前回は、昼ご飯を食べたところまで書きました。
その続きです。
昼食後、藤野先生や他の生徒たちと別れて家族単位の単独行動に移った私たちは、トゥモローランドの劇場で行われるショー『ワンマンズ・ドリーム』を観に出かけた。
しかし、ここで計画に狂いが生じる。
ガイドブックによれば、収容人員1000人とあったので「会場に行けばすぐに入れるだろう」程度に、軽く考えていたのが失敗だった。
身近な感覚で1000人といえば、私が住む町の全人口の三分の二超に相当する数字である。
そうそう簡単に集まる人数ではないと踏んでいたが、私たちが訪れた開演15分前、会場はすでに満席であっさり入場を断られてしまった。
「次の公演は13時10分に始まります。できれば、12時半頃から劇場前にお並び頂きたいのですが…」
妻が担当のキャストから説明を受ける。
キャストの言葉使いは実に丁寧で物腰も柔らかいが、話の内容はまったくシビアだ。
つまりは、1時間後ここに戻って来てくれ。 そして30~40分並んでくれ。 そうしないとショーは観られないぞ、ということなのですね?
了解です。
我々、今日はいくらでも並ぶ覚悟は出来ています。 後ほどまた出直して参ります。
○
1分たりとも、無駄にしたくはない。
その場で妻と協議。
指定の時間よりやや早いものの、最初の二枚のファストパスを利用して『プーさんのハニーハント』に入ることに決定した。
残念ながら、ディズニーランドのバリアフリー化は大幅に遅れている。
車椅子利用者で、自力で座位を取れないのの子が利用できるアトラクションは、ごく一部に限られている。
『プーさんの…』も、その例外ではない。
中へ入れない私とのの子は、屋外待機。
笑顔で手を振り、アトラクション内へ姿を消す妻とニコを見送る。
ニコよ、君にはハンディを負った姉の分も合わせて二人分、楽しんでくる義務と責任があるのだぞ。
目の前を行き交う人の群れをぼんやり眺めながら、のの子とふたりで、妻とニコの帰りを待つ。
大層な人出に思えるが、ピーク時は一日に七万人だか八万人だかを記録するというディズニーランド標準からすれば、これでも客足は少ないほうかもしれない。
ポップコーンを売るワゴンから、キャラメル風味の甘い匂いが漂って来る。
すぐ近くで聞こえる『世界はひとつ』のメロディー。
うすぼんやりした青い空。
食前に注入した薬が効いてきたのか、のの子がバギーの上でうつらうつら居眠りを始める。
私の目の前に広がるのは、いま地球上で「もっとも幸福な風景」のひとつかもしれないなあ。
ふと、そんなことを思う。
20分あまり待っていただろうか、アトラクション出口に妻とニコが姿を現した。
「おや?」
遠目なのではっきりと分からないが、ニコが左腕に何やらホワホワモコモコしたものを大事そうに抱きかかえている。
母娘が近づくにつれ、ホワホワモコモコの正体が明らかになる。
ニコがひしと胸に抱いているのは、プーさんのぬいぐるみでした。
アトラクションの出口近くに、みやげ物を売る小屋があって、あまりの可愛さに心惹かれたニコが何のためらいもなく、自分の財布に入っていた小遣いを全てはたいて買ったのだとか。
「これで、お前の好きなものを買って来い」
そう言って、北海道を発つ前、バアチャンから餞別にもらった虎の子の三千円は、朝日に当たった霜のように一瞬にして彼女の財布から跡形もなく消え去ったのでありました。
○
ミッキーマウスが主役のミュージカル・ショー『ワンマンズ・ドリーム』に再びチャレンジ。
私とニコは、開演40分前から行列に加わる。
妻は、のの子の導尿のため、バギーを押してトイレへ向かう。
1時近くなって、行列の先頭がじわりじわりと動き出す。
入場案内が始まったようだ。
早々に並んだ甲斐あって、私とニコは、自由席の舞台正面ほぼ最前列に近い座席を確保することに成功した。
妻とのの子は、少し離れた車椅子専用席に案内される。
これから私たちが観るショー『ワンマンズ・ドリーム』には、正式には『ザ・マジック・リブズ・オン』という副題が添えられている。
超訳すれば「ウオルト・ディズニーの夢 ~魔法は永遠に~」という意味になるだろうか…。
ショーの内容は、まだ白黒映画時代のミッキーが初めてスクリーンに登場してから、ディズニー名作アニメのハイライトシーンを華麗な歌とダンスで辿るというもの。
ミニーマウスやドナルドダックはもちろんのこと、『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』等々に登場する王子様、お姫様、悪い魔女たちが、てんこ盛りになって次々ステージに現れる。
スーパー歌舞伎のようにピーターパンが空を舞い、松明(たいまつ)の形状をした発火装置から「ぶふわっ、ぶふわっ」と仕掛けの炎が噴き上がる。
その都度、熱波が観客に押し寄せる。
「空気が熱いよ! お父やん、本物の火だよ!」
焦がされてはたまらないとばかり、プーさんのぬいぐるみを胸に抱え込みながら、ニコが驚嘆の声をあげる。
至近距離なので、ダンサーの皆さんの化粧や汗がくっきりと見える。
余計なお世話と知りつつ、化粧崩れしないものかと気にかかる。
「ファンタスティック!」 というより、リアリスティック…。
○
ショータイムが終わった時点で、次はスイーツタイム。
(我が家のスイーツ番長である妻が、ガイドブックによる事前学習で熟慮の結果「これでいきましょう」と決断を下した) 「ティポトルタ」という名前の菓子を売るワゴンを探して歩く。
ティポトルタとは、クリームをかりかりのパイ生地でロールした人気の一品で、夏季限定で冷製クリームの入っているバージョンがお勧めであると、攻略本に説明があった。
耐えられない暑さではないが、今日の気温はおよそ25℃ほど。
さっぱり冷たい味覚で、口の中からクールダウンするのも悪くない。
探していたスイーツは『世界はひとつ』近くにあるワゴンで販売されていた。
「私、並んでくるわ」
ここはスイーツ番長の妻が、家族代表で行列に加わることを志願の立候補。
ほどなく、ふたつをお買い上げ。
ところが。
念願のティポトルタに狂喜するかと思いきや、それを左右の手に持って、私たちの待つ場所へトコトコ歩いて戻って来るスイーツ番長の表情が、どことなく冴えない感じ。
何かあったのか、スイーツ番長? 急にトイレにでも行きたくなったか?
「はい、お待たせ」
妻から紫芋クリーム味のティポトルタを手渡された瞬間、すべての謎は解けた。
え? ええっ? なにこれ、温かいじゃん!
なんとまあ、ワゴンで売られていたのは“ホット”ティポトルタだったのである。
夏季限定冷製クリーム味は8月いっぱいの販売だったのでしょうか、Mr.ウォルト?
夫婦とも、隠しきれないショックに顔を歪めながら、ほくほくティポをさっくりかじる。
そりゃまあ、旨いことは旨いのですが、でもやっぱり…。
○
藤野先生と再合流した私たちは、続いて『フィルハー・マジック』に向かった。
『フィルハー・マジック』は驚異の3D映像で、ドナルドダックと共にディズニー映画の世界を旅するアトラクション。
入口で手渡された専用の眼鏡をかけて家族四人と藤野先生の合計五人、横並びに席を取る。
「いいの? 3Dは嫌いなんでしょ?」 妻が訊ねる。
劇場公開される映画に関しては「絶対、見るわけにはいかない」と、頑なに3Dを敬遠している私だが、ここで意地を張るほど野暮ではない。
眼鏡のかけ具合を微調整しているうちに、上映開始のブザーが鳴る。
ドナルドダックが竜巻の渦に呑み込まれるシーンでは、頬に微風が吹きつけ、
テーブル一面にご馳走が並ぶ絵では、どこからともなく甘い香りが漂い、
キャラクターが池に飛び込む場面では、ピシャッと顔に水しぶきが降りかかる。
手堅い演出が、我々観客を楽しませる。
座席のどこかに秘密装置が隠されているのだろうが、暗闇の中では探すべくもない。
アラジンやジャスミンと絨毯に乗って空を舞ったり、ピーターパンやウェンディーとビッグベン上空を旋回したり、その浮遊感は圧巻でした。
「あ、危ないっ!」
勢いよくスクリーンを飛び出したドナルドダックとぶつかりそうになって、思わず体を避けそうになる。
「いかん、いかん。 私としたことが…」(そんな自分が、ちょっと恥ずかしい)。
ひとつ、恰好の嘘を思いつく。
上映終了後、出口へ歩きながら、私はニコに話しかけた。
「お父やんさぁ、ほんの一瞬だけれど、ドナルドの足に触われたよ」
「ええーっ!」
期待通り、大げさな反応を示すニコ。
「嘘でしょ? ねえ、お父やん、それって嘘なんでしょ?」
何度もしつこく聞いてくるが、私はニヤニヤ笑って答えない。
本当だってば。 ほんの一瞬だけどね、父はドナルドの足に触わることに成功したんだよ。
○
ここで私たちは、二つのチームに別れた。
私とニコは、あとから入手したほうのファストパスを使って『プーさんのハニーハント』へ。
ディズニーランドきっての人気アトラクションを、一日に二回も楽しめる次女は、相当な幸運児といえよう。
はちみつの壺を模した乗り物で、父娘仲良く百エーカーの森を巡る。
「プーさん、青い風船につかまって飛んでっちゃうんだョ~」とか、
「見てて。今度はね、ティガーがぴょんぴょん飛び跳ねるからね!」とか、
先回りして絵本のページをめくるように、ニコが得意満面にこれから起こる出来事を予言する。
『プーさんの…』で占い師気取りのニコが、次々未来の予言を的中させてている頃、我が家のAチーム(のの子と妻と藤野先生)は、マークトゥエイン号に乗船し、ゆったり園内をクルーズしていた。
昨日の飛行機搭乗に次いで、船に乗ることも、のの子には人生初めての体験である。
擬似(なんちゃって)蒸気船の甲板にバギーを据えて、擬似ミシシッピー河を下り、擬似赤茶けた岩山を見上げ、擬似インディアンと挨拶を交わす。 「ハ~オ!」。
で、肝心ののの子は蒸気船クルーズを楽しめたのだろうか?
実際のところ、乗船から下船まで一貫して彼女は、バギーの上で熟睡していたらしい。
「せっかくディズニーランドへ来たというのに、ちょっと虚しかったなあ…」と、妻は言う。
いやいや。
短絡的に悲観したり残念がる必要はないと、私は思う。
のの子が熟睡できるときは、けいれん発作や筋緊張に伴う肉体的苦痛から解放されて、心身ともリラックスしている状態にある場合に限りますから。
甲板で風に吹かれながら、つい迂闊にも昼寝をしないではいられないくらい、のの子には何とも心地よい昼下がりのひとときだったのでしょう。
○
「食べる? クリッターサンデー」
待ち合わせ場所にたどり着いた私とニコの鼻先に、妻がマークトゥエイン号の降り場近くのワゴンで買ったスイーツを突き出した。
「クリッターサンデー…」 何ですか、それ?
「コーンフレークとソフトクリームとチュロス。正真正銘、冷たくて美味しいよ」
そうか。
先ほどの恨みを晴らして、念願の冷たいスイーツにたどり着いたのだね、君は。
カップに刺さった、ストローのように細長いチュロスは、輪郭がミッキーマウスの顔になっている。
芸の細かさは、ここでもなかなかの徹底ぶりである。
引き抜いたチュロスを齧って、ソフトクリームをひとさじ舐める。
爽やかな涼味が舌の上に広がった。
○
午後の部、最後はトゥーンタウンに移動。
ニコがもっとも楽しみにしていた『ミニーの家』へ。
このアトラクションは待ち時間をあまり必要としないうえ、バリアフリーなので、姉妹いっしょに楽しめる点が有難い。
私と藤野先生は中に入らず、周辺の写真を撮るなどしながら建物の外で待つ。
『ミニーの家』の正面には、小さな噴水と広場が設けられている。
噴水の中央には、(あたかも勇壮なマーチを奏でるかのように)指揮者に扮したミッキーが勢いよくタクトを振る銅像が立っている。
流れ落ちる水飛沫に、傾きかけた日差しが当たる。
「お父さん、5時から食事になっていますから、そろそろホテルへ戻らなければいけない時間になってきました」
藤野先生が、落ち着きなく時計に目を走らせて言った。
「4時半ですか」私も慌てて時刻を確認する。「急がなければなりませんね」
浮かれ気分でうっかり忘れそうになっていたが、これは長女が在籍する高校の修学旅行。
一般の家族旅行ではないのだから、団体の一員として決められたルールは遵守すべきである。
私たちが引き起こした不祥事で、藤野先生が責任を問われるような事態は極力避けたい。
それにしても、わずか30分ほどで、ホテルの食事ルームまで帰れるだろうか…。
藤野先生と私は『ミニーの家』の出口で、三人が現れるのを待ち伏せ。
そして、妻と娘たちが出てくるや否や、
「さあ、早く早く」
左右から挟み撃ちにして、人攫いのように腕を取って歩き出した。
最初は五人ひとかたまり、小走りくらいの速さで歩いていたが、徐々にニコの足取りが怪しくなる。
それでもしばらく、母や姉たちに遅れを取るまいと頑張っていたが、
「ニコ、もう駄目。疲れた…」
泣きそうな声で一言つぶやくや、急激に失速してしまった。
この広いランドで置き去りにするわけにもいかず、ニコに合わせて私も歩調を緩める。
無情にも、前を行く三人の背中がみるみる遠ざかって行く。
シンデレラ城の尖塔に懸かる雲が、淡い橙色に変わり始めている。
「姉えたんたちさえ、晩ごはんに間に合えばいいよ。お父やんとニコは、ゆっくりでもいいから。マイペースで帰ろう」
私は、疲労困憊の次女を励ました。
すると、この一言のどこがカンフル剤的効果をもたらしたものやら、故障寸前の車のように今にも止まってしまいそうな様子だった次女が、
「よし。ニコ、頑張る」
何を思ったか俄然生気を取り戻し、すたすた歩き出したのには驚いた。
のの子と妻と藤野先生は、夕食時間ぎりぎりに、すべり込みでホテルに帰着。
私とニコも、Aチームに5分ほど遅れただけで、生徒や教員の皆さまと一緒に夕食のテーブルを囲むことが出来た。
ニコ、見事なⅤ字回復でした。
○
午後6時。
素早く夕食を終え、シャワーでささっと汗を流した私は『スター・ツァーズ』にエントリーするため、単身ディズニーランドへ舞い戻った。
『スター・ツァーズ』は、映画『スターウォーズ』をベースにした3Dアトラクション。
伝説のスペースファンタジー『スターウォーズ』の第一作が封切られたとき、私はまだ紅顔多感な中学二年生。
いわゆる“SW直撃世代”の面子にかけて、今日私がこれだけは絶対外せないアトラクションをひとつ挙げるとすれば、即ちこの『スター・ツァーズ』だった。
結論から言うと、30分待たされはしたものの、我慢に見合うだけの満足を得て(あるいは、その二倍、三倍に及ぶ満足を得て)、私は宇宙大冒険旅行から無事帰還したのであった。
まるでXウィング・スターファイターに乗ったかのような高速感覚で、急上昇と急降下を繰り返しながら、銀河宇宙を飛び回る。
シートベルトを装着し、固定されたイスに座っているだけなのだから、高所恐怖症の私でも無重力状態や高速落下の恐怖を安心して楽しむことが出来る。
W.ディズニーとG.ルーカス。
二十世紀を代表する二人のクリエーターによる、超プレミアム級最高贅沢なコラボレーションでした。
○
午後7時。
すでにとっぷり日は暮れて、いよいよ本日の最終決戦『エレクトリカルパレード』の時間が近づいてきた。
つかの間の宇宙旅行から帰って来た私は、再入園した養護学校一団をワールドバザールにてお出迎え。
「ステキ♡ ステキ♡」
絢爛豪華な夜のディズニーランドに、妻が目を輝かせる。
グッズを売るショップの賑わい、洋式建築物を縁取る色とりどりの電飾、軒先に吊り下げられた極彩色のランターン、ますます興奮のボルテージを高めていく人々の群れ…。
のの子の周囲で、先生方も生徒たちも皆、こぼれそうな笑顔を浮かべている。
「見て見て、似合うでしょ。ホテルで着替えてきたんだよ」
ニコが両手で怪物サリーのTシャツの裾を引っ張りながら、自慢げにぐいと胸をそらせてみせる(ちなみにのの子は、ミニーちゃんの黒Tシャツに衣装替え)。
夜の遊園地の空気には、非日常の度合いを何倍もの大きさに膨らませてみせる、魔性の酵母菌がふんだんに含まれている。
〇
午後7時30分。
ついに始まりました、東京ディズニーランドが誇るメインイベント『エレクトリカルパレード』!
感謝すべきことに、私たち養護学校一行には、至近距離でパレードを楽しめる車椅子専用スペースが与えられる。
いつもなら薬の服用後、たちまち眠りの森に落ちて行くのの子も、今夜ばかりはむんむん立ち込める熱気と人いきれに当てられ、バッチリ目を見開いている。
準備万端整いました。
フライパンの上でポップコーンが弾けるような、あのメロディーが園内に響き渡り、パレードの先頭が通過したらしい方角から、どっと歓声が上がる。
来るぞ、来るぞ、来るぞ。
私の心臓も、曲に合わせて、ぴょんぴょん上下に飛び跳ねる。
間もなく、ピノキオに生命を与えた青い妖精を先頭に、光の粉をまき散らしながらフロート(山車)の行列が、養護学校一団が待ち受ける車椅子専用スペースを目指し、しずしずと近づいて来た。
イルミネーションの灯りが、沿道に集う人々の笑顔をきらきら明るく照らし出す。
アリスのチシャ猫、白い煙を吐く緑の恐竜、白雪姫、ピーターパンと海賊船、魔法のランプの巨人、プーさんと森の仲間、シンデレラ姫、ティンカーベル、イケメン王子たち…。
精霊流しの紙灯篭が川を流れるように、カラフルに煌めく光の放列が、次から次へ目の前を通りすぎて行く。
妻と娘たちの後列に控え、私は休みなくカメラのシャッターを切り続ける。
○
最後のフロートが去って行った。
のの子の友達は、このタイミングでホテルへ引き揚げたが、藤野先生と私たち家族だけはランドに居残り。
まだ夢の中にいるような微熱を帯びた静かな興奮と、祭りの後を思わせる穏やかな溜め息の混ざった空気が、しばし園内を包み込んだ。
けれどそれも、ほんのわずかの時間のこと。
アミューズメントパークの王様のご馳走メニューは、まだまだ終わらない。
引き続き8時30分から、プロジェクションマッピングの上映が始まるのだ。
正直に白状すると、東京駅のイベントや今冬ロシアで開催されたオリンピック開幕式で話題をさらった、このハイテクノロジー最新アートを私はあまり好きではない(何故だろう? 理由は特にありません)。
とにかくまあ、私の好みなどはどうでもよい。
藤野先生と私たち家族四人は、海に浮かぶ漂流物のように人波に押されたり、揉まれたりしながら、巨大スクリーンとなるシンデレラ城の正面広場へゆるゆる移動した。
夜は着実に更けていくにもかかわらず、人混みはまるで衰える気配がない。
「ニコ、何も見えない…」
クラスの中で、いちばんチビの次女が涙声で訴える。
確かに、彼女目線で見えるのは人の背中と頭だけだ。
「よし」 お父やんに任せろとばかり、気合を入れて胸の正面にニコを抱き上げる。
「見えるかい?」
「うん。 よく見える」 安心した声でニコが答える。
定時に、プロジェクションマッピング『ワンス・アポン・ア・タイム』の上映が始まった。
いったい、いつの間にニコはこんなに成長していたのだろう…。
まだまだチビだと高をくくっていたが、九才と十一か月の娘の体重に耐えかねて、私の腕や背中や腰の筋肉は、上映中ひたすら悲鳴を上げていた。
エレクトリカルパレードを楽しむことに最後の力を使い果たしたのの子は、藤野先生と妻に挟まれ、車椅子の上でご就寝。
昼間見たミッキーマウスのステージ同様、何度も炎が上がり、盛大な音楽が夜空に奏でられる。
その都度、群衆の間にどよめきと感動の波が広がる。
そんな中、ただ私一人だけが、ぎりぎり歯を食いしばり「もう沢山だ。早く終わってくれ。まったく、いつまで続けるつもりなんだ?」そう心の中で呪いの言葉を吐き続けていた。
やはり私は、この新しい芸術とひどく相性が悪いらしい。
○
プロジェクションマッピングを見届け、潮が引くように、多くの人々がどっと出口に向け大移動を始めた。
「じゃ、私たちもこのあたりで」
妻とのの子と藤野先生も、流れに乗ってホテルへ去る。
魔法が解けて、金色の馬車はただのカボチャに、白馬は元のネズミに戻る時間がやって来た。
のの子のディズニーランド体験は、ここで終わりを告げた。
「もう少し、遊んでいくかい?」
私の問いかけに、まだ余力の残る笑顔で「うん」とニコが頷く。
それでは、最後の思い出作りに、あとひとつかふたつアトラクションを探訪するとしよう。
さて、何がいいかな?
私とニコはファンタジーランドまで歩き、『アリスのティーパーティー』に参加することにした。
どこの遊園地でも必ず見かける“コーヒーカップ”の、紅茶バージョンという訳だ。
琥珀色のランターンに照らされた大ぶりのティーカップに、父娘向かい合って腰を下ろす。
音楽が流れ、カップが静かに動き出す。
周囲のお客さんを真似て中央のハンドルを回すと、フロアーを滑りながらカップが駒のようにくるくる回転する。
同時に、目の前の娘の笑顔もくるくる回転する。
○
最後の最後に、正統派アトラクション『世界はひとつ』に入る。
何組か先客はあるが、さすがにこの時刻ともなれば、列に並んで待たされるようなことはない。
水路をぷかぷかとボートに浮かびながら、10分余りで世界一周の旅。
氷の国、アフリカのジャングル、南太平洋の島々、ラテンアメリカのインディオ…。
各大陸で、子供や動物たちが歌と踊りでお出迎え。
ぬいぐるみが天井から吊り下がっていたり、明るい表情の人形たちが右に左にスイングしているだけの素朴な演出は、『スター・ツァーズ』で大興奮したばかりの感性にまるで物足りないものに映ったが、ニコのハートには、これくらいの穏やかさが程よくフィットしたらしい。
驚きに目を瞠ったり、声を立てて笑ったり。
むぎゅっとボートの縁を握りしめ、ヘソまで身を乗り出しながら楽しんでいた。
「これこれ。落ちないように気をつけなさい」
たびたび注意してみたが、ニコの耳に私の声は届いてないらしく、一度も返事は帰って来なかった。
人生最大級イベントの締め括りに、このアトラクションを選んだことは正解だったように思う。
地球は丸い。 世界はひとつ。 人類みんな仲良く暮らしていこう。
ふだんなら、右の耳から左の耳へ素通りしてしまいそうなありきたりの決まり文句が、今この時だけは、しっとり心に沁みていく。
フィナーレで子供たちの大合唱に送られ、アトラクションをあとにする。
「もっと遊びたい」 とは、さすがのニコも言い出さない。
人間その気になれば、たった一日でこれだけのボリュームを遊び尽くすことが出来るものなのだ。
我ながら、あきれた気分になる。
ニコと手をつなぎ、出口へと歩く。
「星に祈りを捧げるとき、あなたの夢は叶う」。
映画『ピノキオ』の主題歌の歌詞にそう謳われている。
今日、私たち家族の願いを叶えてくれたのはどの星だろう?
私はきらめく1等星を探し、夜空を見上げた。
ありゃりゃりゃりゃ…。
ランドの照明が、明る過ぎるのだ。
どこを探したって、星なんて、何ひとつ見えやしなかった。
○
《9月5日 金曜日 最終日》
二日目の朝と同じ。
早暁、ホテル周辺を散歩する。
東京湾を望みながら、何度か深呼吸。
深々と潮風を吸い込む。
ついでに肩をコリコリいわせながら、大きくゆっくり腕を回す。
明るさを増していく空を、海鳥たちがゆったりと舞う。
遥か水平線近くに東京ゲイト・ブリッジ。
恐竜のスケルトンが二頭、向かい合うように設計されたこの橋は別名「恐竜橋」というのだと、一昨日バスガイド女史に教わった。
すぐ目の前を、小型船舶が白い航跡を曳きながら通りすぎて行く。
○
昨日より30分早く、全員揃っての朝食は6時半。
今日も北原先生の舌は滑らかです。
「さあ、これからみんなでどこに行くの? ディズニーAかな? それとも、ディズニーB?」
話のオチが見えず、一同、なんとなく視線を落として無反応。
ディズニーA? ディズニーB?
実は私は(滑っても転んでも不死身のゾンビのように何度でも立ち上がる)北原先生の秘かなファンなのだが、そんな私にもこのギャグの意味するところが分からない。
気まずい沈黙の海で溺れそうになっている北原先生に助け舟を出したのは、父娘ほど年令の離れた川島先生でした。
「それを言うなら、ディズニー・シーでしょ? でも、行きませんよ。私たち今日は、旭川へ帰る日ですから」
さっすが、川島先生。
素早く、北原先生を孤立から救い出す見事なお手際。
お若いのに、しっかりしていらっしゃいます。
隣りのテーブルのベテラン先生が、スプーンで生徒にスクランブルエッグを食べさせながらぼそりとつぶやく。
「許してあげましょう。北原先生も、相当疲れていらっしゃるのよ」
こうして間もなく、私たち家族と養護学校一行の奇跡の三日間が終わろうとしていた。
誰も蚊に刺されなかったし(良かったですね)、日本テニス界の英雄は全米オープンの決勝進出を目指し、明日、ランキング1位の王者と激突する(頑張れ)。
我々はこのあと部屋へ戻り、大量の荷物をまとめ、8時にはホテルをチェックアウトしなければならない。
正面玄関でバスに乗り込み、9時に羽田空港に着いて、売店でおみやげを買って、10時45分発の飛行機で旭川へ帰る。
高層建築群、立体交差の道路網、集う大衆、ファッションの極致、圧倒的な物流量…。
未来都市トウキョウとさようなら。
大都会と真反対の、緑あふれる旭川の田園風景が翼の下に見えてくるとき、私はこう心の中で叫ぶだろう。
「わあ、自然え~ん。凄っごい、自然っ!」
○
2014年秋、のの子が空を飛んだ。
聞くところによると、のの子が籍を置く養護学校でも、修学旅行でディズニーランドへ行くのは十年ぶりの冒険だったとか。
いくつかの好条件と、ささやかな偶然と、先生方の熱意と、楽観的だった父兄と…。
それは、様々な要素が上手く歯車がかみ合うように有機的な作用をもたらした結果、達成できた壮挙であったようです。
中でも、添乗員氏や関係機関と粘り強く交渉を重ね、旅行計画を総合的にコーディネートしてくださったアーモンド男爵には、参加者の一人として改めて謝意を表したいと思います。
お疲れ様でした。
その続きです。
昼食後、藤野先生や他の生徒たちと別れて家族単位の単独行動に移った私たちは、トゥモローランドの劇場で行われるショー『ワンマンズ・ドリーム』を観に出かけた。
しかし、ここで計画に狂いが生じる。
ガイドブックによれば、収容人員1000人とあったので「会場に行けばすぐに入れるだろう」程度に、軽く考えていたのが失敗だった。
身近な感覚で1000人といえば、私が住む町の全人口の三分の二超に相当する数字である。
そうそう簡単に集まる人数ではないと踏んでいたが、私たちが訪れた開演15分前、会場はすでに満席であっさり入場を断られてしまった。
「次の公演は13時10分に始まります。できれば、12時半頃から劇場前にお並び頂きたいのですが…」
妻が担当のキャストから説明を受ける。
キャストの言葉使いは実に丁寧で物腰も柔らかいが、話の内容はまったくシビアだ。
つまりは、1時間後ここに戻って来てくれ。 そして30~40分並んでくれ。 そうしないとショーは観られないぞ、ということなのですね?
了解です。
我々、今日はいくらでも並ぶ覚悟は出来ています。 後ほどまた出直して参ります。
○
1分たりとも、無駄にしたくはない。
その場で妻と協議。
指定の時間よりやや早いものの、最初の二枚のファストパスを利用して『プーさんのハニーハント』に入ることに決定した。
残念ながら、ディズニーランドのバリアフリー化は大幅に遅れている。
車椅子利用者で、自力で座位を取れないのの子が利用できるアトラクションは、ごく一部に限られている。
『プーさんの…』も、その例外ではない。
中へ入れない私とのの子は、屋外待機。
笑顔で手を振り、アトラクション内へ姿を消す妻とニコを見送る。
ニコよ、君にはハンディを負った姉の分も合わせて二人分、楽しんでくる義務と責任があるのだぞ。
目の前を行き交う人の群れをぼんやり眺めながら、のの子とふたりで、妻とニコの帰りを待つ。
大層な人出に思えるが、ピーク時は一日に七万人だか八万人だかを記録するというディズニーランド標準からすれば、これでも客足は少ないほうかもしれない。
ポップコーンを売るワゴンから、キャラメル風味の甘い匂いが漂って来る。
すぐ近くで聞こえる『世界はひとつ』のメロディー。
うすぼんやりした青い空。
食前に注入した薬が効いてきたのか、のの子がバギーの上でうつらうつら居眠りを始める。
私の目の前に広がるのは、いま地球上で「もっとも幸福な風景」のひとつかもしれないなあ。
ふと、そんなことを思う。
20分あまり待っていただろうか、アトラクション出口に妻とニコが姿を現した。
「おや?」
遠目なのではっきりと分からないが、ニコが左腕に何やらホワホワモコモコしたものを大事そうに抱きかかえている。
母娘が近づくにつれ、ホワホワモコモコの正体が明らかになる。
ニコがひしと胸に抱いているのは、プーさんのぬいぐるみでした。
アトラクションの出口近くに、みやげ物を売る小屋があって、あまりの可愛さに心惹かれたニコが何のためらいもなく、自分の財布に入っていた小遣いを全てはたいて買ったのだとか。
「これで、お前の好きなものを買って来い」
そう言って、北海道を発つ前、バアチャンから餞別にもらった虎の子の三千円は、朝日に当たった霜のように一瞬にして彼女の財布から跡形もなく消え去ったのでありました。
○
ミッキーマウスが主役のミュージカル・ショー『ワンマンズ・ドリーム』に再びチャレンジ。
私とニコは、開演40分前から行列に加わる。
妻は、のの子の導尿のため、バギーを押してトイレへ向かう。
1時近くなって、行列の先頭がじわりじわりと動き出す。
入場案内が始まったようだ。
早々に並んだ甲斐あって、私とニコは、自由席の舞台正面ほぼ最前列に近い座席を確保することに成功した。
妻とのの子は、少し離れた車椅子専用席に案内される。
これから私たちが観るショー『ワンマンズ・ドリーム』には、正式には『ザ・マジック・リブズ・オン』という副題が添えられている。
超訳すれば「ウオルト・ディズニーの夢 ~魔法は永遠に~」という意味になるだろうか…。
ショーの内容は、まだ白黒映画時代のミッキーが初めてスクリーンに登場してから、ディズニー名作アニメのハイライトシーンを華麗な歌とダンスで辿るというもの。
ミニーマウスやドナルドダックはもちろんのこと、『白雪姫』『シンデレラ』『眠れる森の美女』等々に登場する王子様、お姫様、悪い魔女たちが、てんこ盛りになって次々ステージに現れる。
スーパー歌舞伎のようにピーターパンが空を舞い、松明(たいまつ)の形状をした発火装置から「ぶふわっ、ぶふわっ」と仕掛けの炎が噴き上がる。
その都度、熱波が観客に押し寄せる。
「空気が熱いよ! お父やん、本物の火だよ!」
焦がされてはたまらないとばかり、プーさんのぬいぐるみを胸に抱え込みながら、ニコが驚嘆の声をあげる。
至近距離なので、ダンサーの皆さんの化粧や汗がくっきりと見える。
余計なお世話と知りつつ、化粧崩れしないものかと気にかかる。
「ファンタスティック!」 というより、リアリスティック…。
○
ショータイムが終わった時点で、次はスイーツタイム。
(我が家のスイーツ番長である妻が、ガイドブックによる事前学習で熟慮の結果「これでいきましょう」と決断を下した) 「ティポトルタ」という名前の菓子を売るワゴンを探して歩く。
ティポトルタとは、クリームをかりかりのパイ生地でロールした人気の一品で、夏季限定で冷製クリームの入っているバージョンがお勧めであると、攻略本に説明があった。
耐えられない暑さではないが、今日の気温はおよそ25℃ほど。
さっぱり冷たい味覚で、口の中からクールダウンするのも悪くない。
探していたスイーツは『世界はひとつ』近くにあるワゴンで販売されていた。
「私、並んでくるわ」
ここはスイーツ番長の妻が、家族代表で行列に加わることを志願の立候補。
ほどなく、ふたつをお買い上げ。
ところが。
念願のティポトルタに狂喜するかと思いきや、それを左右の手に持って、私たちの待つ場所へトコトコ歩いて戻って来るスイーツ番長の表情が、どことなく冴えない感じ。
何かあったのか、スイーツ番長? 急にトイレにでも行きたくなったか?
「はい、お待たせ」
妻から紫芋クリーム味のティポトルタを手渡された瞬間、すべての謎は解けた。
え? ええっ? なにこれ、温かいじゃん!
なんとまあ、ワゴンで売られていたのは“ホット”ティポトルタだったのである。
夏季限定冷製クリーム味は8月いっぱいの販売だったのでしょうか、Mr.ウォルト?
夫婦とも、隠しきれないショックに顔を歪めながら、ほくほくティポをさっくりかじる。
そりゃまあ、旨いことは旨いのですが、でもやっぱり…。
○
藤野先生と再合流した私たちは、続いて『フィルハー・マジック』に向かった。
『フィルハー・マジック』は驚異の3D映像で、ドナルドダックと共にディズニー映画の世界を旅するアトラクション。
入口で手渡された専用の眼鏡をかけて家族四人と藤野先生の合計五人、横並びに席を取る。
「いいの? 3Dは嫌いなんでしょ?」 妻が訊ねる。
劇場公開される映画に関しては「絶対、見るわけにはいかない」と、頑なに3Dを敬遠している私だが、ここで意地を張るほど野暮ではない。
眼鏡のかけ具合を微調整しているうちに、上映開始のブザーが鳴る。
ドナルドダックが竜巻の渦に呑み込まれるシーンでは、頬に微風が吹きつけ、
テーブル一面にご馳走が並ぶ絵では、どこからともなく甘い香りが漂い、
キャラクターが池に飛び込む場面では、ピシャッと顔に水しぶきが降りかかる。
手堅い演出が、我々観客を楽しませる。
座席のどこかに秘密装置が隠されているのだろうが、暗闇の中では探すべくもない。
アラジンやジャスミンと絨毯に乗って空を舞ったり、ピーターパンやウェンディーとビッグベン上空を旋回したり、その浮遊感は圧巻でした。
「あ、危ないっ!」
勢いよくスクリーンを飛び出したドナルドダックとぶつかりそうになって、思わず体を避けそうになる。
「いかん、いかん。 私としたことが…」(そんな自分が、ちょっと恥ずかしい)。
ひとつ、恰好の嘘を思いつく。
上映終了後、出口へ歩きながら、私はニコに話しかけた。
「お父やんさぁ、ほんの一瞬だけれど、ドナルドの足に触われたよ」
「ええーっ!」
期待通り、大げさな反応を示すニコ。
「嘘でしょ? ねえ、お父やん、それって嘘なんでしょ?」
何度もしつこく聞いてくるが、私はニヤニヤ笑って答えない。
本当だってば。 ほんの一瞬だけどね、父はドナルドの足に触わることに成功したんだよ。
○
ここで私たちは、二つのチームに別れた。
私とニコは、あとから入手したほうのファストパスを使って『プーさんのハニーハント』へ。
ディズニーランドきっての人気アトラクションを、一日に二回も楽しめる次女は、相当な幸運児といえよう。
はちみつの壺を模した乗り物で、父娘仲良く百エーカーの森を巡る。
「プーさん、青い風船につかまって飛んでっちゃうんだョ~」とか、
「見てて。今度はね、ティガーがぴょんぴょん飛び跳ねるからね!」とか、
先回りして絵本のページをめくるように、ニコが得意満面にこれから起こる出来事を予言する。
『プーさんの…』で占い師気取りのニコが、次々未来の予言を的中させてている頃、我が家のAチーム(のの子と妻と藤野先生)は、マークトゥエイン号に乗船し、ゆったり園内をクルーズしていた。
昨日の飛行機搭乗に次いで、船に乗ることも、のの子には人生初めての体験である。
擬似(なんちゃって)蒸気船の甲板にバギーを据えて、擬似ミシシッピー河を下り、擬似赤茶けた岩山を見上げ、擬似インディアンと挨拶を交わす。 「ハ~オ!」。
で、肝心ののの子は蒸気船クルーズを楽しめたのだろうか?
実際のところ、乗船から下船まで一貫して彼女は、バギーの上で熟睡していたらしい。
「せっかくディズニーランドへ来たというのに、ちょっと虚しかったなあ…」と、妻は言う。
いやいや。
短絡的に悲観したり残念がる必要はないと、私は思う。
のの子が熟睡できるときは、けいれん発作や筋緊張に伴う肉体的苦痛から解放されて、心身ともリラックスしている状態にある場合に限りますから。
甲板で風に吹かれながら、つい迂闊にも昼寝をしないではいられないくらい、のの子には何とも心地よい昼下がりのひとときだったのでしょう。
○
「食べる? クリッターサンデー」
待ち合わせ場所にたどり着いた私とニコの鼻先に、妻がマークトゥエイン号の降り場近くのワゴンで買ったスイーツを突き出した。
「クリッターサンデー…」 何ですか、それ?
「コーンフレークとソフトクリームとチュロス。正真正銘、冷たくて美味しいよ」
そうか。
先ほどの恨みを晴らして、念願の冷たいスイーツにたどり着いたのだね、君は。
カップに刺さった、ストローのように細長いチュロスは、輪郭がミッキーマウスの顔になっている。
芸の細かさは、ここでもなかなかの徹底ぶりである。
引き抜いたチュロスを齧って、ソフトクリームをひとさじ舐める。
爽やかな涼味が舌の上に広がった。
○
午後の部、最後はトゥーンタウンに移動。
ニコがもっとも楽しみにしていた『ミニーの家』へ。
このアトラクションは待ち時間をあまり必要としないうえ、バリアフリーなので、姉妹いっしょに楽しめる点が有難い。
私と藤野先生は中に入らず、周辺の写真を撮るなどしながら建物の外で待つ。
『ミニーの家』の正面には、小さな噴水と広場が設けられている。
噴水の中央には、(あたかも勇壮なマーチを奏でるかのように)指揮者に扮したミッキーが勢いよくタクトを振る銅像が立っている。
流れ落ちる水飛沫に、傾きかけた日差しが当たる。
「お父さん、5時から食事になっていますから、そろそろホテルへ戻らなければいけない時間になってきました」
藤野先生が、落ち着きなく時計に目を走らせて言った。
「4時半ですか」私も慌てて時刻を確認する。「急がなければなりませんね」
浮かれ気分でうっかり忘れそうになっていたが、これは長女が在籍する高校の修学旅行。
一般の家族旅行ではないのだから、団体の一員として決められたルールは遵守すべきである。
私たちが引き起こした不祥事で、藤野先生が責任を問われるような事態は極力避けたい。
それにしても、わずか30分ほどで、ホテルの食事ルームまで帰れるだろうか…。
藤野先生と私は『ミニーの家』の出口で、三人が現れるのを待ち伏せ。
そして、妻と娘たちが出てくるや否や、
「さあ、早く早く」
左右から挟み撃ちにして、人攫いのように腕を取って歩き出した。
最初は五人ひとかたまり、小走りくらいの速さで歩いていたが、徐々にニコの足取りが怪しくなる。
それでもしばらく、母や姉たちに遅れを取るまいと頑張っていたが、
「ニコ、もう駄目。疲れた…」
泣きそうな声で一言つぶやくや、急激に失速してしまった。
この広いランドで置き去りにするわけにもいかず、ニコに合わせて私も歩調を緩める。
無情にも、前を行く三人の背中がみるみる遠ざかって行く。
シンデレラ城の尖塔に懸かる雲が、淡い橙色に変わり始めている。
「姉えたんたちさえ、晩ごはんに間に合えばいいよ。お父やんとニコは、ゆっくりでもいいから。マイペースで帰ろう」
私は、疲労困憊の次女を励ました。
すると、この一言のどこがカンフル剤的効果をもたらしたものやら、故障寸前の車のように今にも止まってしまいそうな様子だった次女が、
「よし。ニコ、頑張る」
何を思ったか俄然生気を取り戻し、すたすた歩き出したのには驚いた。
のの子と妻と藤野先生は、夕食時間ぎりぎりに、すべり込みでホテルに帰着。
私とニコも、Aチームに5分ほど遅れただけで、生徒や教員の皆さまと一緒に夕食のテーブルを囲むことが出来た。
ニコ、見事なⅤ字回復でした。
○
午後6時。
素早く夕食を終え、シャワーでささっと汗を流した私は『スター・ツァーズ』にエントリーするため、単身ディズニーランドへ舞い戻った。
『スター・ツァーズ』は、映画『スターウォーズ』をベースにした3Dアトラクション。
伝説のスペースファンタジー『スターウォーズ』の第一作が封切られたとき、私はまだ紅顔多感な中学二年生。
いわゆる“SW直撃世代”の面子にかけて、今日私がこれだけは絶対外せないアトラクションをひとつ挙げるとすれば、即ちこの『スター・ツァーズ』だった。
結論から言うと、30分待たされはしたものの、我慢に見合うだけの満足を得て(あるいは、その二倍、三倍に及ぶ満足を得て)、私は宇宙大冒険旅行から無事帰還したのであった。
まるでXウィング・スターファイターに乗ったかのような高速感覚で、急上昇と急降下を繰り返しながら、銀河宇宙を飛び回る。
シートベルトを装着し、固定されたイスに座っているだけなのだから、高所恐怖症の私でも無重力状態や高速落下の恐怖を安心して楽しむことが出来る。
W.ディズニーとG.ルーカス。
二十世紀を代表する二人のクリエーターによる、超プレミアム級最高贅沢なコラボレーションでした。
○
午後7時。
すでにとっぷり日は暮れて、いよいよ本日の最終決戦『エレクトリカルパレード』の時間が近づいてきた。
つかの間の宇宙旅行から帰って来た私は、再入園した養護学校一団をワールドバザールにてお出迎え。
「ステキ♡ ステキ♡」
絢爛豪華な夜のディズニーランドに、妻が目を輝かせる。
グッズを売るショップの賑わい、洋式建築物を縁取る色とりどりの電飾、軒先に吊り下げられた極彩色のランターン、ますます興奮のボルテージを高めていく人々の群れ…。
のの子の周囲で、先生方も生徒たちも皆、こぼれそうな笑顔を浮かべている。
「見て見て、似合うでしょ。ホテルで着替えてきたんだよ」
ニコが両手で怪物サリーのTシャツの裾を引っ張りながら、自慢げにぐいと胸をそらせてみせる(ちなみにのの子は、ミニーちゃんの黒Tシャツに衣装替え)。
夜の遊園地の空気には、非日常の度合いを何倍もの大きさに膨らませてみせる、魔性の酵母菌がふんだんに含まれている。
〇
午後7時30分。
ついに始まりました、東京ディズニーランドが誇るメインイベント『エレクトリカルパレード』!
感謝すべきことに、私たち養護学校一行には、至近距離でパレードを楽しめる車椅子専用スペースが与えられる。
いつもなら薬の服用後、たちまち眠りの森に落ちて行くのの子も、今夜ばかりはむんむん立ち込める熱気と人いきれに当てられ、バッチリ目を見開いている。
準備万端整いました。
フライパンの上でポップコーンが弾けるような、あのメロディーが園内に響き渡り、パレードの先頭が通過したらしい方角から、どっと歓声が上がる。
来るぞ、来るぞ、来るぞ。
私の心臓も、曲に合わせて、ぴょんぴょん上下に飛び跳ねる。
間もなく、ピノキオに生命を与えた青い妖精を先頭に、光の粉をまき散らしながらフロート(山車)の行列が、養護学校一団が待ち受ける車椅子専用スペースを目指し、しずしずと近づいて来た。
イルミネーションの灯りが、沿道に集う人々の笑顔をきらきら明るく照らし出す。
アリスのチシャ猫、白い煙を吐く緑の恐竜、白雪姫、ピーターパンと海賊船、魔法のランプの巨人、プーさんと森の仲間、シンデレラ姫、ティンカーベル、イケメン王子たち…。
精霊流しの紙灯篭が川を流れるように、カラフルに煌めく光の放列が、次から次へ目の前を通りすぎて行く。
妻と娘たちの後列に控え、私は休みなくカメラのシャッターを切り続ける。
○
最後のフロートが去って行った。
のの子の友達は、このタイミングでホテルへ引き揚げたが、藤野先生と私たち家族だけはランドに居残り。
まだ夢の中にいるような微熱を帯びた静かな興奮と、祭りの後を思わせる穏やかな溜め息の混ざった空気が、しばし園内を包み込んだ。
けれどそれも、ほんのわずかの時間のこと。
アミューズメントパークの王様のご馳走メニューは、まだまだ終わらない。
引き続き8時30分から、プロジェクションマッピングの上映が始まるのだ。
正直に白状すると、東京駅のイベントや今冬ロシアで開催されたオリンピック開幕式で話題をさらった、このハイテクノロジー最新アートを私はあまり好きではない(何故だろう? 理由は特にありません)。
とにかくまあ、私の好みなどはどうでもよい。
藤野先生と私たち家族四人は、海に浮かぶ漂流物のように人波に押されたり、揉まれたりしながら、巨大スクリーンとなるシンデレラ城の正面広場へゆるゆる移動した。
夜は着実に更けていくにもかかわらず、人混みはまるで衰える気配がない。
「ニコ、何も見えない…」
クラスの中で、いちばんチビの次女が涙声で訴える。
確かに、彼女目線で見えるのは人の背中と頭だけだ。
「よし」 お父やんに任せろとばかり、気合を入れて胸の正面にニコを抱き上げる。
「見えるかい?」
「うん。 よく見える」 安心した声でニコが答える。
定時に、プロジェクションマッピング『ワンス・アポン・ア・タイム』の上映が始まった。
いったい、いつの間にニコはこんなに成長していたのだろう…。
まだまだチビだと高をくくっていたが、九才と十一か月の娘の体重に耐えかねて、私の腕や背中や腰の筋肉は、上映中ひたすら悲鳴を上げていた。
エレクトリカルパレードを楽しむことに最後の力を使い果たしたのの子は、藤野先生と妻に挟まれ、車椅子の上でご就寝。
昼間見たミッキーマウスのステージ同様、何度も炎が上がり、盛大な音楽が夜空に奏でられる。
その都度、群衆の間にどよめきと感動の波が広がる。
そんな中、ただ私一人だけが、ぎりぎり歯を食いしばり「もう沢山だ。早く終わってくれ。まったく、いつまで続けるつもりなんだ?」そう心の中で呪いの言葉を吐き続けていた。
やはり私は、この新しい芸術とひどく相性が悪いらしい。
○
プロジェクションマッピングを見届け、潮が引くように、多くの人々がどっと出口に向け大移動を始めた。
「じゃ、私たちもこのあたりで」
妻とのの子と藤野先生も、流れに乗ってホテルへ去る。
魔法が解けて、金色の馬車はただのカボチャに、白馬は元のネズミに戻る時間がやって来た。
のの子のディズニーランド体験は、ここで終わりを告げた。
「もう少し、遊んでいくかい?」
私の問いかけに、まだ余力の残る笑顔で「うん」とニコが頷く。
それでは、最後の思い出作りに、あとひとつかふたつアトラクションを探訪するとしよう。
さて、何がいいかな?
私とニコはファンタジーランドまで歩き、『アリスのティーパーティー』に参加することにした。
どこの遊園地でも必ず見かける“コーヒーカップ”の、紅茶バージョンという訳だ。
琥珀色のランターンに照らされた大ぶりのティーカップに、父娘向かい合って腰を下ろす。
音楽が流れ、カップが静かに動き出す。
周囲のお客さんを真似て中央のハンドルを回すと、フロアーを滑りながらカップが駒のようにくるくる回転する。
同時に、目の前の娘の笑顔もくるくる回転する。
○
最後の最後に、正統派アトラクション『世界はひとつ』に入る。
何組か先客はあるが、さすがにこの時刻ともなれば、列に並んで待たされるようなことはない。
水路をぷかぷかとボートに浮かびながら、10分余りで世界一周の旅。
氷の国、アフリカのジャングル、南太平洋の島々、ラテンアメリカのインディオ…。
各大陸で、子供や動物たちが歌と踊りでお出迎え。
ぬいぐるみが天井から吊り下がっていたり、明るい表情の人形たちが右に左にスイングしているだけの素朴な演出は、『スター・ツァーズ』で大興奮したばかりの感性にまるで物足りないものに映ったが、ニコのハートには、これくらいの穏やかさが程よくフィットしたらしい。
驚きに目を瞠ったり、声を立てて笑ったり。
むぎゅっとボートの縁を握りしめ、ヘソまで身を乗り出しながら楽しんでいた。
「これこれ。落ちないように気をつけなさい」
たびたび注意してみたが、ニコの耳に私の声は届いてないらしく、一度も返事は帰って来なかった。
人生最大級イベントの締め括りに、このアトラクションを選んだことは正解だったように思う。
地球は丸い。 世界はひとつ。 人類みんな仲良く暮らしていこう。
ふだんなら、右の耳から左の耳へ素通りしてしまいそうなありきたりの決まり文句が、今この時だけは、しっとり心に沁みていく。
フィナーレで子供たちの大合唱に送られ、アトラクションをあとにする。
「もっと遊びたい」 とは、さすがのニコも言い出さない。
人間その気になれば、たった一日でこれだけのボリュームを遊び尽くすことが出来るものなのだ。
我ながら、あきれた気分になる。
ニコと手をつなぎ、出口へと歩く。
「星に祈りを捧げるとき、あなたの夢は叶う」。
映画『ピノキオ』の主題歌の歌詞にそう謳われている。
今日、私たち家族の願いを叶えてくれたのはどの星だろう?
私はきらめく1等星を探し、夜空を見上げた。
ありゃりゃりゃりゃ…。
ランドの照明が、明る過ぎるのだ。
どこを探したって、星なんて、何ひとつ見えやしなかった。
○
《9月5日 金曜日 最終日》
二日目の朝と同じ。
早暁、ホテル周辺を散歩する。
東京湾を望みながら、何度か深呼吸。
深々と潮風を吸い込む。
ついでに肩をコリコリいわせながら、大きくゆっくり腕を回す。
明るさを増していく空を、海鳥たちがゆったりと舞う。
遥か水平線近くに東京ゲイト・ブリッジ。
恐竜のスケルトンが二頭、向かい合うように設計されたこの橋は別名「恐竜橋」というのだと、一昨日バスガイド女史に教わった。
すぐ目の前を、小型船舶が白い航跡を曳きながら通りすぎて行く。
○
昨日より30分早く、全員揃っての朝食は6時半。
今日も北原先生の舌は滑らかです。
「さあ、これからみんなでどこに行くの? ディズニーAかな? それとも、ディズニーB?」
話のオチが見えず、一同、なんとなく視線を落として無反応。
ディズニーA? ディズニーB?
実は私は(滑っても転んでも不死身のゾンビのように何度でも立ち上がる)北原先生の秘かなファンなのだが、そんな私にもこのギャグの意味するところが分からない。
気まずい沈黙の海で溺れそうになっている北原先生に助け舟を出したのは、父娘ほど年令の離れた川島先生でした。
「それを言うなら、ディズニー・シーでしょ? でも、行きませんよ。私たち今日は、旭川へ帰る日ですから」
さっすが、川島先生。
素早く、北原先生を孤立から救い出す見事なお手際。
お若いのに、しっかりしていらっしゃいます。
隣りのテーブルのベテラン先生が、スプーンで生徒にスクランブルエッグを食べさせながらぼそりとつぶやく。
「許してあげましょう。北原先生も、相当疲れていらっしゃるのよ」
こうして間もなく、私たち家族と養護学校一行の奇跡の三日間が終わろうとしていた。
誰も蚊に刺されなかったし(良かったですね)、日本テニス界の英雄は全米オープンの決勝進出を目指し、明日、ランキング1位の王者と激突する(頑張れ)。
我々はこのあと部屋へ戻り、大量の荷物をまとめ、8時にはホテルをチェックアウトしなければならない。
正面玄関でバスに乗り込み、9時に羽田空港に着いて、売店でおみやげを買って、10時45分発の飛行機で旭川へ帰る。
高層建築群、立体交差の道路網、集う大衆、ファッションの極致、圧倒的な物流量…。
未来都市トウキョウとさようなら。
大都会と真反対の、緑あふれる旭川の田園風景が翼の下に見えてくるとき、私はこう心の中で叫ぶだろう。
「わあ、自然え~ん。凄っごい、自然っ!」
○
2014年秋、のの子が空を飛んだ。
聞くところによると、のの子が籍を置く養護学校でも、修学旅行でディズニーランドへ行くのは十年ぶりの冒険だったとか。
いくつかの好条件と、ささやかな偶然と、先生方の熱意と、楽観的だった父兄と…。
それは、様々な要素が上手く歯車がかみ合うように有機的な作用をもたらした結果、達成できた壮挙であったようです。
中でも、添乗員氏や関係機関と粘り強く交渉を重ね、旅行計画を総合的にコーディネートしてくださったアーモンド男爵には、参加者の一人として改めて謝意を表したいと思います。
お疲れ様でした。