、直ちに土地の購入者が現れ、アッと言う間に売れてしまう。商売に魅力のある土地とはそんなものであり、スーパーミナミの土地も盛業地なのである。
 店舗には日常生活に必要なあらゆる商品が並べられていた。野菜、食肉などの食料品も並べられていたが、Aコープに比べると見劣りする。買い忘れた食料品を急いで手に入れるような時に利用されているのであろう。弁当類もあり、本州のコンビニストアーと全く同じと考えてよい。営業時間は午前6時30分から午後10時30分となっていて、コンビニと全く同じ機能である。多分、在所集落の一等地で誰かが経営を引き継いで、これからも運営されているのであろう。

 


貨客船「だいとう」

2023-07-04 19:33:00 | 旅行

 南大東島には人が住んでおり、生活が営まれているので、生活必需品が必要である。食料、衣類を始めとして各種の商品を内地から移送しなければならない。また、島で生産した粗糖、糖蜜を現金化するために内地に搬送しなければならない。このため、島と本州との間には、物資を運送すると共に人の移動のために定期船が運行されていた。
 戦前の島全体は製糖会社の所有であったため、製糖会社が船舶会社と契約し、月1回の定期運行を行っていた。雇船は1千トン以上の比較的大きな船で、東京を始点とし、大阪、門司を経由して南大東島に到着していた。那覇との間は年1回の定期便が運行していた。このため、那覇から発信した葬儀を伝える郵便が島に到着するのに半年かかった、ということもあったらしい。
 戦後になると沖縄県は米軍が支配する沖縄民政府により統治された。島と沖縄本島の間を自由に運行することができず、米軍用船により食料などが運搬されていた。1951年になると米軍の規制が解かれたので、沖縄本島からは多数の船舶が航行できるようになった。しかし、これらの船舶は百トン程度の小型木造船ばかりであったようで、島の復興には程遠い輸送能力であった。
 定期航路の運行は島民の願いであったが、1975年になって合資会社大城海運が5百トンの貨客船「協栄丸」を投入することで永年の問題が解消した。しかし、大城海運の経営が傾いたため、1986年に第三セクターの大東海運株式会社を設立して「協栄丸」を譲り受け、船名を「大東丸」に変更した。大東海運の出資者は、南大東村、北大東村、大東糖業、北大東糖業、JA沖縄である。定期航路が存続しなければ孤島の生活は維持できないが、那覇から4百キロも離れた離島への航路であっては民間会社による運営では経済的に難しかったのであろう。この後、島への物資供給は大東海運のみが担うことになった。1990年になって699トンの新造船「だいとう」(初代)に変わり、さらに2012年に690トンの二代目「だいとう」が就航した。
 一段目の写真は2023年9月24日における西港での荷役作業を撮影したものである。「だいとう」が南大東島に入港するのは週一回であり、旅行の日程と合わないと作業風景に出会うことはない。前回の旅行の時は船が出港した後であったので観察できなかった。
 二段目の写真は「だいとう」を舳先から撮影したものである。旅客定員は55名であるが、時化や強風により出港日時が変わるため余程の離島マニアでなければ利用することはない。「だいとう」にはガソリンやプロパンガスなどを積載することもあるため、危険物搭載の許可を取得している。また、島では処分できない廃棄物を積載するため、産業廃棄物輸送の許可も取得している大変な船舶なのである。
 三段目の写真は「だいとう」が係留されている状態を示すものである。南大東島は太平洋上に隆起した島で、海岸は無く、岸から下は2千メートルの深海である。このため防波堤や港を建設することはできない。また、何も遮る島影が無いため、岸には強風が吹きつけてくる。船舶を岸壁に接岸しようとすると、風や波により船腹が岸壁に押し付けられて破損することになる。このため、「だいとう」の船首、船尾のそれぞれにロープを張り、海側のロープは沖合のブイに結び付け、岸壁側のロープは岸壁のビット(係留用鉄杭)に引っかけ停船させる。つまり、四方のロープをそれぞれ引っ張ることにより、宙づりになるようにバランスを取ることで停船させるのである。この状態を維持し、旅客、貨物をクレーンで積卸しすることになる。なお、三段目の写真で、岸壁が二段になっていて、それぞれにビットが固定されているのが見える。これは地球温暖化により海面が上昇したため、岸壁の嵩上げ工事をしているためである。下段の岸壁は破砕し、上段にある岸壁がこれから使用される岸壁の高さとなる。
 四段目の写真は自動車を荷卸ししているものである。那覇から西港までの運賃は4~5万円らしい。また、島で廃車となった自動車も同じように「だいとう」の搭載され、那覇まで搬送されている。旅客はカゴに入り、カゴをクレーンで釣り上げて上陸している。この方法の上下船は全国でも珍しいため、離島マニアなら一度は体験してみたいらしい。ここでカゴに乗って上下船した、という旅行記は各種のブログに掲載されているのでそちらを参照されたい。
 なお、「だいとう」に積載できるのは普通自動車程度の大きさまでなのだが、10トントラックや大型農業機械を那覇から搬送する場合はどのようにするのであろうか。そのような重量のある大型の自動車や機械を搬送するには、専用の台船に搭載し、ダグボートで台船を4百キロの海路を延々と曳航するのである。離島の生活、産業を維持させるためには大変な労力が必要なのである。

 


貨物の受け取り

2023-07-02 18:28:55 | 旅行

  自動車、建材などの大型の貨物は「だいとう」の甲板にそのまま搭載するが、小型の貨物はコンテナーに混載されて輸送される。クレーンで船から岸壁に積み下ろされたコンテナーはフォークリフト車で少し高台にあるヤードに移送され、ここで貨物は荷主に引き渡される。一段目の写真はヤードの全景で、雨水をしのぐ鉄骨の屋根が設置されていた。前回の旅行の時、ここのヤードはコンクリートで固められただけであった。この屋根は最近になって建設されたようだ。ヤードに並べられたコンテナーの扉はそれぞれ開放され、荷主は発送した貨物を持ちかえることになる。
 三段目の写真は、荷主伝票を受け取るための伝票置場である。古いコンテナーの中に箱が置かれ、その中に当日到着した貨物の伝票が置かれていた。四段目の写真がその伝票の束で、ここから荷主が自分の伝票を選び、ヤードの担当者に確認させて貨物を受け取ることができる。セルフサービスの受け取りである。しかし、この方法では他人の伝票も丸見えとなり、他人が発送した商品が判ってしまい、情報管理からして都合が悪い。このため、2024年からは、荷主伝票はヤードの隅にある港湾事務所(なぜか運営しているのは村役場の港湾業務課であった)で係員から受領する方式に変わった。