ゴールデンウイークも終わり、忙しく過ごされているのではないでしょうか。
5月はゴールデンウイークの他にも「母の日」という重要な日がありますね。
一人の母を今日は紹介させて頂きます。
1912年、高知県で生まれた田内千鶴子は、朝鮮総督府の官吏であった父について7歳で韓国の木浦に渡り、
文化の違う朝鮮半島での暮らしが始まりました。木浦で高校を卒業し、母校で音楽教師として働くようになり、
それと同時に木浦の孤児院(児童養護施設)「共生園」でボランティアを始めました。
当時、朝鮮半島は日本の圧政下にあり、貧しさと戦争により町は崩壊し、人々の心には希望もなく堅く閉ざされていました。
孤児の世話は行き詰りは当たり前でありましたが、千鶴子はそこで共に働く、教会の牧師ユンと共に懸命に活動したのであった。
その後、二人は結婚したのであるが、二人の結婚に対して周りの強い反対があったことは当然のことであった。
日本人と韓国人 そこにあるのは、、、怒り、憎しみ、差別、偏見、
しかし千鶴子の母は「結婚は国と国がするのではなく、人と人がするものです。神様のもとに、韓国人とか日本人とか区別はありません。」
と言う言葉を語ったそうだ。
共生園の子どもたちは、ユンと千鶴子に愛されて育ちました。千鶴子はオルガンを子どもたちに教えました。
子どもたちが家族との別れの寂しさや悲しみ、そして満足に食することもできないひもじさに苦しむ時、
オルガンを弾いて一緒に歌い、子どもたちを励ましました。千鶴子の献身的な愛は子どもたちと周囲の大人たちをも
心打つものがあった。
しかし、1950年に朝鮮戦争が勃発し、夫ユンが消息不明となってしまいます。
一人残された千鶴子は、孤児たちを養うために、無我夢中で働きました。
自らリヤカーを引き、食料を集め、夫の帰りを信じて待ちながら、子どもたちを守り続けました。
懸命に働き続ける千鶴子に追い打ちをかけるように苦しめたものは、日本人という「偏見」であった。
そんな千鶴子の唯一の慰めかつ拠り所は神であった。
1965年、千鶴子は木浦市民賞を受賞し、国を越えた愛は全国に広がっていった。
30年間で3000人の孤児を育てた千鶴子。1968年10月31日召天。その日、彼女の死のゆえに
「木浦は泣いた」と伝えられるほどでした。
今も共生園において彼女が残した「愛」は残っています。
死んでなお、その豊かな実を結び続けているのであります。
千鶴子の愛の足跡は今を生きる私たちに何をものがたり、教えてくれるでしょうか。。。
私自身、孤児院で育った者として、彼女は母として親近感が持てます。
施設の母は、決して善人ぶらず、おしつけがましくなく、自分が認められたいために子どもの世話をしてはいなかった。
ただいつも、愛の眼差しで私を見、真に向き合ってくれた母であった。
母の日、それは私にとって特別な日です。母がいなければ今の私は存在していないかもしれないから。。
今、家庭を持ち、献身的に働く妻に心から感謝したい。
同じように、教会の母たちにも 心から感謝。。
娘が保育園に通っています。保育園の母にも感謝。。
義理の母にも感謝します。
私を案じて関わっておられる母にも感謝します。
母の献身的な愛は偉大です。。