いわきアッセンブリー教会ブログ 

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母の日によせて

2017-05-12 | イベント

 ゴールデンウイークも終わり、忙しく過ごされているのではないでしょうか。
5月はゴールデンウイークの他にも「母の日」という重要な日がありますね。

 一人の母を今日は紹介させて頂きます。

 1912年、高知県で生まれた田内千鶴子は、朝鮮総督府の官吏であった父について7歳で韓国の木浦に渡り、
文化の違う朝鮮半島での暮らしが始まりました。木浦で高校を卒業し、母校で音楽教師として働くようになり、
それと同時に木浦の孤児院(児童養護施設)「共生園」でボランティアを始めました。

当時、朝鮮半島は日本の圧政下にあり、貧しさと戦争により町は崩壊し、人々の心には希望もなく堅く閉ざされていました。
孤児の世話は行き詰りは当たり前でありましたが、千鶴子はそこで共に働く、教会の牧師ユンと共に懸命に活動したのであった。
その後、二人は結婚したのであるが、二人の結婚に対して周りの強い反対があったことは当然のことであった。
日本人と韓国人 そこにあるのは、、、怒り、憎しみ、差別、偏見、

しかし千鶴子の母は「結婚は国と国がするのではなく、人と人がするものです。神様のもとに、韓国人とか日本人とか区別はありません。」
と言う言葉を語ったそうだ。

共生園の子どもたちは、ユンと千鶴子に愛されて育ちました。千鶴子はオルガンを子どもたちに教えました。

子どもたちが家族との別れの寂しさや悲しみ、そして満足に食することもできないひもじさに苦しむ時、
オルガンを弾いて一緒に歌い、子どもたちを励ましました。千鶴子の献身的な愛は子どもたちと周囲の大人たちをも
心打つものがあった。

しかし、1950年に朝鮮戦争が勃発し、夫ユンが消息不明となってしまいます。
一人残された千鶴子は、孤児たちを養うために、無我夢中で働きました。
自らリヤカーを引き、食料を集め、夫の帰りを信じて待ちながら、子どもたちを守り続けました。

懸命に働き続ける千鶴子に追い打ちをかけるように苦しめたものは、日本人という「偏見」であった。

そんな千鶴子の唯一の慰めかつ拠り所は神であった。

1965年、千鶴子は木浦市民賞を受賞し、国を越えた愛は全国に広がっていった。
30年間で3000人の孤児を育てた千鶴子。1968年10月31日召天。その日、彼女の死のゆえに
「木浦は泣いた」と伝えられるほどでした。

今も共生園において彼女が残した「愛」は残っています。
死んでなお、その豊かな実を結び続けているのであります。

千鶴子の愛の足跡は今を生きる私たちに何をものがたり、教えてくれるでしょうか。。。


私自身、孤児院で育った者として、彼女は母として親近感が持てます。

施設の母は、決して善人ぶらず、おしつけがましくなく、自分が認められたいために子どもの世話をしてはいなかった。
ただいつも、愛の眼差しで私を見、真に向き合ってくれた母であった。

母の日、それは私にとって特別な日です。母がいなければ今の私は存在していないかもしれないから。。

今、家庭を持ち、献身的に働く妻に心から感謝したい。
同じように、教会の母たちにも 心から感謝。。
娘が保育園に通っています。保育園の母にも感謝。。
義理の母にも感謝します。
私を案じて関わっておられる母にも感謝します。

母の献身的な愛は偉大です。。







人生において

2017-05-09 | 日記

「人生において何より難しいことは、嘘をつかずに生きることである。そして自分自身の嘘を信じないことである。」
ドストエフスキー

彼の言葉は善に対して、正しさに対して、ということが根本にあります。

日本においては個人よりも共同体が重んじられることが根強く感じますが、和とか絆は勿論良い面はありますが、
その逆もあるわけです。つながりはすべて良いとは限らないはずです。地域、世間、社会の、国の価値観がすべて正しいとは言えないからです。

義が偽りに、、、生が死に、、、そういうつながりに同調することは嘘に違いない。



真実に生きるために
常に様々な価値観や事柄に対して、自らに「どうして」と問いかけることが真実に生きることに欠かせません。
それから、もし世間や社会に批判や侮辱されてもそれ以上の何かがあるかが自分に嘘をつかずに真実であるために必要なことであると思います。
他にも言えるでしょう。

人は弱いからつながりたいし、自分を守りたいから様々なつながりを持とうとするけれども
真に自分を生かし、ありのままの自分であり続けるためにまずは自分に問い、考える人とならなければと思います。




私の父親像

2017-05-06 | 日記

「亭主元気で留守がいい」・・苦笑い・・・だけでは終われないですね。。。



父親不在という現状には、家庭的な要因、社会的要因があるのですが、子どもが父親不在の家で育てば傷になったり、家庭崩壊にもつながります。
また、その子どもが親になった時、父親のイメージがつかめず、結局伝統的な厳しい父、怖い父というパターンになるわけです。

厳しい、怖いといった父親としての威厳を否定したいのではなく、厳しさと優しさの両面が必要なのではと。。。

日々の歩みにおいて、ほとんど関わりがない父親が口を開けば、「あれがだめ、これがだめ」と厳しく叱っても、、子どもと良い関係を築くことや
父性の役割を真に果たせるのか、考える必要がありそうです。


個人的には、子どもが小学生ぐらいまでは父親も母親と同じように、愛情を注ぎ、その子を全面的に受け入れ「基本的信頼」を築けるように関わることが大事なことであると思います。

今春、娘が保育園に通い出しました。園の先生たちとも信頼関係を築きつつあることは何よりうれしいことです。
そこの園である一人の先生に親子関係の信頼を築く上で大切なことに気づかされたことがあったのです。

帰園時に園の先生が一日の報告をしてくださるのですが、一人だけ正直にマイナスの報告をしてくださったことがあったのです。
私の中ではこの先生は信頼できる先生になったのです。

これは親子の関係でも同じように言えると思います。
娘に悪いことをしたら、素直に「ごめんなさい」と言える関係でありたい。

信頼関係を築くには、表面的な口先だけのものではなく、「ありのままの自分で向き合う」ことが必要なのではないでしょうか。

父性の役割について、、、
父性の役割の重要性は子どもが成長し、自立したいという欲求が出てきたときなのだと思います。
社会との橋渡しをする存在としての役割です。

娘が社会の雑多な人間関係の中でもやっていけるようになるための、言わば良い道具になれるか、が重要なのだと思います。
そのために、まず「娘と交流をたくさん持たなければ」。

それを妨げるものは何か。。


家庭的な要因で言えば、夫婦の関係が大きいと痛感しております。
最近、夫婦で喧嘩してしまうことがあり、そういう時に子どもに近づきたいけれども
母親がいるので行けないということがあったのです。
夫婦の中をよくすることが子どもとの関わりを多く持てる要因の一つですね。反省です。。

最後に、、、
理想の父親像とは何かと聞かれたならば、、「分からない」といのが答えなのだと思います。
それぞれ、父親も子どもも環境も違うのですから、無理に「父親はこうであるべき」という形にはめ込まなくても良いのだと思います。

個人的には、もっと男性に対する働き方を含めた支援を社会全体で考え、取り組む必要があることと、
父親同士の子育てについて素直に「話し合える場」がもっと身近にあったら良いのになと、、。

ありのままの自分で向き合えるように。。









鐘の意味

2017-05-05 | 日記
引っ越しもやっと落ち着きつつあります。感謝。。。

新居で片づけ等を行っていたら鐘の音が、、カーン、カーン、カーン、カーン、カーン。。。

鐘と言えば、学校のチャイムを思い起こすのは私だけでしょうか??

あのチャイムの原曲はイギリスの人が作られたようです。
後に教会で使用され、日本では1950年代に始めて学校で使われたとあります。
『ウェストミンスターの鐘』として知られていますね。。。。
このメロディには、歌詞がつけられているそうです。
教会の壁にその歌詞が刻まれているとか。。。

以下引用
ビッグ・ベンの時計室の壁に刻まれている公式の歌詞。聖書「申命記(しんめいき)」の文言を踏まえた内容となっている。

All through this hour
Lord, be my guide
And by Thy power
No foot shall slide.

全ての時をとおして
主よ 導きたまえ
汝の御力によって
迷いは消え去る


この歌詞は鐘やチャイムの音はただ人に時を知らせ、物事の始めや終わりを意味しているだけではないことを考えさせてくれる歌詞ではないでしょうか。
ある人は時は金なりという言葉のように限りある時を管理し、大切にしています。。常識ですね。

でももっと根源的な事柄はないのでしょうか。。

私にとって時は「神の手の中で生かされているいのちであることを確認し、神の手の中で生きることを望むこと」。。。




いずれにせよ限りあるいのち。。。一刻一刻と時は進んでいます。
あなたにとって鐘(時)の意味を考えることはよさそうです。




あなたを最も輝かす光

2017-05-02 | 日記
新緑の季節

植物のいのちが最も躍動しているように見えます。
冬の時期は、一見、枯れ果て死んでしまったかのように感じてしまうのだが、、、

人にも当てはまることもありそうです。

一見、苦しそうな、、、死んでいるかのように見えるが、、、
実は違うということもあるようです。

そういう人は葉や実を成らすことができるよう、力を蓄えることに集中しているのです、。

もう一つ、、、新緑は太陽の光によってより輝いて見えます。

人間もそういうこと言えそうです。
ある人は仕事をしているとき輝いて見える、ある人は尊敬する人といる時、、、

でも、太陽のようにより大きな光によって照らされるなら、、、もっと輝けるはずです。

あなたが人間や仕事を超えるようなどでかい光に照らされますように